浪岡城は、陸奥守、鎮守府将軍だった北畠顕家の流れをくむ、
北畠顕義が、十五世紀後半に築いた、と伝わる平城である。
昭和十五年(194)、青森県内で初めて、国の史跡に指定された。
続日本100名城の第103番に選定されている。
新青森駅発十時四十六分に乗り、浪岡駅に十一時四分に到着。
タクシーで、波岡城跡へ向かう。
タクシーの運転手は親切で、車道から狭い草ぼうぼうの道を走り、
内館の入口の標識があるところに連れていってくれた。
「 浪岡城は、北東へと続く丘陵の南端に位置し、
城の南側の急峻な崖下には、浪岡川と正平津川が流れ、天然の堀と水源を兼ねていた。
東西千二百メートル、南北六百メートルの敷地には、
幅十メートル〜 三十メートルの二重堀で分けられた八つの館(郭)があり、
各館は、丘陵を掘切るように構築され、
東から東館・猿楽館・北館・内館・西館・検校館の順になっていた。
内館は主郭で、城主の居館があり、
広さは東西約百二十メートル、南北約八十五メートルで、
南に正門、北に裏口があり、土塁に通じていた。
築城当時の堀は、深さ五メートル程あったが、
現在の堀跡は当時より二メートル程浅くなっている。
中央に中土塁があり、一本の堀を二重堀や三重堀にしていて、
この堀に住む場所の区別をしたり、守りを強化していた。
また、中土塁は通路にも使用された。 」
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内館の西の西館は、東西は北から約二百メートルメートル、
南北約百五十メートルで、
北館・検校館の間に、二重の掘割、その中央に土居があった。
北館は、全郭の中でもっとも広く、東西約二百メートル、南北約百メートルである。
全面が二重の堀で囲まれ、堀の中央の敷地は、当時(1500年〜1550年頃)は屋敷町のように規則的に区画されていた。
現在、板塀で区画しているが、当時、何を使って、区画していたかは分かっていない。
「 一区画に、大きな建物が一軒と、小さな建物が数軒、
井戸一つで構成され、家臣の屋敷が建っていた。
大きな建物は地面に掘った穴に、直接、柱を建てる掘立柱建物で、
小さな建物は地面を掘り下げて、地下に床を作る竪穴建物だった。
井戸は四〜五メートルの深さがあり、
中には崩れないよう、木で補強されていたものもある。
北館の中に、迷路のような道を造り、
本丸である内館までの通路をわかりにくくしたこと、
ここは家臣の住宅で、城に入ってきた人々を監視していた、と思われる。
天守や石垣が出来る前には、このようにして、
城の中心を守る工夫をしていたのである。 」
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北館の中を通り、下に降りると、堀が重なっているのが分かる。
橋を二つ渡ると、東館である。
「 東館の最広部は、東西約百二十メートル、南北約七十メートルで、
北・南に、二重の堀があり、南の猿楽館の堀は、中央に、中土塁(土居)がある。
浪岡城落城後は、一時は代官所が置かれたという。 」
東館の南にあるが猿楽館である。
「 最広部は、東西約八十メートル、南北約八十メートルで、
西と北に二重の堀があり、東は断崖である。
猿楽館の名称は、この地で、猿楽が催されたことによる。 」
猿楽館跡の先には案内所があるが、当日は閉まっていた。
新館は、東館の東と国道の南の地域で、南北約九十メートル、東西不明。
西に掘割があり、南は断崖となっている。
現在、発掘調査が行われているようである。
ここは、浪岡補佐の目的で置かれた、津軽郡代関係の武士の居館だった、と思われる。 」
以上で浪岡城の見学は終了した。
案内所前でタクシーを呼ぶと、しばらくして来たのはさっきの運転手さんだった。
かっての浪岡の町は元気だったようだが、
青森市と合併するころから寂びれていったという。
合併で良くなったのは、駅舎と庁舎だけと、自嘲気味に語られたのが印象的だった。
「 「浪岡御所」 と称された、北畠氏は、
十六世紀に入ると、大浦氏、大光寺氏と鼎立し、勢威をふるった。
永禄五年(1562)、九代目の北畠具運が、
一族の「川原御所」 を称する、北畠具信に殺害されたことから、衰運に向かい、
天正六年(1578)、 大浦為信(後の津軽為信) により、浪岡城が攻略され、
十代目・北畠顕村 が割腹し、浪岡御所は絶えて、廃城になった。 」
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浪岡城へはJR奥羽本線浪岡駅から徒歩30分、タクシーで約10分
市民バスで、青森空港経由、青森駅行に乗車し、五分、中世の館前下車、
そこから約八百メートル、徒歩で十三分(バスの本数が少ない)
浪岡城のスタンプは城跡にはない。
中世の館か、浪岡駅に併設されている交流施設のインフォメーションにある
訪問日 平成三十年(2018)五月二十九日