函館駅から八幡通りを北東に行くと、若松町38という交叉点がある。
この近くに、「一本木関門」と書かれた標札のある木製の門が造られていて、
左側に「土方歳三最後之地」と書かれた石碑が建っている。
ここは、土方歳三が銃撃で倒れた地である。
近くに、「土方歳三最後の地」の説明板が建っている。
説明板 「土方歳三最後の地」
「 新撰組副長として、京都の街に勇名をはせた土方歳三は、
鳥羽伏見の戦の後。新撰組を率いて、各地を転戦して、
北上し、仙台で旧幕府海軍副総裁・榎本武揚が指揮する脱走艦隊と合流した。
明治元年(1868)十月、蝦夷地(北海道)に上陸した榎本は、箱館を占拠して、
新政府を樹立、土方はその陸軍奉行並の養殖についた。
翌二年四月、新政府軍の総攻撃に、蝦夷軍は各地で敗戦したが、
土方が守った二股口(現・北斗市)だけは最後まで落ちなかった。
しかし、同年五月十一日、ついに箱館を政府軍の手に落ちた。
土方は、箱館奪回を目指し、五十名の兵を率いて、一本木(現在・若松町の関門を出て、
市中に向い、敢然と切り込んでいったが、銃弾に当たって倒れ、
波乱に満ちた生涯を閉じた。
時に三十五歳であった。
函館市 」
函館駅前に戻り。電車に乗り、十字街電停で降りる。
道道279号は北西にカーブしているが、この道を進み、二つめの信号交叉点に出る。
左右の道は開港通りという坂道である。
交叉点を左折して、この坂道を上ると、右手に東本願寺函館別院があり、
さらに上り、右手に入って行くと、左側に、函館ハリストス正教会がある。
「 函館ハリストス正教会は、
安政六年(1860)に、ロシア領事館の隣に建てられたのが始まりである。
函館ハリストス正教会は、日本正教会の最初の聖堂を持つ教会で、
日本に於ける正教会の伝道の始まりの場所である。
その後、正教会の拠点は、ニコライにより、東京神田に移され、
以後、当地に建設されたニコライ堂を中心に、宣教は進められていくが、
その後も、函館ハリストス正教会は、日本正教会でも長い伝統を誇る教会として、
存続を続ける。
聖堂は、明治四十年(1907)の函館大火により、全焼したが、
大正五年(1916)に再建された。
ビザンチン建築・ロシア建築の影響を受けており、煉瓦造、一部三階建ての平屋で、
基礎は石造り、外壁は白漆喰を塗っている。
西側に正面玄関と鐘楼を戴いた啓蒙所、東側に至聖所、その間の中央に聖所が配置されている。
聖堂の正式名称は、主の復活聖堂で、国の重要文化財に指定されている。
主の復活聖堂は、令和三年(2021)から、大規模改修が二年間行われ、その間、閉鎖になった。
小生の下の写真の聖堂では、赤茶色が使われているが、現在は頭部の青色に統一されている
、ようである。 」
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この後、西に進むと、西高前バス停があり、更に進むと、元町公園があり、 道の反対に、旧函館区公会堂がある。
「 旧函館区公会堂は、明治四十三年(1910)に竣工した、
コロニアルスタイルの洋館である。
設計は、小西朝次郎で、国の重要文化財に指定されている。」
入館料を支払い。バルコニーに出て、望遠レンズで見ると、旧イギリス領事館に訪れて
いる人達と、その先に、函館港が見えた。
公会堂の道の反対に、元町公園がある。
公園の中に、旧北海道道庁函館支庁庁舎が建っている。
「 元町公園は、昭和五十七年(1982)に開園した洋風公園である。
園内には、旧北海道道庁函館支庁庁舎や旧開拓使函館支庁書籍庫などの文化的建造物が存在する。
旧北海道道庁函館支庁庁舎は。明治二十六年(1893)に建てられたが、
明治四十年(1907)の函館大火で焼失。
明治四十二年(1909)に再建されたのが、洋風二階建てのこの建物である。
現在は、jolly jellyfish 元町になっている。
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元町公園の中には、旧開拓使函館支庁書籍庫が残されている。
説明文
「 旧開拓使書籍庫は、明治十三年(1880)に建てられた重厚な赤レンガ造の建物である。
明治四十年(1907)の函館大火でも、類焼を免れた。
建物内には、行政資料が保管されている。
外観見学のみで、内部は公開されていない。 」
元町公園の海側に元町公園前バス停がある。
元町公園から海に向って坂になっていて、「高坂」 の標示があり、海に向って、
けっこう急な坂道である。
坂の途中の右側に、旧イギリス領事館がある。
説明板「旧イギリス領事館(開港記念館)」
「 函館にイギリス領事館が置かれたのは、安政六年(1859)、
日本最初の貿易港として開港した時のことで、
函館では、アメリカ、ロシアに次いで、三番目の領事館として、
初代領事・ホジソンが称名寺に開設した。
文久三年(1863)に、現在の元町のハリストス正教会の西隣に、領事館を新築したが、
数度の火災にあった。
この建物は、イギリス政府工務省上海工事局の設計により、
大正二年(1913)に竣工したものであり、
昭和九年(1934)も閉鎖まで、領事館として使用された。
平成四年(1992)八月からは、開港記念ホール ・ 開国の歴史を伝える展示室 ・
旧外国公館の雰囲気の中でのお茶やお菓子を楽しめるカフェを設け、一般公開をしている。
函館市 」
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旧イギリス領事館を出て、高坂を下り、元町33交叉点を越え、
次の信号交叉点の左右は道道457号で、右手に北方民族資料館、その先に末広町電停がある。
直進すると、大町9に洋風の木造建築があるが、使用されている様子はない。
現在は現存するか、何かに活用されているか、気になる。
突き当たりには、自衛隊函館基地隊の建物がある。
三叉路を右折すると、旧桟橋があり、更に進むと、左側に西波止場の建物がある。
「 西波止場は、末広町にある商業施設である。
新鮮な魚介類や海産物、銘菓、乳製品が購入できるほか、カフェもある。 」
奥に進むと、右側に金森ホール・金森jヒストリープラザ・金森洋物館が建ち並んでいる。
振り返ると、函館山が見えた。
左はブルームーン 船遊食甘遊覧船のりばである。
「 金森倉庫は、明治時代に、大分県出身の実業家が創業した金森商船の倉庫群である。
現在は、ショッピングモールやビアガーデン。レストランが入居する。
この一帯は、国の重要伝統的建造物群に指定されており、
函館市の観光名所である。 」
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更に奥に行くと、「BAY)と書かれた赤レンガ倉庫がある。
ここは、BAYはこだてで、海から切り離された水面があり、二つの建物の間にはそれを渡る階段がある。
「 BAYはこだては、日本郵船の赤レンガ倉庫である。
金森倉庫より、少し遅れて建設された倉庫群である。
現在は多目的ホールやアート・ファッション雑貨・グルメなどのショップが入っている。 」
BAYはこだての脇の橋上からは、函館山の電信塔が林立するのが見える。
その下には展望タワーがあるので、
この後、函館の夜景を見に行く。
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函館の夜景を見るため、ケーブルカーで、函館山展望台へ上った。
夜景を撮る場所取りのため、三十分程早く、展望台の良い場所を確保した。
当日は寒く風もあったので、家族は喫茶てきる場所に移動。
小生のみ頑張る。
夕日が沈んだ後、しばらくは西の函館港と東の津軽海峡の狭まっている部分を含めた市街地が
眼下に見えた。
低層建築物が多いので、街路照明が、函館夜景の中心をなす。
時間の経過とともに、夜景が浮き上がり、華やかさを増した。
「 函館の夜景は、「100万ドルの夜景」と称され、
香港・ナポリと共に、世界三大夜景に選ばれている。
函館山からの夜景は、函館山を陸繋島とし、
山麓より、旧市街地・千代台の台(函館段丘)までの長さ、約三キロ、幅六百メートルの陸繋砂州(トンボロ)
の夜景である。
小生が訪問した時期は、イカ漁の最盛期で、帰ろうした頃から、津軽海峡に、
ライトをこうこうと点けた、イカ獲り漁船が数隻現れ、操業を始めていた。
現在は、イカの数が激変していて、照明用の燃料代が出ないと、操業を控える船が増え、
イカの値段が高級魚並になっている。
温暖化による影響と聞くが、残念である。
家族は少しの時間、夜景を見て、「帰ろう」というので、そこで撮影は終わった。
宿泊は、夜景では右奥になる、湯の川温泉である。
「 湯の川温泉は、歴史が古く、アイヌ語の 「コパッ」に由来する。
泉質は、ナトリウム・カルシウム・塩化物泉である。」
翌日、トラピスチヌ修道院へ行った。
「 トラピスチヌ修道院は、女子の修道院で、
庭園と売店だけは自由に見学できる。
明治三十一年(1898)に、フランスから派遣された、八名の修道女により、創立された。
三木露風が訪れ、「野薔薇」の詩をを書き、山田耕作が作曲し、日本歌曲になっている。 」
クッキーとマドレーヌが有名で、函館土産として、知られている。
特に見るところがないので、30分程で見学は終了した。
函館空港は近く、空港で時間調整をして、今回の旅は終了した。
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訪問日 平成十九年(1997)九月十三日〜十四日