札幌の夜は、札幌ビール園のジンギスカンか、狸小路とすすきののラーメン屋で始まる。
麺屋雪風は、平成十五年(2003)に開業、秘伝の味噌だれに、
当社厳選の白味噌と赤味噌をブレンド。
厳選した豚骨と鶏白湯、煮干し、鰹節で仕上げた,焦がし油で香り付くけ。
競合店と差別化できるような味に仕上げられているというので、
食べに行った。
さっぽろの駅前観光としては、駅の北西にある、北海道大学のクラーク像、
駅の西南にある、北海道道庁旧本庁舎がある。
一番の人気は、さっぽろテレビ塔である。
令和七年(2025)、国の登録有形文化財になった。
「 さっぽろテレビ塔は、大通公園内にあり、高さが144m、
昭和三十二年(1957)に完成し、営業を開始。
NHKと札幌テレビが電波発信していたが、昭和三十一年(1956)に、さっぽろテレビ塔より
高い手稲山に北海道放送が設置した送信所に移ってしまい、
テレビ送信所は手稲山に一本化された。
現在は、FM放送の中継基地と、NHKの予備送信所が残るのみである。
昭和三十六年(1961)に、パナソニックの寄贈により、展望台の下に、
地上65mの四面に、電光時計が取り付けられた。
電光時計は二度改修され、現在のは、LED製である。
完成当時は、市内中心部に高い建物が少なく、札幌市内が一望できる少ない施設として、 人気があり、展望台へ上るため、待ち時間がある状況であったが、 現在は、札幌雪まつり以外は俟つことはないという。、」
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さっぽろテレビ塔から、北1西1交叉点を左折すると、道の右側に、時計台がある。
「 さっぽろ時計台の正式名称は、旧札幌農学校演武場である。
北海道大学の前身であった、札幌農学校の演武場として、
初代教頭であるクラーク博士の提案により、明治十一年(1878)に建築され,
生徒の兵式訓練の場として使用されました。
20年前に内装の改修が行われ、現在は資料館や貸出を行うホールがある。 」
北1西3交叉点を左折し、道道18号を南下すると、
大通西3交叉点の左側・大通公園の一角に石川啄木の歌碑がある。
「 しんとして 幅(はば)康(やす)き街(まち)の 秋(あき)の夜(よ)の 」
説明板「石川啄木像 歌碑」
「 製作者 坂 坦道 (1920-1998)br
ブロンズ 高さ 152 幅 200 奥行 100
揮毫 中野 北溟 (1923〜 )
寄贈者 石川啄木記念像設立期成会
歌人・石川啄木(1866-1912)1が、札幌に滞在したのは、
明治40年(1907)9月14日から27日までのわずか2週間でしたが、
処女歌集「一握お砂」には、札幌の印象を詠んだ歌が収められています。
ここに刻まれているのは、その中の一句です。
啄木の70回忌に合わせ、札幌在住の文学関係者と札幌観光協会によって、
建立されました。 」
この後、地下鉄に乗り、新札幌駅に行く。
新札幌駅からJRバスでで、北海道開拓の村へ行く。
「 北海道開拓の村は、北海道開拓百年の記念事業の一環として、 札幌市郊外にある野幌公園内に、 北海道開拓記念建造物を移設して、野外博物館として、1983年に開村しました。 」
「北海道開拓の村」の石碑の奥にあるのは、旧札幌停車場である。
「 旧札幌停車場は、明治四十一年(1908)み建てられ、
昭和二十七年(1952)まで使用された。
この建物は、正面外観と形状を4/5に縮小し、管理棟として、建設されたものである。
外観には、同時期、アメリカで木造建築に用いられた、
ステックスタイルと呼ばれる形式が取り入れられ、
下見板と棒(ステック)による、模様付けが特徴である。
この駅舎は、「停車場」とも呼ばれ、多くの人びとに親しまれた建物である。 」
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中に入ると、「ゴールデンカムイ 単行本 主な登場建造物 マップ」
全52建造物中 33建造物 」
とあり、地図上に印が付けられている。
鉄道馬車が走っていて、後ろに、「旧リーケシュオマベツ醸造所前行」の標示板があった。
「 48番 旧菊田家農家住宅」の説明板がある、茅葺の家がある。
説明板「旧菊田家農家住宅(48)」
「 明治19年(1886)、新潟県長岡の有力者であった、大橋一蔵や関矢孫左衛門などは、
北越殖民社を組織し、野幌原野の開拓を計画した。
この建物は、その一員の新潟県魚沼郡出身者が移住直後の明治26年(1893)に建築し、
のちに同じく、南蒲原郡出身の初代菊田常吉が買い受けて、移築したものである。
旧所在地 江別市西野幌149番地 」
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住宅内は、北越殖民社の一員として、
野幌に移住した農家の明治40年頃の生活を展示している。
この頃になると、人びとの生活も落ち着き、故郷から受け継いだ神楽を奉納するなど、
お祭りも盛んになった。
内部には、部落全体の催事dr、移住者の団結心を養っていたお祭当日のようすを示すとともに、北越殖民社の歴史を展示している。
外に出ると、柵内に牛が放牧されていて、奥に建物が見える。
説明板「旧旧小川家酪農畜舎」
「 北海道で酪農業が盛んになった大正末期の牛舎の内部である。
当時の寝床は、牛間と呼ばれた。
ここでは、前列に9頭、後列に3頭を、採乳牛と育成牛にわけて、つないでいた。
牛飼いは、乳牛の腹の下に入り、手しぼりで、バケツに採乳した。
生乳は綿布で漉され、輸送缶に詰め、直ちに冷却された。
敷わらや糞は、マニュアフォークで、孤輪車に積み、舎外へ積んだ。 」
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次に、訪れたのは、旧樋口家住宅である。
説明板「旧樋口家農家住宅(46)」
「 樋口家は、富山県から移住した水田農家で、明治26年(1893)に入植し、
5年目にこの家を建てた。
富山出身の棟梁に建築を依頼し、郷里の建築様式である、ワクノウチ造を取り入れた。
材料は、近くの原始林から切り出したという。
復元に際し、同じ建築様式の山口家の解体材もあわせて使用した。
旧所在地 札幌市厚別区厚別東
建築年代 明治30年(1897)
構造 木造平屋建 」
旧納内屯田兵屋がある。
内部は一般的な住宅だが、質素な造りと思った。</p>
説明板「旧納内屯田兵屋(41)」
「 納内に、屯田兵が入地したのは、明治28・29年である。
明治8年(1875)に始まった屯田兵は、家族とともに、兵村で暮し、
北辺の警備と農業開拓に従事した。
当初は士族を募集したが、明治23年からは、主力を平民に移し、
空知・上川・北見地方など、北方内陸部に、屯田兵村が作られていった。
旧所在地 深川市納内町6の1
建築年代 明治28年(1895)
構造 木造平屋建 」
38番目の 旧ソーケシュオマベツ駅逓所がある。
内部には馬がいるので、馬と人で輸送されたのだろうと思った。
説明板「旧ソーケシュオマベツ駅逓所(38)」
「 嘉茂別村(きもべつむら)と、 徳舜瞥村(とくしゅんべつむら ・ 現在の伊達郡大滝)
の中間地点で、明治42年(1909)から昭和9年まで、営業していた官設駅逓所である。
他に現存するものは少ない。
駅逓は、明治・大正・昭和にかけて、荷物の搬送や郵便・宿泊なの業務を行い、
北海道の発展に大きな役割をはたした。 」
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木の梯子の上に火の見櫓があり、その先に建物がある。
これらは、旧山田消防組番所である。
説明板「旧山田消防組番所(36)」
「 この建物は、札幌の山本地区にあった、消防用具の格納庫である。
消防組織は、大正8年(1919) 頃からの地区の自警団を前身とし、
のちに山本消防組となる。
昭和45年(1970)まで、消防活動を続けた建物を再現した。
火の見櫓を持つ番屋は、道内農漁業の小規模な消防組織に多くみられ、
防災や治安の中心であった。
所在地 札幌市厚別区厚別山本751番地
建設年代 大正末年(1925頃)
構造 木造平屋建
再現年 昭和61年(1986) 」
次は、旧浦河公会堂である。
説明板「旧浦河公会堂(17)」
「 明治13年(1380) 、神戸において、北海道開拓会社「赤心社(せきしんしゃ」 が設立され、
翌14年から西舎村や荻伏村に、結社移民として、入植した。
「赤心社」 の指導者の多くは、キリシタン教徒で、
明治19年(1886)に、「浦河公会」 が組織された。
この会堂は、17年の日曜学校兼会堂に次いて、2代目の礼拝・集会所である。
旧所在地 浦河郡浦河町荻伏15番地の2(旧浦河郡荻伏村)
建築年代 明治27年(1894)
構造 木造平屋建一部2階建 」
旧山本理髪店は、グリム童話などで、出てきそうな、造りである。
説明板「旧山本理髪店」
「 大正末期には、電気やガスを利用する理髪器具が出回り始めていたが、
高価なため、一般には普及していなかった。
多くの店では、炭火を使用して、湯を沸かしたり、タオルを蒸していたので、
店主は常に炭火と水を絶やさないように、気を付けていた。
また、理髪椅子は、この頃に、「半寝椅子」 と呼ばれた、木製4本足のものから、
金属製の台のついた、回転椅子にかわっていった。
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「旧島歌郵便局」の説明板の奥に、二階建ての木造の建物があり、 この建物は、かっては簡易郵便局であった。
説明板「旧島歌郵便局(14)」
「 北海道で、近代郵便の取扱が始まるのは、明治5年(1872)で、
島歌には明治19年(1886)に、郵便局が設置された。
明治26年(1693)には、畑野清治が2代目局長として就任し、業務を取り扱った。
以後、この局は畑野家により、引き継がれてきた。
この建物は、業務用だけで、局長や職員の住居は別棟であった。
旧所在地 久遠郡せたな町瀬棚区瀬棚町北島歌28番地
建築年代 明治15年(1902)
構造 木造2階建 」
旧有島家住宅は、近代文化の代表的作家・有島武郎が居住した家である。
説明板「旧有馬家住宅(7)」
「 日本近代文学史上の代表的作家の1人である、有島武郎(明治11年(1878)〜大正12年(1923)が、明治43年(1910)5月から、翌年7月頃まで住んだ建物である。
一般の住宅にも、上げ下げ窓などの洋風意匠を取り込み始めた頃の建物である。
旧所在地 札幌市白石区菊水1条1丁目
建築年代 明治37年(1904)
構造 木造一部二階建 」
内部には、赤味の電燈が点し、藤造りの椅子などが展示されていた。
家内にあった、説明板「旧有馬家住宅」
「 有島武郎の作品「生れ出づる悩み」の中に、 豊平川右岸の、
1町歩ほどもある大きなリンゴ園のなかにあった借家 とあるのが、
この家である。
当時、有島は、母校の東北帝国大学農科大学(札幌農学校の後身、
現在の北海道大学)の英語講師で、
働く若い人達のための遠友夜学校の代表者でもあった。
この家で、有島は、「或る女のグリムプス」を書き、雑誌「白樺」に、掲載を開始した。 」
中には、有島武郎の写真や略年表、そして、著書が置かれている。
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「旧松橋家住宅」の説明板の奥に、L形の平屋の建物がある。
説明板「旧松橋家住宅」
「 この建物には、違い棚のある床の間、回り縁つきの離れや、
3畳の女中部屋があり、古いしきたりの残っていた、
明治・大正時代の家族制度と住宅のつながりを知ることができる。
展示資料の中で、精神療法関係をはじめとする、多くの書籍は、
会社経営のかたわら、宗教や哲学の研究を続けた、松橋吉之助(明治8年(1875)〜昭和18年
(1943)) が、残したものである。 」
続いて、旧福士家住宅がある。
説明板「旧福士家住宅(5)」
「 幕末から、明治期にかけて、造船・通訳・気象観測・測量など、
広い分野で活躍し、北海道開拓に貢献した、福士成豊 [天保9年(1838)〜大正11年(1922)]
が、明治半ばから大正11年まで居住した建物である。
明治前期の洋風建築と明治後期の和風住宅を接続した、特異な建物である。
旧所在地 札幌市中央区北4条1丁目1番地
建築年代 明治時代
構造 木造平屋 一部2階建b 」
その先に、旧手宮駅長官舎の2階建ての建物がある。
説明板「旧手宮駅長官舎(3)」
「 明治13年(1880)、北海道で初めての鉄道として、幌内鉄道が敷設された。
その職員官舎として建てられたのが、この建物である。
骨組や上げ下げ窓など、外部の意匠に、洋式の手法が用いられている。
手宮宿舎5号と呼ばれていたもので、同じ形のものが6棟、建てられていた。
旧所在地 小樽市手宮
建築年代 明治17年(1884)
構造 木造2階建て 」
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旧手宮駅長官舎の中は和風に仕上がっている。
説明板「旧手宮駅長官舎」
「 建物は、様式の技術を用いているが、奥の台所(板の間)には炉を設け、
上武には煙出しの窓があり、間取りなどにも、伝統的な和風のかたちがうかがえる。
明治期の小樽港は、手宮を中心として、石炭や材木の積み出し港として、
賑わっていた。
本州からの移住者は、ここから幌内鉄道に乗り換え、札幌や現地に向かう人々が多かった。
内部には、大正初期の駅長家族の生活を展示している。
二階に「き蕎麦」の看板を上げ、白い漆喰壁には、「東楼」と「三ます(区に1で表現)の黒字が書かれた建物と、2階建ての倉が繋がっている家がある。
旧三ます 河本そば屋である。/p>
説明板「旧三ます 河本そば屋(19)」
「 この建物は、明治18年(1885)頃に、石川県から小樽へ移住した河本徳松(当時18歳)が、
そば屋の修行を積み、三ますそば店ののれんを継いて、新築した店である。
小樽市街のなかでも、最も栄えた地域にあった、このそば屋は、
食事や宴会の場として、多くの人びとに利用されていた。
旧所在地 小樽市住吉町16番地7号(小樽区若松町1丁目)
建築年代 明治42年(1909)頃
構造 木造2階建 」
中に入ると、広い和室は二つ繋がっている。
多くの客のしゃべりあう声が聞こえてくるような雰囲気が感じられる空間である。
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二階建てのモダンな建物は、旧近藤医院である。
説明板「旧近藤医院(21)」
「 この建物は、明治33年(1900)に、函館病院から、古平病院に招かれ、
同35年に古平町せ開業した、近藤清吉が建てた病院で、
昭和33年(1958)まで使われた。
木道2階建の病院等には、1階に診察室、手術室、茶の間などがあり、2階に居室がある。
石造2階建ての倉は、明治後期建築の文庫倉である。
旧所在地 古平郡古平町浜町167番地
建築年代 大正8年(1919)
構造 医院棟 − 木造2階建
文庫倉 − 木骨石造2階建 」
黒茶の外観に赤い屋根がアクセントになる洋風デザインの建物は、廣瀬写真館である。
説明板「旧廣瀬写真館(28)」
「 この建物は、大正末期から昭和33年(1958)まで、岩見沢市街で営業した写真館を再現した。
外観は洋館であるが、内装の多くは和風で、和洋折衷の建物である。
撮影には自然光を用いたため、写場は2階に設け、北側の屋根に、
シングル・スラント と呼ばれた、濃めのガラス張りとしている。 」
北大(旧札幌農学校)の寄宿舎(恵迪寮)は、復元されたものだった。
入って見ると、階段が急である。
若者が寮歌を歌い、飲んだ勢いで、各部屋に殴り込みを懸けた、青春の場が学生寮(寄宿舎)である。
説明板「旧札幌農学校寄宿舎(恵迪寮)(30)」
「 開拓使仮学校に始まる、札幌農学校(現在の北海道大学)は、
明治9年(1876)、現在の時計台付近に開学した。
明治36年(1903)に、現在の北大構内へ移転し、寄宿舎も新築され、
同40年に恵迪寮(けいてきりょう)と命名された、
当時は、玄関棟と2棟36室、および、厨房棟があったが、
ここでは玄関棟と2棟12室を復元した。 」
以上、村内を見てきたが、愛知県にある、明治村がこの村と似ている、と思った。
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訪問日 令和四年(2022)九月十日〜十一日