名所訪問

「 北海道旅行 道央  」

( 白老 ・ 昭和新山 ・ 洞爺湖 )


かうんたぁ。


新千歳空港から白老のアイヌ村へ行った。 
白老町はアイヌ人がコタンを築いたのが町の始まりである。
白老は、アイヌ語で、アブ・多い所(シラウオイ)に由来する。
江戸時代の終わりに近い安政三年(1855)、仙台藩が陣屋を設立し、塩釜神社を建立している。
アイヌ民族博物館では、アイヌの衣裳をまとった人が、アイヌ人の生活ぶりを紹介してくれた。
続いて、広場で、アイヌ古式舞踊が披露された。

「 白老町は苫小牧市と東で接し、西は登別町と隣接する町で、 新千歳空港から高速道路で、四十分位で到着できる。
白老には、阿寒湖・屈斜路湖のアイヌ村と共に、 数少なく残るアイヌ人のコタン(集落)がある。
アイヌ人は、江戸時代までは、蝦夷(北海道)の各地に住み、狩猟と漁業を生業として、 和人(内地人)と交易して生活していた。
アイヌ人は日本国に縄文時代からいた先住民族であるが、弥生時代に、 大陸から来た農耕民族により、土地を追われ、時代とともに 北に追いやられた。
江戸時代には北海道と津軽北部のみに居住するのみになり、 内地にいたアイヌ人は後発の農耕民族と混血し、現在の日本人を形成していった。
蝦夷(北海道)は農耕に適さない土地であったが、 鮭。ニシン・鯨・昆布・白鳥・鷹・トド皮などが獲れたので、これを交易品として、 内地人(和人)と米や酒・麹。小袖・紬などと、物々交換して生活していた。
狩猟民族なため、集落(コタン)は形成するが、国家というような概念を持たない民族であった。
明治時代に入ると、明治政府は、アイヌ人を土人扱いにし、彼らに土地の所有権を認めず、 北海道全土を官有化する。
北海道の開拓を進め、内地からきた開拓民に土地を払い下げ、開拓地を拡げていった。
開拓により出来た市街地にいるアイヌ人は、強制的に他の地に移住させられた。 
また、和人に同和化する政策がとられ、 服装や名前・言語も、日本語に準拠するよう強制させた。
資源保護や狩猟は野蛮であるとの見地から、狩猟の仕掛けや毒矢が禁止され、 狩猟民族であるアイヌ人の生活基盤が冒され、アイヌ人の人口は減少した。
明治後期には、生活再建として、土地の支給が行われたが、 狩猟民族のため、農耕知識も農場経営の能力もないため、失敗して 日本人の小作人になるものが続出した。
軍国主義の時代になると、日本は単一民族の国であると定義され、 アイヌ人(蝦夷人)の存在は抹殺された。
それに異を唱える運動が昭和に入り、旧アイヌ人を中心に行われた。
その運動の中心となった地の一つが白老である。
アイヌ人の歴史と文化を発信するために作られたのが、アイヌ民族博物館で、 昭和五十九年に開設され、平成二十年(2008)まであった。 
また、伝統文化を示すために行われたのが、アイヌ古式舞踊の紹介である。
日本政府は、アイヌ民族の存在を否定続けたが、ユネスコからの勧告が出たため、 しぶしぶ認めた。
平成二十年(2008)、「アイヌ民族を先住民族とすることを決める」 法律が成立した。
これにより、アイヌの先住民族の地位と文化の実在が確立した。
白老では、平成二十一年(2009)に、ポロト湖畔に、国立アイヌ民族博物館と、 ウボポイ(民族共生の象徴となる空間)と、国立民族共生公園、高台に慰霊碑を設置した。
小生が訪問した平成十八年(2006)は、運動の最中で、アイヌ民族博物館は、 アイヌ民族の存在を訴え運動した人達が造った旧のものである。
また、 アイヌ古式舞踊は、白老民族芸能保存会が継承していて、ュネスkの無形文化遺産に登録された。 」

村内を歩くと、黒ユリが咲いているのを見つけた。

国立アイヌ民族博物館へは、道南バス)「白老コダン前」バス停から徒歩5分。
               JR室蘭本線白老駅から徒歩15分。

白老アイヌ村
     アイヌ古式舞踊      黒ユリ
白老アイヌ村
アイヌ古式舞踊
黒ユリ

白老ICから道央道にのり、伊達ICで降り、北上すると、昭和新山熊牧場がある。
近距離からの観察のため、鉄柵(人のおり)がある。
飼育員が餌を投げると、立ち上がり、手で「こっち こっち」と手招きするような動作が みられた。
その様子は愛くるしいが、内地で生息する月の輪クマと比べ、獰猛で荒々しい。
見学はあっという間に終了した。
クマ牧場を出て、昭和新山へ向うと、バスを追いかけてくる、キタキツネがいた。
少し走ると、昭和新山に到着した。

「 昭和新山は、昭和十九年(1944)に始まった噴火活動により、 土地が隆起し、溶岩円頂丘が形成された。
ここは有珠山の麓であるが、平地に400mの火山が出来た。
山肌が赤色に見えるのは、かっての土壌が溶岩の熱で、煉瓦のように固まったからである。
昭和新山は私有地で、壮瞥郵便局長が当時の記録を残しており、 所有者はその子孫と結婚した三松三郎で、三松正夫記念館長である。 」

熊牧場
     走るキタキツネ      昭和新山
熊牧場
走るキタキツネ
昭和新山

その後、宿泊先である洞爺湖温泉へ向かった。
展望台に立ち寄ると、洞爺湖の向こうに、蝦夷富士(羊蹄山)が望めた。

「 羊蹄山jは、標高1898メートルの成層火山である。
均整のとれた姿から、蝦夷富士と呼ばれる。
アイヌ語では、「マチネシリ」(女山) と呼ばれ、「ピンネシリ」(男山) と呼ばれる、 尻別山と対をなし、夫婦山とされる。 」

洞爺湖は、周囲43kmの湖である。 
洞爺湖の中にある中島の周囲に小さな島が見えた。

「 洞爺湖は、周囲43kmの湖である。 
湖の背後(南方)に有珠山と昭和新山が控える。
昭和五十二年(1977)と翌年に有珠山が噴火したが、 昭和五十七年(1982)に、噴火活動終息宣言が出された。
平成十二年(2000)三月、有珠山と、西山山麓が噴火。
翌日には、西山西麓と洞爺湖温泉に近い金毘羅山で、新噴火口が開き、 周辺に次々と新しい火口が形成された。
翌年八月、終息宣言が出された。
有珠山の噴火による、溶岩流の流出があり、一部地域で被害は出たが、 避難処置の徹底で、人畜の被害はでなかったが、洞爺湖温泉はその後もしばらくの間、 客足が遠のいたが、最近は落ち着いたようである。
洞爺湖には、五つの温泉があるという。 
建物も北海道の中では立派なものが多く、全国からツアー客を集める有数の観光地である。 
毎晩七時に花火をあげて見せてくれる。 」

泊まった宿は、洞爺湖万世閣ホテルレークサイドである。

「  宿泊した万世閣は、1,00名も泊まれる旅館。 
最上階8Fには女性専用の大浴場。檜造りの露天風呂やサンルーフ付きのサロンがあった。
野趣たっぷりの岩造り露天風呂やサウナなど、入浴気分を満足させるものだった。 」

散歩に出ると、ピンクの花が無数に咲く樹木があったが、名前は分からなかった。

羊蹄山
     洞爺湖      ピンクの花が咲く
羊蹄山
洞爺湖
ピンクの花が咲く

訪問日     平成十八年(1996)六月六日



名所訪問 ( 北海道・東北 編) 目次