弘前城は、津軽地方を平定した津軽為信(当初は大浦氏)の志を継いた、
子・信枚(のぶひら)により、慶長十六年(1611)に築城された城である。
津軽平野に立地し、創建当初の規模は、東西六百十二メートル、
南北九百四十七メートル、総面積四十九万二千平方メートル(約十四万九千坪)を有した。
本丸・二の丸・三の丸・四の丸・北の郭・西の郭の六郭よりなり、
三重の濠と土塁を巡らせた、梯郭式平山城である。
津軽氏は、徳川家康より、弘前藩四万七千石を賜り、この城を建築、城下町を整備し、
弘前を津軽地方の政治・経済の中心地にした。
現在、現存十二天守に数えられる天守と、八棟の建築が残り、
これらは、いずれも、国の重要文化財に指定されている。
また、日本100名城の第4番に選定されている。
小説家・司馬遼太郎は、「 街道をゆく - 北のまほろば 」 の中で、
弘前城を 「日本七名城の一つ」 と紹介している。
弘前駅から弘南バスに乗り、市役所前でバスを降る。
弘前城へ行く前に、寄り道をする。
弘前市役所前にある「弘前図書館」とある建物は、旧弘前市立図書館である。
「 明治三十九年(1906)に建設された、
ルネサンス風の意匠を基調とした、木造三階建ての歴史的建造物である。
左右両端に配置された、八角形三階建ての塔が、特徴的な建築で、
建物全体に窓が多く配置されていて、さらに、
正面中央には採光のためのドーマー窓を設けるなど、
図書館としての機能にも配慮された設計となっている。
市立東奥義塾(現東奥義塾高等学校)の敷地内(現在の追手門広場付近)に建設されたが、
手狭になったことから、昭和五年(1930)に、図書館が別の建物に移転することとなり、
また、東奥義塾の校舎拡張も相まって、昭和六年(1931)に、
設計・施工を手がけた堀江家に払い下げられ、弘前市富野町に移築された。
平成元年(1989)、市制施行百周年記念事業の一環として、弘前市が再取得して、
追手門広場(東奥義塾跡地)に再移築し、
市立郷土文学館の施設として保存されるとともに、
郷土出版物や文芸資料などが一般展示されている。 」
その奥にある建物は、旧東奥義塾外人宣教師館である。
青森県初の私学校・東奥義塾の外国人宣教師が住んでいた家で、
当時の暮らしぶりが伝わってくる。
また、その裏には、ミニチュアの建物が沢山展示されていた。
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弘前城へ無逢うと、水堀に囲まれた、追手門がある。
「 四代藩主・信政の時代に、
碇ヶ関に通じる道が造られて参勤道になったことから、
三の丸の門が、追手門(正面の門−大手門)になった。
構造は脇戸付楼門、屋根銅瓦葺き。 <br>
築造は築城当時に遡るとされ、当初は木瓦葺きだったが、
後に銅瓦葺きに葺き替えられた。 <br>
明和三年に大地震で大きな被害を受けた時、二層内部に、支柱・筋違・捨梁を入れて、
補強している。 <br>
昭和十二年、国の重要文化財に指定された。 」
追手門を入ると旧三の丸である。<br>
左側は市民広場、右手は弘前城植物園て、植物園内には三の丸庭園がある。
植物園の入口で左折し、市民広場を横断すると、市民会館がある。
また、直進して進み、三叉路を左折して進むと、博物館がある。
その先、赤い杉の大橋を渡る。
弘前城は、堀や石垣や土塁等、城郭の全容は、
廃城になった当時時のほぼ原形をとどめている。
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橋を渡ると二の丸である。
「 二の丸南門は、二の丸東門と同様、
楼門の一階正面の柱に、ケヤキ板を化粧のための鏡板をして張りつけるなど、
内廻りの門としての配慮がされている。 <br>
築城時頃からあったと思われ、当初は木瓦葺きだったが、
文化年間に銅瓦を葺いたとのいう記録が残っているという。
昭和十二年、国の重要文化財に指定された。 」
二の丸の南西にあるのは未申櫓である。
「 未申櫓は、城郭に取り付く敵を攻撃したり、 物見のために造られたもので、防衛・防火のために、土蔵造りとなっている。 」
二の丸の現存櫓は、辰巳櫓・丑寅櫓・未申櫓の三棟で、
いずれも三層建てだが、窓の形など、細部の造作に違いが見られる。
櫓の名前は、十二支で方向を示したもので、南東にあるのは辰巳櫓である。
「 一、二層は、四間四方の同面積だが、三層は小さくし、
屋根は入母屋造りである。
この櫓で、藩主は三の丸を通る弘前八幡宮の山車行列などをご覧になったという。 」
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本丸に入る橋は「下乗橋」 と呼ばれていた。
「 二の丸側に下乗札があり、
藩士は馬から降りるように定められていた。
築城当初の橋の両側は、土塁板だったが、文化八年(1811)に石垣に直された。
以前はギボシが十二支をかたどったものだったという。
現在の橋は、平成十七年に竣工したものである。 」
橋から向うは入場料がいる。
現在、橋の向こうの右側の石垣は、工事中である。
以前訪れた時には、写真のようにここに天守が建っていた。
「
弘前城の天守は、昭和二十四年(1949)に、北海道の松前城天守が焼失したため、
関東以北で唯一現存する天守である。
弘前城の天守は、弘前藩二代藩主・津軽信枚により、慶長十六年(1611)に、
本丸南西隅に、五重の天守が建てられた。
しかし、
寛永四年(1627)の落雷で出火、天守内部に収納されていた火薬に引火して、
大爆発を起こして本丸御殿や諸櫓とともに焼失した。
翌年の寛永五年(1628)、
地名の鷹岡を、信枚の帰依する天海大僧正が名付けた 「弘前」 に改称し、
城名も、弘前城とした。
以後、二百年近くの間、天守のない時代が続いた。
文化七年(1810)、九代藩主・津軽寧親が、
ロシア船の津軽海峡往来などの事態により、
幕府の許しを得て、天守の代わりとして、本丸南東隅の辰巳櫓(南東隅櫓)を解体、
新築して、文化八年(1811)に竣工した。
本丸で唯一の現存建築である天守は、層塔型三重三階の建物で、
現在は独立式であるが、最初は北側に多聞櫓を付属させた複合式だった。
附属の多聞櫓は、明治二十九年(1896)ごろまでに破却され、今はない。 」
天守を支える石垣が膨らんで、崩壊の恐れがあるとして、 天守を引き屋により、本丸の中央に移され、その姿で公開されていた。
「 現存天守の高さは、約十四・四メートルと小振り。
外壁は、白漆喰塗籠、窓と狭間の上下に長押形を施し、
屋根瓦は寒冷地のため銅瓦葺きである。
外側に面する東面と南面は、一層目と二層目に、大きな切妻出窓を設け、
窓には狭間窓を用いるなど、
小さな建物を華美で大きく見せる視覚効果が施されている。
一方、本丸の内側に当る西面と北面は、見栄えを考えず、
破風はなく、連子窓を単調に並べただけである。 」
現在公開中の天守入口の方から見ると、その差異は確認できる。
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反対側に廻ると、天守を眺められる展望台があり、
本丸外側に面する、東面と南面が目に入った。
ここには「弘前城天守台石垣の特徴ある隅石」という説明板がある。
説明板「弘前城天守台石垣の特徴ある隅石」
「 ここに置かれている長さ二十七メートル、巾一メートル、
高さ六十センチ、重さ三トンのイカの形をした石は、
愛称 「いかすみいし」と呼ばれる。
全国でも弘前城跡にしか見られない稀な石形である。 」
東屋になっているところには、「本丸戌亥櫓跡」の説明板がある。
説明板「本丸戌亥櫓跡」
「 元禄三年(1690)に、柿葺き(こけらぶき) の葺き替えが完了している。
また、同九年には櫓下の番所の修復も行われていて、
北の郭から櫓下・本丸への通路があった。 」
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鷹岡橋を渡り、本丸を出る。
そこには武徳殿があるが、右手に行くと二の丸東門がある。
「 二の丸東門は、南門と同様、
楼門の一階正面の柱に、ケヤキ板を化粧のための鏡板をして張りつけるなど、
内廻りの門としての配慮がされている。
築城時頃からあったと思われ、当初は木瓦葺きだったが、
文化年間に銅瓦を葺いたとのいう記録が残っている。
昭和十二年、国の重要文化財に指定された。 」
二の丸東門与力番所がある。
「 与力番所は、城内の主要な箇所の見張り所として、配置されたもので、
追手門与力番所・三の丸東門与力番所など、十二ヶ所あった。
この番所の建築年代は分かっていないが、
柱や梁に残された墨書は、江戸時代初期に建てられた三の丸東門の墨書きに酷似し、
構築手法が江戸中期の様相を呈していることから、
古材を利用し、江戸中期に改修したものと推定される。 」
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武徳殿は北の郭跡である。
出口に向ってすすむと、右手に二の丸丑寅櫓がある。
「 丑寅櫓は、二の丸の北東にある三層の櫓で、
土蔵造り、銅板葺き(当初はとち葺き)で、
軒下や出格子は素木のままで飾り気はないが、独特の美しさを見せる。
昭和十二年に国の重要文化財に指定された。 」
江戸時代には、本丸・二の丸・三の丸、および、附属の郭は、
三重に巡らされた堀により、区切られていた。
この先に、堀が残っている。
道を進むと、城門跡と思えるところがあり、「賀田御門跡」 の説明板がある。
説明板「賀田御門跡」
「 築城当時は、北門が城の表玄関であった。
三の丸の北門・賀田門は、旧賀田城(岩木町大浦城) の大手門を移築したと伝えられる。
門の内外は直進できないように折れ曲がった枡形が造られていて、
堅固な構えを見せている。 」
賀田橋を渡ると、広い空地が横たわり、左側には護国神社の鳥居が建っている。
そこを抜けると、北の郭北門 (亀甲門) がある。
築城当初、十の城門があったが、
そのうちの一つで、現存する五門は、いずれも、国の重要文化財に指定されている。
「 北の郭北門は、脇戸付楼門で屋根銅板葺き、現在は搦手門だが、
築城当時は大手門だった。
現存する他の四門と比べ、規模が大きく、かつ、銃眼がないなどの特徴をもつ。
大光寺城(平川市) の城門を移築したという伝承をもち、
転用材が多いことから、中世以降の系譜を持つことが想定される。 」
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弘前城を出ると、車道の反対側に横に長く続く建物がある。
石場家住宅である。
「 石場家住宅は、江戸時代中期の建築と推定され、
国指定重要文化財に指定されている。
現在は酒屋だが、石場家は代々「清兵衛」を名乗り、
藩内のワラエ品と荒物を扱っていた。
この地方では数少ない商家の遺構として貴重な建物で、
雪国特有のこみせに味わいがあり、居間の囲炉裏や柱などに歴史がしのばれる。 」
道を右に進み、交叉点を右折すると、 津軽藩ねぶた村 がある。
「 弘前ねぷたのお囃子の実演が行われる弘前ねぷたの常設展示館「弘前ねぷたの館」の他、 津軽三味線の生演奏を聴くことができる「山絃堂」や 津軽地方の民工芸品製作風景の見学や製作体験ができる体験型の施設である。 」
弘前ねぶたは、青森の大型台車に乗せられる大型のものでなく、小型である。
また、青森はねぶたと濁るが、
弘前はねぷたと破裂音である。
施設の中央に、国の登録記念物となっている、日本庭園・揚亀園(ようきえん)と
文化財に指定されている、東北地方でも数少ない雪国の茶室・揚亀庵がある。
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所在地 弘前市下白銀町1
弘前城へはJR奥羽本線弘前駅から弘南バスで約15分、市役所前下車、徒歩すぐ
訪問日 平成三十年(2018)五月二十九日