新千歳空港でレンタカーを借り、最初に訪れたのは、
社台が経営するノーザンファームである。
ノーザンファーム空港は、空港から車で十一分の所にあり、馬好きと息子の希望で立ち寄った。
競走馬の調教専門牧場で、十一の厩舎があり、五百匹の馬房がある。
小生は競馬のことは分からないが、息子と娘は馬の名前を知っていて、
熱心に見てまわっていた。
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この後、
道央道の乗り、国道276号を経て、支笏湖へ行った。
支笏湖で訪れたのは、苔の洞門である。
「 支笏湖は、今から四万年に火山の噴火により出来たカルデラ湖である。
周囲約四十キロあり、東西十三キロ、南北のもっとも短い所で五キロ。
深さは三百八十三mメートルで、田沢湖に次ぐ日本で二番目に深い。
中央に恵庭岳、左に丹鳴岳、右に漁岳を望める。
苔の洞門の近くに、駐車場とネイチャーセンターがある。
駐車場から、涸れ沢の砂地を七百五十メートル歩く。
苔の洞門は、元文三年(1739年9)の樽前山の噴火活動で造した溶結凝灰岩が、
土石流によって、しだいに浸食されることによって作られた、回廊状の峡谷である。
高さ十メートル、エゾコケやエゾチョウチンコケなど、
八十種類以上のコケが密生している姿は幻想的で美しい。
下流の延長四百二十メートルの第一洞門と、延長六百メートルの第二洞門がある。 」
(注) 「 その後、苔の洞門内部は、落石や崩壊の危険があるため、
洞門の見学は、苔の洞門入口に設置された、観覧台までとなった。
更に、平成二十六年(2014年9)の大雨により、観覧台は被害を受けた。
2019年現在、苔の洞門は閉鎖中で見ることができない。
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この後、昭和新山へ行く。
支笏湖から国道276号、国道453号で、洞爺湖の南にある、昭和新山へ到着した。
「 昭和新山は、昭和十九年(1944)に始まった噴火活動により、
土地が隆起し、溶岩円頂丘が形成された。
ここは有珠山の麓であるが、平地に400mの火山が出来た。
山肌が赤色に見えるのは、かっての土壌が溶岩の熱で、煉瓦のように固まったからである。
昭和新山は私有地で、壮瞥郵便局長が当時の記録を残しており、
所有者はその子孫と結婚した三松三郎で、三松正夫記念館長である。 」
昭和新山から道道703号を通り、北に向かうと、洞爺湖に出た。
道道2号に入り、時計回りで、湖に沿って進む。
途中で車を停め、湖面をみると、洞爺湖の先に、先程訪れた昭和新山の姿が
赤茶色に見え、その右側に大有珠山の姿が見える。
「
洞爺湖は、洞爺カルデラ内に出来た、周囲43kmの湖である。
面積は日本で九番目、カルデラ湖では屈斜路湖・支笏湖に次ぐ、三番目の大きさである。
湖の背後(南方)に有珠山と昭和新山が控える。
洞爺湖の中には、無人の中島がある。 」
有珠山の方角を望遠レンズで、拡大すると、山裾が横に一面植物が姿を無くしているのが
見えた。
平成十二年(2000)の有珠山噴火の泥流跡である。
「
平成十二年(2000)三月、有珠山と、西山山麓が噴火。
翌日には、西山西麓と洞爺湖温泉に近い金毘羅山で、新噴火口が開き、
周辺に次々と新しい火口が形成された。
住民に避難勧告が出て、温泉は閉鎖され、住民は避難した。
翌年八月、終息宣言が出された。
有珠山の噴火による、溶岩流の流出があり、一部地域で被害は出たが、
避難処置の徹底で、人畜の被害はでなかった。
洞爺湖温泉の湖畔に、有珠山噴火記念公園がある。
現在、西山山麓火口散策路ができ、生活圏で起きた爆発のすさまじさを体験できる。 」
道の駅の「水の駅」で、ソフトクリームを食べる。
湖畔に出ると、湖の水はきれいだった。
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洞爺湖から虻田洞爺湖ICに出て、道央道で室蘭ICで降り、道道127号・国道36号から
母恋(おぼない)駅前に出て、母恋中央通りを南下すると、金屏風展望台があり、
道道919号に合流するので、右折し少し走り、三叉路を左折すると、地球岬展望台に到着する。
展望台に上ると、眼下に白亜の灯台があるのが見えた。
太陽が西に傾き、その先には明日訪れる渡島半島が見えた。
「 地球岬は、太平洋の地平線が見渡せる岬で、
日本でも有数の景勝地とされる。
カップルが愛を誓い合う幸福の鐘がある。
展望台の西側は散策路が整備されている。 」
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今夜の宿は登別温泉である。
地球岬から東室蘭へ出て、国道36号を北上、登別室蘭ICから道央道に入り、登別東ICで降り、登別温泉通りを
北上すると、宿泊地に着いた。
約1時間の行程である。
「 登別温泉は、江戸時代の弘化二年(1845)、蝦夷地探検中の松浦武四郎が
立ち寄っている。
安政四年(1857)、近江商人の岡田半兵衛が、松前藩から場所請負人として、硫黄採取のため、
道を開き、翌年、旅人や鉱山夫のための湯治を目的に、湯治小屋を設置する。
滝本金蔵が移住して、岡田の許可を得て、湯守となる。
明治六年(1873)、岡田半兵衛が私費を投じて、温泉を開削。
明治二十一年(1888)、滝本金蔵が「湯もとの滝本」(現在の第一滝本館)を開業。
というのが、開業の始まりである。
現在では、一日1万屯の湯量を誇り、国内の温泉地で行きたい温泉の最右翼に挙げられる温泉地になっている。
硫黄泉、明礬泉、鉄泉など、11種の湯がある。
これだけの種類の湯があるのは、他に類をみない。 」
宿泊したのは、渓流沿いに建ち、登別で1番大きい旅館の ホテル まほろば である。
カラカミリゾートが経営する旅館の1つで、登別パークホテル緑水館も同じ経営。
このホテルの風呂場などはすばらしい。 大浴場は広々とした浴槽に広い洗い場。
露天風呂も大きいのが二つあり、二種類の湯が入っていた。
泊まっても損にならない旅館だと思う。
第1滝本館の先にあるのは、地獄谷である。
「 日和山の噴火活動で出来た、直径約四百五十メートル、
面積約十一ヘクタールの爆裂火口跡である。
谷に沿って、数多くの湧出口や噴気孔があり、泡を立てて煮えたぎる風景が、
「鬼の棲む地獄」 の由来になった。
ここから、多種類の温泉が一日一万トンも湧出し、温泉街のホテルや旅館へ給湯されている。 」
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訪問日 平成十九年(1997)九月十二日