根室半島チャシ跡群は、日本100名城の第1番である。
チャシは、アイヌ人の砦跡で、北海道で500ヶ所、根室市内に32ヶ所が確認されている。
そのうち、24ヶ所が国の史跡に指定された。
100名城のスタンプをもらうため、根室市歴史と自然の資料館へ向う。
花咲港の北東にあり、南に進むと花咲灯台車石があるところに位置し、
隣は花咲港小学校である。
「 レンガ造りの建物は、昭和十七年(1942)に、
大湊海軍通信隊根室分遺所として建設され、戦後は花咲港小学校として使用されたが、
平成二年から根室市郷土資料保存センターとして、郷土資料の収集、保存を行い、
平成十六年から根室市歴史と自然の資料館として、博物館相当施設の認可を受けた。
市内遺跡から出土した考古資料、ロシア初の遺日使節であるラクスマンの根室来航の資料、
樺太に設置された国境標石などの歴史資料、シマフクロウ、ラッコなど、
この地域を特徴づける自然資料を展示している。 」
所在地:根室市花咲港209番地 TEL:0153−25−3661
月、祝祭日、12/29-1/3休 9時30分〜16時30分
ここで、スタンプをゲットし、資料も手に入れたが、後日、地図を見ると、
根室駅前バスセンター前の観光インフォメーションセンター(0153-24-3104)の方が、
チャシ跡の場所に近いと思った。
なお、昼飯は風連湖にある、
道の駅スワン44ねむろで、花咲蟹ラーメンを食べた。
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資料館で、「 チャシ群の中で、ノツカマフ1・2号チャシ跡と、オンネモトチャシ跡が、根室市により、整備している。 」 と伺ったので、訪れることにした。
「 チャシは、北海道を中心に千島列島、樺太、東北地方の一部地域に見られる、独特な形状をした砦、または城の総称である。
チャシは、アイヌ語で、「柵囲い」 を意味し、砦・祭祀の場・見張り場など、
多目的な用途に使われていたとされる。
チャシは北海道で約五百ヶ所が確認されていて、道央から道北にかけて多く分布するが、
道内の自然の地形を巧みに利用し築かれた、簡易なものがほとんどである。
純粋な軍事施設というより、聖域などの側面も、もっていて、
祭祀に利用される場合が多かった。
また、部族同士の談合(チャランケ)や、漁業のための見張り場(鮭の遡上監視など)として、使用されることも多かった。
根室市内には32ヶ所のチャシ跡が現存していて、
これらの多くは、16世紀〜18世紀に造られたと考えられており、
海に面した崖上に、半円形や方形の壕が単独、もしくは、連結して構成されている。 」
花咲港から敷島町2交叉点に出て、右折して市役所前を通り、
その先の交叉点を左折して坂を下り、本町3交叉点へ出る。
右折して道道35号根室半島線に入り、道なりに進む。
出発して約一時間。
ノツカマフ1・2号チャシ跡は、
風力発電の二本の風車が立つところの左手にあった。
道道から左に入ったところに、二台分の駐車場があり、そこが入口である。
ここにある 「牧の内文化遺産」 の説明板には、
「旧海軍飛行機滑走路跡」 も表示されていて、滑走路は
道の手前の右手奥にあったようで、
飛行場建設の際には、根室駅から牧の内まで、引込線が引かれた、とある。
ノツカマフ1・2号チャシ跡があるところまでは、笹が茂る草原で、
ヒオウギアヤメなどの野生の花が咲いていた。
ノツカマフ1号跡と2号チャシ跡とが分岐するところに、説明板が建っている。
説明板の「ノツカマップの歴史」の部分
「 この地は、ノツカマップというアイヌ語地名で、
「 岬の上にあるところ 」 という意味である。
1754年(宝暦4年)には、松前藩の役人やこの地を経営する和人が住むようになりました。
1778年には、ロシアの商人・シャパーリンや、オチェレデンが、ノツカマップを訪れ、
交易を申し出ました。
1779年(寛政元年)には、この地域を治めていた和人が、
アイヌ民族に対し、過酷な労働や暴力的な支配を行ったことが原因で、
クナシリやメナシ(羅臼・標津)地方のアイヌ民族が、
和人七十一人を殺害する、 「クナシリ・メナシの戦い」 がおきます。
その後、松前藩は鎮圧隊を派遣し、戦いに加わったアイヌ民族三十七人を、
この地に集め、処刑しました。
それまで、ノツカマップはこの地方の中心でしたが、
この事件をきっかけに、現在の根室港周辺に中心が移りました。 」
説明板の「ノツカマフ1・2号チャシ跡」部分
「 ノツカマフ1号チャシ跡は、半円形の壕が、二つ連結していて、構成されています。
壕の幅は約5m、深さは2m〜3mと深く、壕の一部に、「土橋」
と思われる高まりがみられます。
ノツカマフ2号チャシ跡は、半円形の壕が1ヶ所巡り、
幅2〜3mで、深さ50cm程度と、壕が浅く作られています。
チャシ跡からは、北方領土の国後島や歯舞群島を見渡すことができます。 」
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道を右手に行くと、「国指定史跡 根室半島チャシ群 ノツカマフ1号チャシ跡」 の標柱が建っていて、その先には湾が広がっている。
標柱
「 ノツカマフ1・2号チャシ跡は、ノツカマップ湾に突き出した岬の上にある、
「面崖式」 のチャシ跡である。
オホーツク海を一望できる崖上に半円形の堀が巡る。 」 とあったが、
草が茂っているので、
確認は難しいが、左側の段差になっている(落ち込んでいる)ところが壕なのだろう。 <>
ノツカマフ2号チャシ跡へ向かう。
2号チャシ跡にも、標柱が建っている。
標柱に、「 チャシ跡は、十六〜十八世紀ころ造られたアイヌの砦跡です。
当チャシ跡は一条の半弧状の壕が掘られ、ノツカマップ湾を臨んでいます。
壕は深さ五十センチと、非常に浅く、完成されていないチャシかもいれません。 」 とあった。
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ノツカマフ2号チャシ跡は、
ノツカマップ湾に突き出した岬の先端にあり、右側の半円状になっている部分が、
壕跡と思われる。
チャシ跡の海側は崖で、海に落ち込んでいた。
続いて、オンネモトチャシ跡に向う。
「
オンネモトチャシは、根室市内から道道35号根室半島線で約40分、
納沙布岬から約10分のところにある。
その先は漁港である。 」
道道35号を15分程走ると、左側に入口の看板がある。
看板左折すると下り坂で、
四台程停まれる駐車場がある。
標示板には、「 その先はオンネモト漁港であるが、民家や漁港に入らぬように。 」 、と書かれている。
駐車場を出ると、「オンネモトチャシ跡→」 の看板と、
「温根元野鳥観察会→」の看板がある。
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坂を上っていくと、「オンネモトチャシ跡」 の説明板がある。
国指定史跡 根室半島チャシ跡群 「オンネモトチャシ跡」
「 チャシ跡は、アイヌ文化期(13世紀〜19世紀) の砦跡とされていますが、
チャシ跡の築造は、18世紀ころまでとされています。
砦のほかにも、見張場・聖地・祭祀場などの使われ方をしたようで、
その規模や形状は様々です。
北海道内には500以上のチャシ跡が確認されています。
特に、道東地方は、チャシ跡の分布密度が高く
、根室市内にはチャシ跡が32ヶ所現存しています。
そのほとんどが、オホーツク海を臨む、海岸段丘上に作られています。
根室半島のチャシ跡群は、保存状態が良好なこと、分布密度が高いこと、
寛政元年(1789)の和人のアイヌ民族に対する非道が発端の 「クナシリ・メナシの戦い」 と関連性が高いことから、根室半島に分布する24ヶ所が、
「根室半島チャシ跡群」として、
昭和58年に国指定史跡となっています。 」
説明板には、チャシ跡地図も付いている。
「
現在地とあるのは説明板のあるところ。
その先が丘陵地になっていて、その北側に二つの平坦面があり、
これがチャシ跡である。
チャシ跡は、丘先式・面崖式・丘陵式・孤島式の四つの形式に分類されるが、
根室半島では、岬や丘の一部を区切ってつくられた面崖式(めんがいしき)が一般的である。
オンネモトチャシは、岬や丘の先端に、孤状の壕により区画された、面崖式チャシである。 」 と書かれている。
説明板の所で、右折すると石段がある。
その上には、「オンネモトチャシ跡」 の標柱が建っているので、上って行った。
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平坦部に上ると、「根室市指定史跡 オンネモトチャシ」の標柱が建っていて、
その先に温根元漁港、ノサップ岬灯台が見えた。
「 オンネモトチャシは、
温根元湾の西岸に突出した岬の上に盛土して、
壕を区画し、盛土頂上に、平坦面を2ヶ所作り出している。
また、温根元漁港から側面を見ると、「お供え餅」 のように見え、
形が良好なチャシ跡として、知られる。 」
岬の先端に築かれたチャシを訪れると、周囲を巡る幾条もの壕(空堀)の様子がよく観察できる、
と聞いていたが、草に覆われているので、壕の跡か否かの判断は難しかった。
振り返ると来た道が見えたが、左側のチャシに対し、壕のように見えた。
温根元漁港へは入れれば、下記右の写真のような、「お供え餅」形のチャシ跡が
みられるが、漁港への立ち入りは遠慮とあったので、確認はできなかった。
以上で、根室半島チャシ跡群の見学は終了することにして、
最後に、寛政の蜂起和人殉難墓碑へ行く。
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車を北に進めて行くと、左側に半円形の赤茶の造形物があり、
近くに無線アンテナが立っている。
赤茶の造形物は、北方領土の返還を願う、四島のかけ橋である。
その先には、返還祈念の願いを込めた、「祈りの火のために」 という、
モニュメントがある。
また、北方領土の早期返還を願う、きぼうの鐘もあった。
その右手にあるのは、「寛政の蜂起和人殉難墓碑」 である。
説明板
「 寛政元年(1789)五月、
和人のアイヌ民族に対する、脅迫や非道行為によって追い詰められた結果、
国後島と現在の標津町・羅臼町付近のアイヌ民族が、和人七十一人を殺害した。
この出来事は、「クナシリ・メナシの戦い」 と呼ばれ、
最終的に、ノツカマップ(根室市牧の内)で、
戦いに関わったアイヌ民族三十七人が、和人によって、処刑された。
この墓碑は、殺害された和人七十一人の供養のために、
文化九年(1812)に造られたもので、明治四十五年、
納沙布岬に近い珸瑤ぼうの海中で発見されたという。
現地で保存されていたが、昭和四十三年、国後島を臨むこの地に移設された。 」
石碑には、漢字で記されていて、
「寛政元年五月に、この地方の凶悪なアイヌが集まり、突然反乱を起した。
偶然居合わせた侍や漁民、合計七十一人が殺された。
その姓名の記録は役所にある。 ここに合わせて供養し、この碑を建てる。
文化九年四月建てる。 」
という意味の文字が刻まれている。
「 この碑は、殺害された和人側の碑であるが、 和人の場所請負人が、アイヌ人たちを酷使し、越冬期の食糧の確保もままならない等、 番人らの度重なる横暴に耐えかえた、クナシリ島とメナシ地方のアイヌが立ちあがり、 ので、場所請負人や番人を殺害したもので、 石碑の内容は史実と異なる。 」
この碑の対面にある建物は北方館である。
北方館は、北方領土返還要求運動の発祥の地で、
北方領土問題の発生の状況や、歴史経緯を展示資料によって、閲覧できる。
その先の突き出た岬に、「返せ北方領土 納沙布岬」の石碑が建っている。
納沙布岬は根室半島の先端にあり、日本列島と最東端にある。
ここからは晴れていれば、北方領土の島が見えるとのことだが、
当日は濃霧で、見えなかった。
ここには、国後島などへの距離が書かれた足形があった。
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訪問日 令和三年(2021)七月二十日、
公共交通が利用できるのはオンネモトチャシのみである。
JR根室駅から根室交通バス「納沙布線」で35分、 「納沙布岬」で下車、
温根元漁港方面に徒歩約20分
根室半島チャシ跡には、日本100名城のスタンプは置かれていない。
スタンプ設置場所
根室市歴史と自然の資料館(0153―25―3661 根室市花咲港209 9時30分〜16時30分)
根室駅前の根室市観光案内所(根室市観光インフォメーションセンター 0153―24―3104 9時〜17時)
または根室市観光物産センター(0153-28-2445)にて