名所訪問

「 北海道旅行 道 南 2 」

( 大沼公園 ・ 五稜郭 )


かうんたぁ。


登別温泉から登別東ICから道央自動車道に入り、函館へ向かう。
函館まで、順調に行けば、三時間半程である。
黒松内JTCまでは海から離れた内陸を西にひたすら進む。
JCT[からは方角を南に変え、一部は左に海が見えるが、これといった景色もないので、 そのまま進む。
長万部IC・落部IC・森ICを過ぎると、大沼公園ICで、道央自動車道は終りになる。
休憩を兼ねて、大沼公園を訪れる。

「 大沼公園は国定公園である。
大沼には大小126もの小島があり、沼の向うには秀峰・駒ケ岳を望む。 
歩いて周遊するコースが四つあり、また、遊覧船があるが、 目の前に小さな島があり、奥に、駒ケ岳というのは余り変わらないので、 早々引き揚げ、函館に向う。 」

函館へは国道5号を使用するが、途中で、大沼国道という通称の国道5号の新道を走ると、 55km程で、旧道と合流し、JR函館本線五稜郭駅前に出る。
五稜郭に行くため、亀田町交叉点を左折し、道道347号に入る。
田家俟ち交叉点で右折し、五稜郭橋を渡ると、五稜郭は左手にある。
五稜郭町12交叉点を左折すると、左に五稜郭タワーがあり、その奥に五稜郭の入城口がある、
五稜郭タワーの湯量展望室から、五稜郭を見た。
五稜郭は、五角形の縄張りや三角形をした半月堡など、他の城では見られない独自の景観の 城であることが確認できた。

大沼国定公園
     大沼と駒ケ岳      五稜郭
大沼国定公園
奥に見えるのは駒ヶ岳
五稜郭 (橋・正面出入口・奉行所)

一階に降りると、(薩長先遺隊)」のカノン砲を置かれていて、奥に 土方歳三の銅像がある。 

「 新撰組の鬼副長として恐れられた土方歳三は、 局長の近藤勇が処刑された後も、 宇都宮・会津で新政府軍と戦い続け、榎本武揚率いる旧幕府軍艦隊と仙台で合流し、 蝦夷に渡った。 
ここ五稜郭を本拠に旧幕府軍っが樹立した、暫定政権「蝦夷共和国」では、 陸軍奉行並びに箱館市中取締の要職を務めた。 
明治二年五月十一日、新政府軍の総攻撃により、 孤立した友軍を援護するために出撃したが、 一本木関門で、銃撃を受けて、三十五歳の生涯を閉じた。 」  

五稜郭へ向かうと、大手門近くに、「箱館戦争供養塔」と書かれた石造物がある。
これは近くにある最上寺が建立したものだろう。
白い花が咲いていた所の前には、「箱館戦争と特別史跡五稜郭跡」の説明板が建っていた。
大手口から入ると、総堀があり、右折して少し進むと、小橋の手前の右側に、 「特別史跡 五稜郭跡」の石碑と、「特別史跡 五稜郭跡」(昭和27年3月29日指定)の説明板がある。

説明板「特別史跡 五稜郭跡」
「 五稜郭跡は、幕末の箱館開港に伴い設置された箱館奉行所の防衛施設で、 箱館奉行配下の諸術調所教授役で、蘭学者の武田斐三郎成章により、 中世ヨーロッパで発達した城塞都市を参考に設計された、西洋式土塁である。
稜堡と呼ばれる、5つの突角が星型の五角形状に、土塁がめぐっていることから、 五稜郭と呼ばれ、郭内には日本伝統建築の箱館奉行所庁舎と、 その付属建物20数棟が建てられていました。
安政4年(1857)に築造を開始して、7年後の 元治元年(1864)に竣工、 同年6月に奉行所が移転して、蝦夷地における政治的中心地となりました。
その後、明治維新により、明治新政府の役所となりましたが、 明治元年(1868)10月に、榎本武揚率いる、旧幕府脱走軍が占拠、 翌明治2年5月に終結する箱館戦争の舞台になりました。
箱館戦争後は、明治4年に開拓使により、郭内建物のほとんどが解体され、 大正時代以降は公園として、開放されています。
五稜郭跡は、築城時の形態がよく残っていて、日本城郭史上、重要であるとともに、 幕末期の洋学採用の一例を示すものとして、 学術上きわめて価値が高いことから、北海道で唯一の国の特別史跡に指定されています。 」

土方歳三の銅像
     箱館戦争供養塔      五稜郭跡碑と説明板
土方歳三の銅像
箱館戦争供養塔「特別史跡 五稜郭跡」碑と説明板

総堀に架かる橋の先の両側は緑の樹木が覆われている。
橋を渡ると、出入口(虎口)があり、土塁で囲まれているが、一部が石垣造である。

「 五稜郭には三つの出入口があったが、ここが正面出入口であった。
総堀の幅は、最も広い所で約三十メートル、 深さは約四ないし五メートル、外周は約一・八キロメートルである。 」

「土塁・石垣」の説明板があったが、ここには刎ね出し付きの石垣があり、手前に空堀があった。

説明板「土塁・石垣」
「 五稜郭の土塁は、掘割からの揚げ土を積んだもので、土を層状に突き固める、 板築という工法で、造られています。
郭内への出入口となる3か所の本塁は、一部が石垣造りとなっています。
特に、正面出入口となる南西側の本塁石垣は、他の場所の石垣より、高く築かれていて、 上部には「刎ね出し」と呼ばれる、防御のためのせり出しがあります。 
石垣には、函館山麓の立待岬から切り出した、安山岩や五稜郭北方の山の石が使われています。
*  刎ね出しは、武者返し、忍び返しとも呼ばれ、 上から2段目の石が迫(せり)出して、積まれているため、 外部からの侵入を防ぐ構造になっています。 」

郭内には、再建された、箱館奉行所庁舎があった。

説明板「箱館奉行所」
「 箱館奉行所は、幕末の箱館開港により設置された、江戸幕府の役所で、 奉行所の防衛施設として、築造されたのが五稜郭です。
安政4年(1857)に着工して、7年後の元治元年(1864)に完成し、 蝦夷地の政治的中心となりました。
明治維新の際には、戊辰戦争後の戦いである箱館戦争の舞台となり、 明治4年(1871)に、奉行所庁舎は解体されました。
それから、140年の時を経て、平成22年(2010)に、箱館奉行所が復元されました。

五稜郭タワーの下近くの寿司屋に入り、昼食を摂った。
ネタは新鮮でうまかったが、値段は予想より高かった。
南西に函館競馬場があるので、そこに行ってみた後、五稜郭でレンタカーを返却した。

総堀と橋 (奥)正面出入口
     刎ね出し付き石垣      箱館奉行所
総堀と橋 (奥)正面出入口
刎ね出し付き石垣復元された箱館奉行所

訪問日     平成十九年(1997)九月十三日



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