息子が競馬好きで、「育成牧場が見たい!!」という。
小生は、歌謡曲の
「えりもの春はなにもない春です!!」 あるので、興味を持ち、旅することになった。
千歳空港で、レンタカーを借り、苫小牧東ICから、日高自動車道(国道235号新道)に入る。
この道は内陸部の人里離れたところを走るが、
南の海に沿って続く国道235号(浦河国道)より、
時間短縮ができる。
むかわ町にはいると日高富山ジャンクションで、国道237号(日高国道)、に入る。
国道237号を北上すると、平取町に入る。
平取町の中心部を抜け、二風谷コタンへ行った。
「 平取の地名は、アイヌ語のピラウトウルで、「ガケの間」の意。
アイヌ民族は、江戸時代、青森県北部から、北海道(蝦夷)・千島・樺太に居住していた。
明治に入ると、内地から入植者が入り、町を形成すると、今まで住んでいたアイヌ人がその地を
追われるようになる。
大正五年(1916)に、新冠町からアイヌ人八十戸が移住させられたのが二風谷で、
その集落名が二風谷コタンである。 」
ここを訪れたのは、妻がアイヌ刺しゅうを見たい、という希望による。
それが置かれているのが、二風谷アイヌ文化博物館である。
「 二風谷アイヌ文化博物館は、平成四年(1992)の開館で、
アイヌ文化と歴史を伝えるため、設立された。
アイヌ民族は、明治以降、日本人との同和政策により、人口が減り、また、差別化を受けた。
その中で、「アイヌ民族を日本古来の民族である。 」 という、運動が行われ、
その一人が菅野茂二である。
この博物館は、1972年に開業した、彼の二風谷資料館の展示物を中心に構成されている。
なお、菅野茂二氏は、アイヌ民族初めて、国会議員になられた。 」
壁には、アイヌの衣装に施されアイヌ刺しゅうが展示されている。
館内の中央に、アイヌ人が使った手作りの舟があり、その先には道具類が展示されている。
訪れた頃は、アイヌ人が日本古来の民族であることが、認定される動きがあるころである。
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ジャンクションに戻り、日高自動車道を進むと、日高厚賀ICで終りになるので、
右折しして、道道208号に入り、国道235号に出る。
国道235号(浦河国道)を東に道なりに進んでいくと、新冠町に入る。
競走馬」の生産が盛んな町である。
海沿いの道を南下すると、判官館公園を正面に見るところで、
道は公園を廻るように、左に半回転をする。
その先の三叉路に、
サラブレっと銀座駐車場公園入口の信号交叉点がある。
直進すると、新冠町の中心に出る。
育成牧場を見る為には、左折して道道208号に入る。
道の左右に、点々と、競走馬の育成牧場がある。
広々した牧場には、競走馬が数頭自由に動いていた。
しばらく行くと、桜並木に駐車場があり、車を置く。
この左右の道は、二十間道路で、春には北海道随一の桜の名所になる。
この道路の両脇に育成牧場があるが、
一番奥にあるのが、優駿スタリオンステーションである。
所在地 新冠町朝日267-3
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馬舎には、白い柵から顔を出す馬がいて、柵に、馬の名前が表示されている。
息子は名前を呼びあげながら、その馬の成績などを説明してくれたが、競馬をやらない
小生は理解できなく、黙ってうなずいているだけである。
柵に、サクラチトセオーの名が書いてある。
「 サクラチトセオーは、1995年の天皇賞で優勝した。
同年のJRA最優秀5歳以上の牡馬部門賞に輝いた。
北海道静内町の谷岡牧場で生れた、牡の栗毛で、父親はトニービン、3歳の1992年にデビューし、3勝を挙げ、1993年の3歳の春、NHK杯3着、安田記念で2着、その秋の天皇賞では、
ナリタブライアンや、アイリッシュダンスをかわして、優勝した。
同年最後のG1の有馬記念では、3着に終り、引退した。
この馬は脚部が弱かったことから、試合数が21戦で終わったが、9勝を上げている。
この兄妹に、エリザベス女王杯で優勝した、サクラキャンドルがあり、極めて稀な
G1優勝兄妹馬になっている。
引退後は、種牡馬になり、今回、ここで出逢うことができた。
(注) その後、2014年に24歳で亡くなった。
子に、重賞優勝のラガーレグレスや、ナムラサンクスの父・メジャーリーガーがおり、、
レガルスイの母父になっている。 」
もう一頭のハンテイングホークは、アイルランド産の1990年生れの鹿毛の馬で、
1994年に供用を開始したが、フランスのG2で優勝、仏ダービーで3着、通算4戦で2勝、
種牡馬として輸入されたのだと思うが、
その子のホットシックレットが、ステイヤーズSで優勝2回、目黒S優勝、宝塚記念で
3着という記録が残る。
厩以外に、敷地内の柵に囲われたところに、一頭ずつ飼われている。
柵の中に、白毛の馬がいる。
オグリキャップでないだろうか?
「 オグリキャップは、1991年生れで、2010年に亡くなった。
オグリキャップは、岐阜笠松競馬場という地方競馬の馬だったが、
中央競馬に移り、重賞14勝、内、G14勝を上げた。
平成三強と称され、武豊とともに、後世まで語り継かれる存在になり、
多くのグッツが販売された。
引退後は、この牧場で種牡馬となったが、中央競馬で重賞優勝馬を出すことができず、
2007年で種牡馬を引退、引退後は、この施設で、功労馬として飼育されていたが、
2010年に足を骨折し、安楽死の処置が執られた。 」
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この日、宿泊したのは、日高ケンタッキーホームである。
白井牧場が観光施設として、開業したもので、
日本航空とタイアップして、日本航空のパッケージツアーとして、積極的に宣伝していた。
女性客に、「乗馬とファームステイ」 を目玉にしていた。
ホームページを見ると、アメリカ南部の西部劇に登場するよな雰囲気の造りに思え、宿泊した。
園内には、屋外スポーツ施設¥宿泊施設・コンベンションルーム・軽食コーナーなどがあった・
引退した競走馬が飼育されており、ダイキブリザードや、オフサイドトラックもいた。
しかし、バブルがはじけると、日本航空やs北海道開拓銀行が経営不振に陥り、また、
旅行客の流れも変わり、日高ケンタッキーホームは、平成十五年(2003)に経営破たん、
札幌の丸井今井百貨店、その後、門別町が再建を試みたが、平成二十年(2008)に、
閉園した。
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翌日、新ひだか町静内にある、アロースタットを訪れた。
ここでは、種馬を繋養している。
白馬のタマモクロスや、メジロパーマなどがいた。
「 タマモクロスは、1988年のJRA賞・年度代表馬、
JRA賞5歳以上牡馬、JRA賞最優秀父内国産馬である。
1987年から1988年にかけて、天皇賞(春)、宝塚記念、天皇賞(秋)と、
GT 3勝 を含む、8連勝をあげた。
白い稲妻と称された父・シビークロスになぞられて、父と同様、「白い稲妻」 と呼ばれた、
1998年の有馬記念が最後のレースとなる。<br>
オグリキャップに、半馬身及ばず、2着で終わる。
翌年1月、引退し、種牡馬として、シンボリルドリルと同様、10億円で売買され、
アロースタットの所有になり、種馬として飼育され、今回遭うことができた 」
メジロパーマーの名前がある。
「 メジロパーマーは、1987年生まれで、2012年に死亡。
1992年に、宝塚記念と有馬記念で優勝し、史上5頭目の春秋グランプリ制覇を果たした馬である。
古馬になって活躍したことや、逃げのスタイルから、
「遅れてやって来た逃亡者」 と、呼ばれた。
その他、1991年に、JVの札幌記念、1992年のJVの新潟大賞典、
1993年の阪神大賞典で勝利している。
八歳まで走り、8歳の9月に引退し、種牡馬になり、当牧場にきた。<br>
2002年まで種馬として、この牧場にいて、
種馬引退後は、生れた牧場のメジロ牧場洞爺で余生を送った。 」
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レックスタットは、アロースタットと、
同じ二十間通りにあるのせ、見学時間があえば、両方見える。
訪れた時は、観光バスを含め、多くの車が駐車している。
多くの種牡馬を所有し、優秀な競走馬を生産している牧場であるので、人気のある牧場である。
駐車場に構内地図があり、この牧場は、厩舎は2つで、見学者の立ち入りは禁止。
その他は、牧場内に点在する柵付きのゲージ(飼育所)だあり、その中に、馬が放牧されている。
案内板には、飼育されている種馬の名が表示され、飼育されている場所が書かれている。
「サンデーブランチ・イタリアンカラー」・「ミスターシービー」・「ダイナガリバート」・
「ゴールデンフェサント」・「パークリージェント」・
「フレース」・「コタシャーン」など、である。
自由に見学できるようになっているが、柵には馬の名前の明記がないので、
この地図を持っていかないと、馬の名の確認はできない。
一部の所で、飼育員が馬の世話をしている姿みられた。
馬が人に慣れていて、柵に近づくと、話しかけるようなしぐさが見られた。
小生と妻は、馬の名前の確認は放置し、飼育されている馬の表情に興味を持ち、
歩いた。
「 レックスタットなどの繋養牧場は、
優勝実績のある競走馬が引退すると、種牡馬を競りで購入し、
自分牧場へ移し、希望する生産牧場へ馬を貸し、種馬代をいたたくことを
飽きないにする。
有名な馬の購入は億をこえるので、その子が優秀な馬になると、
種付け料は高騰する。
育成牧場は、繋養牧場へ高価な金を支払い、種付けを行い、競走馬を生産する。
2年の半ばまで飼育し、競走馬のせりにかける。
馬主は、生産牧場名と、父親の馬名と、母親の名前が表示されるので、
その馬の血統が分かる。
後は、事前に訪れた牧場での飼育経過や、馬の姿・毛艶などから判断し、セリの値段をつける。
馬主は、一人で購入できないと判断した場合、共同購入となり、
シンジゲートが結成される。
馬主は、預ける調教師を決め、その厩舎に預け、調教してもらい、
レースに出す、という、順番になるが、競馬馬を保有続けるにはばく大な金がいる。
中央競馬会の話では、一年に競走馬として採算される馬は八千頭から一万頭という。
その内、中央競馬に出場できる馬は数パーセント、地方競馬を含めても数十パーセントである。
セリにかけても購入されない馬や、せりにかけないで、命を絶たれてしまう馬が多いということである。
馬が競技でかせぐ期間は主に、2歳半から5歳までであるので、元を取るのは難しく、
馬主は道楽者かギャンブラ―である。 」
ここで飼育している馬には、有名な馬がいる。
「 ミスターシービーは、1983年、史上3頭目の皐月賞・日本ダービー・菊花賞
の三冠を勝ち取った馬である。
コタシャーンは、フランる生れ、フランスとアメリカで活躍、
1993年、ジャパンカップに招待され、来日。
この年、GTで5勝を挙げ、ジャパンカップ2着を最後に引退し、
1994年にレックススタッドで種牡馬になったが、地方競馬で重賞勝馬1頭だけというのみに、2000年にアイルランドへ輸出された。<br>
ダイナガリバーは、1985年に社台の生産れ、1985年の4歳の時、野本ダービーと有馬記念、共同通信杯に優勝、翌年、足を骨折、復帰したが、下位に終り、引退。
1988年、レックススタッドで種牡馬になり、桜花賞優勝場・ファイトガリバーを含む、
5頭の重賞馬を出した。
2001年に種牡馬生活を終え、ノーザンホークパークで、功労場として余生を送り、
2012年、29歳で亡くなった。 」
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国道235号を走って行くと、新ひだか町から浦河町に入る。
浦河町にも、競馬馬育成牧場がある。
浦河町の日高幌別川を越えると、国道336号に変わる。
海岸線を走っていると、JR日高本線線のワンマン車に出会った。
「 日高線本線は、苫小牧から様似駅までの145qの太平洋沿岸を走る路線であったが、2015年の高浪で線路が壊れ、むかわ町の鵡川駅から様似駅までは、鉄道事業が廃しされ、
バス路線になっている。
小生が訪れた時は、キハ40形気動車が運行していた。 」
様似は、日高の最後の街並みといえる。
国道336号を南下して行くと」、えりも町役場がある、えりま町がある。
この後、国道はうUターンするように進むが、
えいも岬には道道34号を歌別漁港の脇を抜け、南下すると、
「えりもはなにもない春です。 」 と歌われた、かっては砂漠化していたところに、
緑化事業で、黒松を中心とした森や草地が広がる。
その脇を進むと、小さな東洋漁港があり、ここではコンブ漁が盛んである。
牧場を過ぎたところに、手助浜があり、その先、道はUターンするが、
そこに風の館が建っている。
苫小牧から長時間の旅であったが、やっと、襟裳岬に到着した。
海霧が漂い、九月なのに、寒かった。
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階段を上っていくと、岬の頂上に、灯台が建っていて、下を見る無数の岩があり、 波がしぶきを上げている。
「 襟裳岬は、日高山脈の最南端で、
太平洋に向って、南につきだしている。
岬の燈台は、海抜73mに位置し、1889年から海上に光を届けていて、
霧が多いため、霧笛が備えられている。
無線方位信号所も設置されていたが、平成二十一年(2009)に、
廃止になったようである。
岬の周囲は高さ60mに及ぶ断崖になっていて、
三段に及ぶ、海洋段丘から構成されている。
沖合七キロまでの海上に岩礁が点在する。 」
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訪問日 平成二十年(1998)九月二十一日から二十二日