根城の創建は、鎌倉時代まで遡るが、その詳細はわからない。
南北朝時代、甲斐の国(山梨県身延町)の南部師行(なんぶもろゆき)が、
国司代に任じられ、建武元年(1334)、城跡を修築し、誕生したのが、根城で、
陸奥の南北方の一大拠点となった。
城跡は、中世の城郭として、昭和十六年に国の史跡の指定を受けた。
日本100名城の第5番に選定されている。
城は、八戸市街地の西端の馬淵川南岸の河岸段丘上に築かれていた。
JR八戸駅から南部バスで、博物館前バス停で下車する。
八戸市博物館と駐車場の間に、「南部師行」 の銅像が建っていて、
その下のプレートに履歴が記されている。
履歴
「 元弘三年(1333) 後醍醐天皇は、奥州を治めるため、
北畠顕家(きたばたけあきいえ)を陸奥守に任じた。
顕家は、後醍醐天皇の第八皇子義良(のりよし)親王(後村上天皇)を奉じて、
陸奥国国府に赴任したが、
この時、甲州出身の南部師行などを従い、陸奥に向った。
建武元年(1334)、南部師行は、広大な陸奥国の北半を治めるための根城を築き、
国府の代官として、南朝方の中心的な存在となって、活躍した。
しかし、延元三年(1338)、師行は、北朝方の足利軍との戦いに敗れ、
泉州堺浦で主君の北畠顕家と共に討死し、二度と八戸の地を踏むことはなかった。 」
ボランテイアガイド小屋の先に、「堀跡」の説明板がある。
説明板「堀跡」
「 堀は、地面を深く堀り込み、敵の侵入を防ぐために造られたもので、
この堀は、本丸や中館の堀と並ぶ大きなV字型の空掘(薬研掘)で、
三番堀と共に城の東側を守る重要な施設である。
現在、博物館のある東構地区から、発掘調査で、屋敷跡が見つかっているので、
この地区を根城の城内に含むと考えている。 」
根城配置図の水色部分が空堀である。
「 根城は、連郭式の平山城である。
本丸の東に、六つの曲輪と、その南に、沢里館があり、
これらの曲輪は、V字の堀(薬研堀)によって、区画されていた。
根城は、南部師行の死後、弟の政長が跡を継ぎ、南朝方への忠誠を守り続けたが、
南朝方が劣勢になると、八戸南部氏の勢力は、次第に弱体化していった。
明徳四年(1393)南部氏八代目の政光は、本領の甲斐国から根城に移り、
南部氏の再興を図ったが、このことから、この系統は八戸氏とも呼ばれる。
しかし、その間に、同族の三戸南部氏が力を付け、
根城八戸氏は、三戸南部氏・南部信直の支配下に、組み込まれてしまう。
天正二十年(1592)、秀吉の城破却令により、城(堀など)は破壊されたが、
館自体は残され、これ以降も。八戸氏の本拠であり続けた。
寛永四年(1627) 八戸氏二十二代・直秀は南部藩主・利直により、
遠野横田城に移封を命じられ、根城は廃城になった。 」
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空堀には東門があり、そこをくぐると右手に「薬草園」 がある。
この区画は広くその先に、「実のなる木」 の案内板があり、右手には桂の木もある。
その奥に東善寺館があったようである。
中央部に「通路跡」の説明板があった。
説明板「通路跡」
「 この通路は堀を埋め戻して、その上に砂利などを敷いて造ったものである。
通路は中央部に広がり、二手に分かれるが、
この分岐点から中館側(左手)は掘立柱建物や溝などで壊されていて、
通路として使われなくなったことが分かった。
もう一方の通路は、下町方面に伸びると、考えられる。 」
その先にある堀は、V字型の空堀だが、
現在でも一メートル程掘ると、地下水が出ることから、
堀底には水が流れていたことも考えられる。
堀の規模は、本丸や東善寺館と並び、根城の中では大きい方である。
なお、城の中央を東西に横切る国道も、堀だったと推定され、
その堀を境にして、郭の区画は北側が三角形など、
南側(沢里曲輪)は、短冊型 になっている。
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根城は西側に本丸、その北東側に中館、東善寺館、 国道を挟んだ南東側に、岡前舘(現在は住宅地)、沢里館の五つの館(曲輪)が連なっていた。
「 根城は、東善寺館、岡前舘の東側から、 沢里館にかけて、三番堀が巡らされて、 本丸の西側に、西の沢、城郭の北側に、馬渕川があり、 各郭ごとに巡らされた、V字の堀(薬研掘)と、 自然の地形をうまく利用した堅固な城だった。 」
ここから先は、発掘調査を基に、
当主の屋敷全体を全国で初めて復元整備した場所という。
空掘の先にある四阿(あずまや)あたりは中館である。
本丸は全体が柵で囲まれ、入口は中館と本丸の間に堀に渡した木造の木橋から通じる東門と北門及び西門があった。
東門が通常の門である。
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東門を入ると、主殿の前に上馬屋、中馬屋がある。
「 主殿は、当主が特別な来客と会ったり、
さまざまな儀式を行ったところで、
儀式に使う道具や南部家に伝わる家宝が納められ、大事に管理されていた。
建物の中は大きな部屋が規則正しく並んでいた。
土間の台所以外は、板敷になっていて、
畳は特別な会見や儀式の時だけ出されて使用されていたようである。
発掘された柱穴群に基づいて、主殿と上馬屋、中馬屋が復元されている。 」
その奥(南側)ある柱穴群は常御殿跡である。
「 常御殿は、当主が居住し、政治をとったところで、 重臣たちと協議したり、来客と接見するための広間や寝所、 従臣の詰所などがあったと思われる。 」
常御殿の奥には奥御殿があった。
「 奥御殿は当主の家族が住んでいたところで、
先祖の霊も祀られていた。
当主は、先祖の拝礼や家族のもとに、常御殿から通ってきたという。 」
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常御殿の西側には工房、南側には野鍛冶場、鍛冶工房があった。
「 野鍛冶場は、
壊れた鉄鍋や銅銭などを溶かす作業をしていたところである。
鉄はまじりものを除いてから、いったん、棒状にして、
銅は鋳型に流し込んで固めた後、鍛冶工房で加工された。
強い風は炉熱を逃がしてしまうので、板塀で囲んで防いでいた。
鍛冶工房の建物は竪穴式で、地面から九十センチ下にある鍛冶場では、
職人が鎧や刀の部品の他、釘などを作っていた。
鍛冶場には、フイゴと炉があり、
周囲には鍛冶道具や
不用になった鉄、銅銭、炭などが置かれていた。
当時金属は貴重なので、壊れた鉄片でも再利用された。
鉄製品は金づちで鍛え、銅は鋳型に流し込んで作られた。 」
板蔵は当主やその家族が奥御殿で使う道具や衣類を保管していた建物である。
品物を守るために厚さ六センチの厚板を使って丈夫に作られた。
板は柱の上から落ちこむようになっていて、
簡単に外すことができない構造になっていた。
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復元された主殿の中に入ると、当時の様子を窺うことが出来る。
八幡馬(やわたうま)は、南部地方に古く伝わる郷土玩具の一つである。
施された華やかな模様は、この地方で嫁入りする際の乗馬の盛装を表したものと、
伝えられる。
根城の見学を終え、八戸駅に戻った。
土地柄を感じさせる様々な食材が溢れる八戸。
鶏肉や野菜などで取ったあっさりとしただしに、
南部せんべいを割って入れて煮込む八戸せんべい汁は
心も身体も温まる素朴な郷土料理である。
海の幸の宝庫と知られる八戸には新鮮なウニとアワビを使った「いちご煮」や、
独特の香りと味のホヤがある。
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所在地 八戸市根城字根城47
根城へは東北新幹線・東北本線八戸駅から南部バス「司法センター経由」で約15分、博物館前下車、徒歩約5分
訪問日 平成三十年(2018)五月三十一日
(ご参考) 八戸と南部氏
「 元弘三年(1333) 後醍醐天皇は、奥州を治めるため、
北畠顕家 (きたばたけあきいえ) を陸奥守に任じた。
顕家は、後醍醐天皇の 第八皇子・義良 (のりよし) 親王(後村上天皇) を奉じて、
陸奥国国府に赴任したが、
この時、甲州出身の南部師行などを従い、陸奥に向った。
建武元年(1334)、南部師行は、広大な陸奥国の北半を治めるため、根城を築き、
国府の代官となるとともに、 南朝方の中心的な存在となって、活躍した。
しかし、延元三年(1338)、師行は、北朝方の足利軍との戦いに敗れ、
泉州堺浦で、主君の北畠顕家と共に討死し、二度と八戸の地を踏むことはなかった。
師行の死後、弟の政長が跡を継ぎ、
南朝方への忠誠を守り続けた。
根城南部氏は、戦乱の北東北を鎮め、
五代にわたって南朝に忠節を尽くし、八戸の基礎を築いた。
南朝方が劣勢になると、南部氏の勢力は次第に弱体化していった。
明徳四年(1393) 南部氏八代目となる、八戸政光が本領の甲斐国から根城に移り、
南部氏の再興を図った。
この後は八戸氏と称するようになる。
しかしその間に、同族の三戸南部氏が力を付け、
根城八戸氏は三戸南部氏南部信直の支配下に組み込まれてしまう。
南北朝合体以降、根城南部氏は三戸南部氏を宗家と仰ぎながら、
この地を治めた。
戦国時代に入ると、三戸南部氏は豊臣秀吉から朱印状を得、盛岡に居城を移した。
天正二十年(1592) 秀吉の諸城破却令により、城(堀など)は破壊されたが、
館は残され、これ以降も八戸氏の本拠であり続けた。
寛永四年(1627)、南部氏宗家となった三戸南部氏(南部藩主・利直)は、
根城南部家に、岩手県遠野市に移封を命じ、八戸は盛岡の直接支配を受けることになる。
これにより、八戸氏二十二代直秀は、遠野横田城に移封になり、根城は廃城になったが、
根城は南部師行の築城から遠野へ移封されまで、約三百年間続いた。
その後の八戸について記す。
寛文四年(1664)、盛岡藩三代目藩主・南部重直が、跡継ぎを決めずに死去したため、
幕府は、南部藩十万石のうち、弟の九戸重信に八万石、
その下の弟直房(中里数馬)に二万石を与える決定をした。
翌年、南部直房を初代藩主とする八戸藩が誕生し、
むつ線本八戸駅に近いところにある、三八城山の麓にあった、
盛岡藩時代の建物を引き継ぎ、居城とした。
八戸藩は、将軍が下知したので、正式の藩と認められ、城持ち大名となった。
城跡は、現在、三八城神社と三八城公園になっている。
八戸市庁舎向い南部会館前に、八戸城角御殿表門がある。
棟門は全国最大級で、県の重要文化財に指定されている。
長者山西麓にある月渓山南宗寺には八戸南部家の墓所がある。
南部家初代八戸藩主・直房から、その家族(十一代の麻子まで)の墓が並ぶ。
山門は県重宝に指定されていて、寺には八戸城の遺構の杉戸などが保存されている。 」