名所訪問

「 三内丸山遺跡(さんないまるやまいせき) 」


かうんたぁ。


三内丸山遺跡は今から十五年前、極寒の津軽で集団生活が行われていたことを示す、 縄文時代の大規模集落跡が発見されたと話題になったところである。
三内丸山遺跡は、沖館川右岸の河岸段丘上に立地する、 縄文時代前期中頃から中期末の大規模集落跡である。 
江戸時代から、遺跡が存在することは知られていたが、 平成四年(1992)、 県営野球場を建設する事前調査が行われた際、 大規模な集落跡とみられることが分った。 
平成十二年(2000)に、国の特別史跡に指定された。 


新青森駅西口で、レンターカーを借り、青森空港方面に十分程走ると、 史跡三内丸山遺跡の資料館に到着。 
入場料を払い建物を出ると、広大な広場がある。 

「 三内丸山遺跡は、八甲田山から続く緩やかな丘陵の先端に位置し、 標高は約二十メートルで、遺跡は約四十ヘクタールの広大な範囲に広がっている。 
遺跡には、通常の遺跡でも見られる竪穴住居・高床式倉庫の他に、 大型竪穴住居が十棟以上、約七百八十軒にもおよぶ住居跡、 さらに、祭祀用に使われたと思われる、大型掘立柱建物が存在した、と想定されている。 
平成六年(1994)には、直径約一メートルの栗の柱が六本検出され、 大型掘立柱建物の跡と考えられた。 
現在、発掘調査を基に、柱間と同じ、四メートル二十センチ間隔で床を作り、 三層の建物を復元している。 
屋根はさまざまな説があることから、復元していない。 」 

その奥にあるのは、縄文前期(約五千年前) の大型竪穴住居を再現したものである。
長さ十メートル以上ある大型竪穴住居は、集落中央付近から多く発見されたという。 

「 竪穴住居は、地面を掘って、床を作り、柱を立て、屋根をかけている。 
縄文時代中期(約四千五百年前)の竪穴住居を、 茅葺き・樹皮葺き、土葺きの三種類で、復元している。 
時代によって、平・形、柱の位置、炉の位置や構造に違いが見られる。 」 

掘立柱建物は柱穴を掘り、柱を立てたもので、 地面に、炉や床などの跡が見つからないことから、高床建物だったと考えられている。 
柱は約三十五センチの倍数で配置されている。 
その他、墓やゴミ捨て場・貯蔵穴・粘土採掘穴などが発見されている。 
また、板のように薄く造られている、「板状土偶」 と呼ばれる土偶が多く出土した。 

「 他の遺跡から出た縄文後期や晩期の立体的に、 体の各部を表現した土偶とは、大きく異なっている。 
この遺跡で出土した栗は、栽培されていたものであることが分かり、 多数の堅果類(クリ・クルミ・トチなど)の殻、 さらに、一年草のエゴマ・ヒョウタン・ゴボウ・マメなどの植物も、 栽培していたことが分かり、 縄文時代の人は、自然の恵みのみに依存した、採取活動で暮らしていた、 という定説を覆した。 
三内丸山では、集落の周辺に堅果類の樹木を多数植栽し、 一年草を栽培していた可能性も考えられ、 これらのことからこの遺跡の居住者は数百人と推定され、 この極寒の地に大きな集落が存在したことが明らかになった。 」

三内丸山遺跡
     大型掘立柱建物と大型竪穴住居      竪穴住居群
三内丸山遺跡
大型掘立柱建物と大型竪穴住居
竪穴住居群

三内丸山遺跡へは東北道青森ICよりR7バイパス経由、三内丸山遺跡方面へ5分
JR青森駅から市営バス「三内丸山遺跡」行きで30分〜40分
開館時間9時〜17時(6月〜9月とGWは9時〜18時) 第4月休(祝日の時は翌日)  12/3〜1/1  

訪問日     平成三十年(2018)五月三十日



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