名所訪問

「 道東ドライブ B  知床から根室半島・納沙布岬  」

( 知床五湖・野付半島・風蓮湖・根室半島チャシ跡群 )


かうんたぁ。


令和三年(2021)七月二十日、知床のウトロ温泉から、根室の納沙布岬へ向かう。

◎ 知床のウトロ温泉から風蓮湖

ウトロ温泉を出ると、知床峠に向う。
見晴橋を渡ると、左側の道道93号に入る。 
くねくねした道をしばし進み、左に入ると知床五湖の入口である。 
ここには展望台があり、しばし眺めた。

「 原生林に囲まれてたたずむ幻想的な5つの湖からなる。 
周りの樹林や知床連山を湖面に写して、静寂を保っている姿は、 原始の中の楽園にふさわしい。 
高架木道の展望台からは、第一湖と知床連山の大パロラマが見渡せる。 」

道を引き返し、幾つかの峰を越えると、知床峠に到着した。 
知床峠は、斜里町ウトロと、羅臼町を結ぶ、「知床横断道路」 のピークにある峠である。
標高738メートル。 道の脇が展望台で、振り返ると、 知床連山のなだらかな風景が見られた。

知床五湖
     知床五湖      知床峠
知床五湖
知床五湖
知床峠

知床峠からくねくねした道が続き、羅臼入口のバス停先で大きく左にUターン。 
その先も大きくカーブしながら下り、右側に熊越の滝を標識を見ながら、 知床大橋を渡る。 
羅臼温泉郷を通過し、坂を降りきると、左手に羅臼漁港があり、 我々は羅臼には寄らないので、 羅臼本町から、国道335号(国後国道)を海岸沿いに、走らせていく。 
標津の手前で、国道244号に変わるが、羅臼から標津までは約一時間の距離であった。 
ポー川史跡自然公園や三本木遺跡があり、このあたりは古くから開かれていたことが分かる。 
標津には、北方領土館や標津サーモン科学館があるが、寄らずに行く。 
その先、野付分岐バス停から左の道道950号に入ると、野付半島でナラワラ、 トドワラ、竜神崎があり、原生花園がある。 

「 野付半島は、根室海峡に向けて飛び出した、 全長二十八キロの日本最大の砂嘴の半島である。 
トドワラは、立ち枯れたトドマツ林のこと。  幾度かの暴風や嵐により、現在は数本が見ることはできない。 
野付半島は、冷涼な気候から、高山植物の可憐に花々が咲く。と知られる。 」

下の写真は十九年前に訪れた時のもので、 今はトドマツ林はほとんど消えてしまったようである。 
この地には、黒ユリ、エゾカンゾウ、センダイハギ、ノショウブ、アッケシソウが咲くが、 この時はハマナスが咲いていた。 
知床旅情に登場する花である。 
野付分岐を国道244号を南に進む。 
別海北方展望塔があり、 別海漁港の左を通ると道は根室湾と別れて、内陸へ入り、 風蓮湖が見えるところに出る。 
その先はまた内陸部に入り、風蓮川を過ぎると根室市明郷で、 その先の厚床2丁目交叉点で、左折して国道44号に入る。 
しばらく走ると、左側の風蓮虎のほとりに、道の駅スワン44ねむろがある。 

「 手付かずの自然が、色濃く残すラムサール条約登録湿地「風蓮湖」に隣接し、 湖に沿って木道が整備され、風蓮湖を望む展望台が設置されている。 
春と秋はオオハクチョウ、夏はタンチョウ、冬はオオワシ、オジロワシと、 四季を通して、様々な野鳥が訪れる風蓮湖は、まさに野鳥の楽園です。 」

当日、木道は、熊の足跡が見つかったと、進入禁止で、残念であった。

トドワラ
     ハマナスが咲く      道の駅スワン44ねむろ
野付半島トドワラ
ハマナスが咲く
道の駅スワン44ねむろ

店内に入ると、ガラス越しに、風蓮湖が見えた。 
昼食には花咲蟹ラーメンを食べたが、おいしかった。
道の駅を出ると、温根沼と根室湾の上に架かる温根沼橋を渡る。 
この後、根室市歴史と自然の資料館へ行く。 
花咲港の北東にあり、南に進むと花咲灯台車石があるところに位置し、 隣は花咲港小学校である。 

「 レンガ造りの建物は、昭和十七年(1942)に、 大湊海軍通信隊根室分遺所として建設され、戦後は花咲港小学校として使用されたが、 平成二年から根室市郷土資料保存センターとして、郷土資料の収集、保存を行い、 平成十六年から根室市歴史と自然の資料館として、博物館相当施設の認可を受けた。 
市内遺跡から出土した考古資料、ロシア初の遺日使節であるラクスマンの根室来航の資料、 樺太に設置された国境標石などの歴史資料、シマフクロウ、ラッコなど、 この地域を特徴づける自然資料を展示している。 」

所在地:根室市花咲港209番地 TEL:0153−25−3661
  月、祝祭日、12/29-1/3休  9時30分〜16時30分

風蓮湖
     花咲蟹ラーメン      歴史と自然の資料館
窓越しの風蓮湖
花咲蟹ラーメン
根室市歴史と自然の資料館



◎ 根室 (根室半島チャシ跡群と納沙布岬)

根室市歴史と自然の資料館には、日本100名城のスタンプと資料が置かれている。

「 チャシは、北海道を中心に、 千島列島・樺太・東北地方の一部地域に見られる、 独特な形状をした砦、または、城の総称である。 
チャシは、アイヌ語で、「柵囲い」 を意味し、砦、祭祀の場、見張り場など、 多目的な用途に使われていた、とされる。 
チャシは北海道で約五百ヶ所が確認されていて、道央から道北にかけて多く分布するが、 道内の自然の地形を巧みに利用し築かれた簡易なものがほとんどである。 
純粋な軍事施設というより、聖域などの側面ももっていて、 祭祀に利用される場合が多かった。 
また、部族同士の談合(チャランケ)や漁業のための見張り場(鮭の遡上監視など)として、 使用されることも多かった。  根室市内に32ヶ所のチャシ跡が現存している。 」

この後、日本100名城の弟1番に認定されている、「根室半島チャシ跡群」 と、 北方領土四島に近い、納沙布岬に向う。
花咲港から敷島町2交叉点に出て、右折して市役所前を通り、 その先の交叉点を左折して坂を下り、本町3交叉点へ出る。 
右折して道道35号根室半島線に入り、道なりに進む。 
出発して約一時間、ノツカマフ1・2号チャシ跡は、 風力発電の二本の風車が立つところの左手にあった。 
道道から左に入ったところに二台分の駐車場があり、そこが入口である。 
ここにある「牧の内文化遺産」の説明板には、「旧海軍飛行機滑走路跡」と、 表示されていて、道の手前の右手奥にあったようで、 飛行場建設の際には、根室駅から牧の内まで引込線が引かれた、とある。 
ノツカマフ1・2号チャシ跡があるところまでは、笹が茂る草原で、 ヒオウギアヤメなどの野生の花が咲いていた。 

100名城スタンプ
     説明板      野生の花ヒオウギアヤメ
100名城スタンプ
牧の内文化遺産説明板
ヒオウギアヤメの群生

ノツカマフ1号と2号チャシ跡に分かれるところに、説明板が建っている。 

説明板の 「ノツカマップの歴史」 の部分
「 この地は、ノツカマップというアイヌ語の地名で、 「 岬の上にあるところ 」 という意味である。 
1754年には、松前藩の役人やこの地を経営する和人が住むようになりました。 
1778年には、ロシアの商人・シャパーリンや、オチェレデンが、ノツカマップを訪れ、 交易を申し出ました。 
1779年には、この地域を治めていた和人が、 アイヌ民族に対し、過酷な労働や暴力的な支配を行ったことが原因で、 クナシリやメナシ(羅臼・標津)地方のアイヌ民族が、 和人七十一人を殺害する 「クナシリ・メナシの戦い」 がおきます。 
その後、松前藩は鎮圧隊を派遣し、戦いに加わったアイヌ民族三十七人をこの地に集め、 処刑しました。 
それまで、ノツカマップはこの地方の中心でしたが、 この事件をきっかけに、現在の根室港周辺に、中心が移りました。 」

説明板の 「ノツカマフ1・2号チャシ跡」 部分

「 ノツカマフ1号チャシ跡は、半円形の壕が二つ連結していて構成されています。 壕の幅は約5m、深さは2m〜3mと深く、壕の一部に「土橋」と思われる高まりがみられます。ノツカマフ2号チャシ跡は、 半円形の壕が1ヶ所巡り、 幅2〜3mで、深さ50cm程度と、壕が浅く作られています。 
チャシ跡からは、北方領土の国後島や歯舞群島を見渡すことができます。 」

右手に行くと、 「国指定史跡 根室半島チャシ群 ノツカマフ1号チャシ跡」 の標柱が建っている。
今は痕跡もなく、標柱が建っているだけであるが、 かってはノツカマップ湾に突き出した岬の上の崖上に、半円形の堀が巡る、「柵囲い」があったのだろう、と思った。  

説明板
     >ノツカマフ1号チャシ跡標柱      ノツカマフ1号チャシ跡
説明板
ノツカマフ1号チャシ跡標柱
ノツカマフ1号チャシ跡

その後、車を東に進めて行くと、左側に半円形の赤茶の造形物があり、 近くに無線アンテナが立っている。 
赤茶の造形物は、北方領土の返還を願う、四島のかけ橋である。 
その先には、返還祈念の願いを込めた、「祈りの火のために」 という、 モニュメントがある。 
また、北方領土の早期返還を願う、きぼうの鐘もあった。

四島のかけ橋
     祈りの火のために      鐘
四島のかけ橋
祈りの火のために
きぼうの鐘

その右手にあるのは、「寛政の蜂起和人殉難墓碑」 である。 

説明板
「 寛政元年(1789)五月、 和人のアイヌ民族に対する、脅迫や非道行為によって追い詰められた結果、 国後島と現在の標津町・羅臼町付近のアイヌ民族が、和人七十一人を殺害した。 
この出来事は、「クナシリ・メナシの戦い」 と呼ばれ、 最終的に、ノツカマップ(根室市牧の内)で、 戦いに関わったアイヌ民族三十七人が、和人によって、処刑された。 
この墓碑は、殺害された和人七十一人の供養のために、 文化九年(1812)に造られたもので、明治四十五年、 納沙布岬に近い珸瑤ぼうの海中で発見されたという。 
現地で保存されていたが、昭和四十三年、国後島を臨むこの地に移設された。 」

石碑には、漢字で記されていて、
「寛政元年五月に、この地方の凶悪なアイヌが集まり、突然反乱を起した。 
偶然居合わせた侍や漁民、合計七十一人が殺された。 
その姓名の記録は役所にある。 ここに合わせて供養し、この碑を建てる。 
文化九年四月建てる。 」 
という意味の文字が刻まれている。

「 この碑は、殺害された和人側の碑であるが、 和人の場所請負人が、アイヌ人たちを酷使し、越冬期の食糧の確保もままならない等、 番人らの度重なる横暴に耐えかえた、クナシリ島とメナシ地方のアイヌが立ちあがり、 ので、場所請負人や番人を殺害したもので、 石碑の内容は史実と異なる。 」

この碑の対面にある建物は北方館である。 
北方館は、北方領土返還要求運動の発祥の地で、 北方領土問題の発生の状況や、歴史経緯を展示資料によって、閲覧できる。 

その先の突き出た岬に、「返せ北方領土 納沙布岬」の石碑が建っている。 
納沙布岬は、日本の本土最東端に位置する岬で、 日本で一番早く朝日が見られるスポットとして、 有名である。 
また、ここからは晴れていれば、北方領土の島が見えるとのことだが、 当日は濃霧で、見えなかった。
ここには、国後島などへの距離が書かれた足形があった。

寛政の蜂起和人殉難墓碑
     北方館      納沙布岬
寛政の蜂起和人殉難墓碑
北方館
納沙布岬

訪問日     令和三年(2021)七月二十日

納沙布岬へは、JR根室駅から、根室交通バス納沙布岬行きで40分。
根室半島チャシ跡群の内、公共交通が利用できるのはオンネモトチャシのみである。
オンネモトチャシへは、JR根室駅から根室交通バス「納沙布線」で40分、 「納沙布岬」で下車、温根元漁港方面に徒歩約20分。



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