名所訪問

「 北海道旅行 道 南 4 」

( 函館から松前 )


かうんたぁ。


函館から松前に行くには、、JR函館駅から木古内駅まで行き、木古内から 函館バス・松前行きに乗る。 所要時間は約2時間30分。 
函館駅から松前までバスが出ているが、3時間かかる。 
どちらも本数が少なく柔軟性が少ない。


道南の旅は、千歳から函館は終わったので、残りの函館から松前まで、旅しようと思う。
調べると、公共交通手段利用は効率が悪いので、レンターカーで行くことにした。 
宿粕した湯の川温泉から、出発する。 
道道278号で、函館駅前wp通り、国道5号を北上、 市内の日乃出町25の啄木小公園には、石川啄木の銅像がある。 
ここは啄木が愛した大森浜で、かっては砂浜であっと。
台座には、「潮かおる北の浜辺の砂浜のかの浜薔薇(ハマナス)よ 今年も咲けるや」 の歌が 刻まれている。
ここには、石川啄木函館記念館と土方歳三函館記念館が隣接している。

石川啄木銅像
     駐車場      土方・啄木浪漫館
石川啄木銅像
駐車場
土方・啄木浪漫館

浪漫館から、道道278号で函館駅前を通り、国道5号を北上する。
函館ICから自動車道の国道228号に入り、七飯町・北斗市を通るが、 市街地を避け、主に山側を走るので、見るべき風景はない。
木古内町に入ると、旧道と合流した。
左側は港で4、右側にはいさりび鉄道線と新幹線が平行している。
海側の道は国道228号だが三叉路を直進する道は、道道5号で、右手に木古内駅がある。
いさりび鉄道線の終点であると共に新幹線の駅でもある。
この道は松前国道の228号と合流し、海岸に沿って南下する。
少し走ると、北島三郎の故郷である知内町に入る。
町役場などがある市街地を抜け、橋を渡ると、道は右にカーブして、知内川に沿って進むようになる。
新幹線が右から接近してくるところに、道の駅しりうちがある。
その先の右手の集落は湯の里をいうようだが、そこを過ぎると人家は少なくなる。
右側は残雪が残る大千軒岳、 七ッ岳、左に岩部岳に挟まれた山道を進むと福島町の三岳集落あたりから、町らしくなる。 
左側に福島町青函トンネル記念館・青函トンネル記念館・新緑公園がある。
構内にくろしお二U号が置かれている。

説明板「くろしお二U号」
「 青函トンネルの海底地質調査えでは、海底のようすをじかに観察する、 豆潜水艇が活躍しました。
昭和35年(1960)に導入された、くろしお二U号は、200m深さまで、潜ることができました。
また。海底の岩石を採取したり、備え付けのボーリング機械で、 岩石の試料を採取することもできたので、貴重な調査データが数多く得られました。 」

道の駅しりうち
     福島町青函トンネル記念館      くろしお二U号
道の駅しりうち
福島町青函トンネル記念館
くろしお二U号

排水ポンプも展示されている。

説明板「排水ポンプ」
「 トンネル内の湧水を地下300mのためますに集めた後、 一気に地上まで排水するポンプです。
トンネル内には、常にわずかな湧水があるため、 この排水ポンはトンネル機能を維持するの重要な設備のひとつです。 」

記念館に入ると、青函連絡船の歴史は青函トンネルの工事計画、 そして、工事基地になった福島町がパネルで紹介されていた。
また、トンネルを望む声が高まった、洞爺丸事故の説明があった。
トンネルを掘った掘削機の歯車が展示されていた。

説明板「青函トンネル」
「 総延長 53.85km 海底部 23.30km 陸上部 30、55km
海上から海底の長さ 140m 海底からトンネルまで 100m
青函トンネルには3本のトンネルがほぼ平行して掘られています。
列車が走る本坑は、3階建てのビルがすっぽり入る高さです。
先進導坑は、調査抗で、現在は排水や換気に使用されています。
作業坑は、本坑から約30m横に平行して掘られ、 本坑とは600mごとに、横トンネルを掘って連結しています。
現在は、保守用道路として利用されています。 」

トンネル開通の苦労を知ることができた。
更に行くと、左手は福島港で、右側の少し小高いところに、 横綱千代の山・千代の富士記念館がある。
同記念館では、九重部屋の夏合宿が開催され、 相撲ファンには見逃せないポイントになっている。 
駐車場は手前で、「千代のの富士関」・「九重部屋」・「千代の山関」 と書かれた幟が建っていた。
駐車場脇にある、道の駅「横綱の里ふくしま」は、 生産量日本一を誇るスルメイカを販売する物産センターも併設している。

排水ポンプ
     掘削機の歯車      横綱千代の山・千代の富士記念館
排水ポンプ
掘削機の歯車
横綱千代の山・千代の富士記念館

国道228号は海岸線に沿って、南下する。
吉岡漁港を過ぎ、白神トンネルを抜けると、松前町に入り、 北海道最南端の白神岬に出た。 
国道は北西に向きを変える。
朝日漁港の手前に、右に入る道があり、国道と別れて進むと、 防潮堤の先は津軽海峡が流れ、はるかに霞む先は津軽半島の竜飛岬である。 
案内板によると、「白神岬と、本州の竜飛岬は、最短地点は192m」 である。
駐車場に、「白神岬」の石碑が建っている。

建つ石碑には 
「 海底下の列車のひびき 聞こえ来て 白神岬はさざ波の列  清一 
あなたは今北海道最南端 北緯41度 東緯140度 に立っております。 」 
と書かれている。 

ここの潮流は早く、石川さゆりの津軽海峡雪景色の舞台である。 
また、この下には北海道新幹線が通っている。 

北海道最南端の白神岬
     沖に竜飛岬が見える      「白神岬」の石碑
北海道最南端の白神岬
沖に竜飛岬が見える
「白神岬」の石碑

朝日漁港を過ぎると、松前城入口の三叉路があり、右の道は道道435号で、この道に入ると、城下通りで、松前町松前交叉点があり、松前に到着である。
函館を九時半に出発し、松前に到着したのは十二時である。
ここは町の中心地で、右側に北洋銀行があり、左側には郵便局がある。
松前町役場手前の駐車場に停め、北に歩くと役場前に、「史跡松前奉行所跡」の石碑がある。 

「 松前奉行所は、諸外国からの蝦夷地侵略を恐れた幕府が、 文化四年(1807)に、函館奉行所を移動して開設したものである。 
しかし、蝦夷地西部の脅威がなくなったとして、松前藩に領地が返されて、 文政五年(1822)に廃止された。 」

その先の交叉点を左折すると大松前川が流れていて、橋を渡ると馬坂である。 
馬坂には、「国指定史跡 福山城」 の説明板がある。 

説明板「国指定史跡 福山城」
「 福山城は、松前城とも呼ばれ、北辺警備の重要性から、幕府が特旨をもって、 嘉永二年(1849)、松前家十七世(松前藩十三代藩主) 崇広に、築城を命じ、 高崎藩の兵学者、市川一学の設計により、安政元年(1854)完成した。 
福山(松前)城の面積は約七万七千八百平方メートル、 城郭の規模は本丸、二の丸、三の丸に分かれ、 三層櫓一、二層櫓三、城門十六、砲台七からなっている。 構造形式は平城である。 
我が国最北に位置し、最後の遺構として史跡に指定されている。 」

松前町 城下通り
     「史跡松前奉行所跡」碑      馬坂
松前町 城下通り
「史跡松前奉行所跡」碑
馬坂

江戸時代、馬坂の正面奥には東郭土居と隅櫓があったようであるが、今はない。 
三叉路を左折して進むと、右側は復元された石垣の土塁で、正面に柵が見えてきた。 
江戸時代、この柵は、「角柵」 といい、手前には外掘があり、 木橋が架かっていて、角柵の中央に馬坂門があったようである。 
「番所」の説明板があった。  

説明板「番所」
「 この番所は、搦手枡形へ通じる外堀に架かる木橋脇にあり、 木橋の警備のために置かれている。 
三の丸には同様な番所がもう一ヶ所あり、追手枡形へ通じる木橋の脇にもある。 
番所の規模は柱芯間で、桁行十八・五尺(約5.6m)、梁間十五尺(約4.5m)と考えられる。 
番所の構造は屋根は瓦葺きで、下見板張りの壁だったと考えられる。 」 

復元された石垣土塁
     角 柵      説明板「番所」
復元された石垣土塁
角 柵
説明板「番所」

現在、城のジオラマがある場所が、番所があったとこである。
ジロラマのある広場は、三の丸跡である。

「 江戸時代の三の丸には、鉄砲置場の他、砲台の五番台場・六番台場・ 七番台場があり、  三の丸の北側は外堀が巡らされ、正面の橋を渡ると三本松土居で、  その左手は土塁で囲まれた二の丸で、左端に二重太鼓櫓が建っていたようである。 」 

正面の復元された橋を渡る。
三本松土居の先にある、復元された搦手二の門をくぐる。 

城のジオラマ(三の丸跡)
     復元された橋      復元された搦手二の門
城のジオラマ(三の丸跡)
復元された橋
復元された搦手二の門

門をくぐると、正面に、松前城資料館と植栽がある。
資料館前の一帯は、江戸時代には枡形になっていて、 右側には搦手門と楼門を支える櫓台があった。 
今は、植栽が植えられていて、当時の姿を想像することは難しい。 
松前城資料館の受付に、100名城のスタンプが置かれている。 
入城料を支払い、コンクリート製の建物に入ると、 アイヌ、松前藩に関する展示がある。 アイヌ、松前藩に関する展示があった。 

展示説明文(「松前藩成立前の松前」br> 「 松前の地名は、延文元年(1356)に成立した「諏訪大明神画詞、の中の「万堂満伊犬」が 初見とされます。
鎌倉時代、松前の「大館」には、蝦夷管領、安東氏の同族が配備され、 代官をしていましたが、康正2年(1456)に発するコシャマインの戦いにより、 大館は陥落します。
この時、上ノ国を拠点としていた蠣崎氏(後の松前氏)の客将・武田信廣が、 コシャマイン父子を倒し、後に婿入りします(松前家の始祖)
永正十年(1513)のアイヌとの戦いにより、大館は再び陥落し(大館合戦)、 守将の相原氏は滅びました。
、 そして、翌年、信廣の子・2世蠣崎光廣が大館へ転転居して、徳山館と改め、 安東氏の代官となります。
その後、蠣崎氏は、3世義廣・4世季廣・5世慶廣と、4代にわたり、 大館(徳山館)を拠点としました。 」

5世蠣崎慶廣の説明文が掲示されている。

説明文(「5世蠣崎慶廣」br> 「 慶廣は、天正19年(1591)、南部九戸政実の乱が起きた際、 豊臣秀吉に加勢するため、兵士とアイヌを率いて、参陣しました。
さらに、肥前名護屋城で、秀吉に謁見した際には、 「狄(えぞ)の千島の屋形」 として、遇され、朱印状を賜ります。
その内容は、アイヌに対する悲法行為の禁止、船役徴収の公認などであり、 領地安堵に等しいものでした。
また、「唐衣(からころも)」(山丹錦・蝦夷錦) を着用して、徳川家康に謁見して、 その場で、唐衣を脱いで、家康に奉ったとされます。
こうして、イメージ戦略をたくみに取り入れ、名実ともに、 安東氏の代官を脱し、蝦夷地の支配者としての地位を確立していきました。 」

資料館を出ると、塀越しに広場が見える。
広場が松前城の本丸跡で、現在は松前公園になっている。 

「 松前藩は蝦夷地という特殊性から、米のとれない無高の大名で、 一万石とは後に決められた格に過ぎない。 
蝦夷地に藩主自ら交易船を送り、家臣に対する知行も蝦夷地に商場(あきないば)を割り当て、 そこに交易船を送る権利を認めるという形で行われた。 
松前藩は、渡島半島の南部を和人地、それ以外を蝦夷地として、 蝦夷地と和人地の間の通交を制限する政策をとった。 
初代藩主、松前慶広は居城を固め、権勢を張ろうとし、 慶長五年(1600)、大館の前方である、福山台地に築城を開始し、六年の歳月を費やして、 慶長十一年(1606)、福山館 と名づけた陣屋が完成した。 
また、大館にあった寺町を福山館の周囲に移した。
寛永六年(1629)、領内の千軒岳金山の金掘り人を動員して石垣を修築させた。
松前藩十三代藩主崇広は、嘉永二年(1849)、江戸幕府より、 蝦夷地近海に出没する外国船の警備強化を図るため、 津軽海峡に面した城の築城を命じられる。
翌嘉永三年(1850)、当時の三大兵学者の一人・高崎藩の市川一学に設計を依頼。 
一学は、海防上から、現在の福山の地は無理であり、 箱館後方の桔梗野にある庄司山付近に築城するよう、上申した。
藩士たちが移転を好まず、福山館を拡大して築城することになった。 
五年の歳月を経て、安政元年(1854)、面積約七万七千八百平方メートル、 本丸、二の丸、三の丸に分れ、三層櫓一、二層櫓三、城門十六、砲台七からなる、 松前福山城が完成した。 
この城は、日本最後の日本式城郭になった。 」

広場の奥に見える神社は、松前神社である。  

「 松前氏は、寺町の一角に、松世祠を設けていた。
明治十二年、地元民から、松前藩の祖・武田信広を祭神とする、松前神社の創建の願いが、 開拓使に出された。
松前神社は、明治十四年、旧松前城北の丸を境内地として創建された。 
  現在の社殿は、大正十二年に、総ヒノキ造り神明造りで、再建されたものである。 」 

松前城資料館
     本丸跡(現・松前公園)      松前神社
松前城資料館(前は搦手門枡形跡)
本丸跡(現・松前公園)
松前神社

右側に柵があり、ここからは本丸跡の広場には行けない。
その先にあるのは復元された本丸御門で門をくぐると、二の丸跡である。 
その前には広い空地が拡がっている。
広場の奥に行き、振り返ると、復元された本丸御門と復元天守が見え、全体像を撮った。 

「 明治八年(1875)の松前城の取り壊しの際、 取り壊されずにすんだ、三層の天守と本丸御門は、昭和十六年(1941)に、国宝に指定された。 
昭和二十四年(1949)、三層天守は、町役場から出火した飛び火により、焼失。 
現在の建物は、昭和三十六年(1961)にコンクリート製で再建されたものである。 」 

明治元年(1868)、の旧幕府軍による戦いでは、松前城は海から砲撃を受けた。
今でも、正面石垣には三ヶ所の弾痕が残る、と聞いていたか、どれなのか、確認できなかった。  

「 明治元年(1868)、旧幕府軍は、 榎本武揚を首領として、蝦夷地に上陸し、五稜郭を占拠した。
その後、新撰組副長・土方歳三を長とする、主力が福山城へ向けて、進撃を開始した。 
その間、旧幕府軍木造蒸気船蟠・龍及び回天が、城中を砲撃して、 三重櫓(天守)及び石垣等に多く命中した。
今でも、正面石垣には三ヶ所の弾痕が残る。 」

(奥)本丸御門 (右)本丸跡
     本丸御門と復元天守      石垣と三重櫓
(奥)本丸御門 (右)本丸跡
復元された本丸御門と復元天守
石垣と三重櫓(天守)

二の丸の左端に、「旧福山城本丸表御殿玄関」の説明板と、表御殿玄関がある。 
表御殿玄関は、松前城で唯一残っている建物である。 

説明板 「旧福山城本丸表御殿玄関」
「 慶長十一年(1606)に完成した城は、当時、これを 福山館 と称していた。 
しかし、寛永十四年(1637)城中より出火し、多くの建物を焼失、 同十六年、これを修築した。 
その際、表御殿には、京都伏見城の一部が移されたと伝えられている。 
明治六年(1873)九月、城の取り壊しが決まり、 明治八年(1875)、北海道開拓使の命令により、福山城は、三層天守・本丸御門・ 本丸表御殿を除いた建物、石垣が取り壊され、濠を埋めて、城郭の形態が失われたが、 天守と本丸御門、本丸表御殿は残った。 
表御殿は松城小学校として充用され、 明治三十三年、新校舎が完成した後も、この玄関だけは小学校の正面玄関として、 昭和五十七年まで利用されてきた。 」

隅櫓があったところの手前に、長尾山樵の歌碑がある  

歌碑の文面
「 長尾山樵(秋水)
  松前城下作詞
  海城寒折月潮  浪際達櫓影動揺  従此五千三百里 北辰直下建銅標  」
 解説
「 松前城下には、寒い夜、夜回りの拍子木の音が響いている。
今上がって来た月は、まるで潮の中から生まれてきたようだ。
(松前の港のにぎやかなようす) 波打ち際にたくさんつながれている船のたちならぶ 帆柱の影が、しきりと揺れ動いている。
(城内や津軽海峡のようす) ところで、この松前の地から五千三百里の彼方にある、 北極星の真下(つまり北極点)にここまで、我が国だという国境の標を建てたいものだ。 」

長尾山樵(秋水)は、江戸時代後期の漢詩人である。

「   越後村上藩士の子として、安永八年生まれて、水戸で学ぶ。 
文政二年に、蝦夷地松前にわたり、以後、諸国をめぐって、北方防備の急を説いた。 
晩年は村上で、藩士の子弟に漢詩を教え、 文久三年に八十五歳の天寿を全うした。 」

三の丸まで戻り、右側の門に行くと、 門の下に、「天神坂門跡」 の標石があった。 

本丸表御殿玄関
     長尾山樵歌碑      天神坂門
本丸表御殿玄関
長尾山樵歌碑
天神坂門

かつて城内へ通じる坂は、馬出口・天神坂・馬坂、・殿沢口・ 新坂の五ヶ所だったが、天神坂はそのうちの一つ。 
細く風情ある石段が続き、三の丸跡への入口に天神坂門が建つ。 
石段の途中に、「天神坂夫婦桜」 の標示がある。
「 夫は一重の染井吉野、妻は八重の南殿 」 と、あった。  

「 樹齢八十年のサクラで、「松前三大桜」のひとつで、 ソメイヨシノとサトザクラの南殿が接木によって、一株から育っている。 
長年、支えあい生きてきた夫婦に見えることから、 夫婦桜と命名された。 」 

天神坂を下りると、松前港線(城下通り)で、風情ある家並がある。 
「手打そば おぐら」 に入り、 松前梅花巻をいただいた。 
手打ち蕎麦の上に、磯の香りいっぱいの松前寒海苔を香ばしく焼き上げたものが乗っていて、梅干と共に食べる。 
梅干はクエンサンが豊富で、疲労回復に効果があり、海苔と梅干が蕎麦とマッチしていて、 うまかった。 

夫婦桜
     城下通り      天神坂門
夫婦桜
城下通り
松前梅花巻

松前城へはJR江差線木古内駅から函館バス「松前行き」で約1時間30分、 「松城」で下車、徒歩約10分  
函館駅から松前までバスで3時間 

訪問日     平成三十年(2018)五月二十八日



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