角館は、仙北市にある、国の重要伝統的建造物群保存地区である。
武家屋敷などの建物が残されていて、みちのくの小京都とも呼ばれる。
慶長七年(1602)、所沢氏が常陸多賀郡へ転封になり、佐竹氏が秋田へ入封し、
久保田藩領になる。
翌慶長八年(1603)、、秋田藩主佐竹義宣の実弟にあたる葦名義勝が、所領預かりとして、
角館に入った。
葦名義勝は、角館城のあった小松山の北部にあった城下町を、
現在の位置である、古城山の南麓に移転させた。
東京駅に行くと、
緑の車両とピンクの車両、北海道新幹線と秋田新幹線が連結されていた。
ピンクの列車が秋田行きで、盛岡までは連結し走るが、
盛岡で切り放され、田沢湖線の狭軌を走るが、時速250km以上走れる優れ物である。
東京駅発、八時四十分で、定刻に出発。
那須塩原駅までは関東平野が続くが、
白河から先はトンネルばかりで景観は著しく悪い。
大宮から仙台まで直行なので、仙台にあっという間に到着。
ほとんどの乗客が下りた。
代わりに乗ってきた人は秋田方面への客である。
盛岡駅に着くと北海道新幹線と切り離され、秋田に向けて出発。
十一時四十一分、角館駅に到着。 三時間ほどで到着できた。
駅から武家屋敷へ歩いて向かう。
駅から直進し、十分歩くと郵便局がある。
右折すると左側にローソンがあり、時計台が立っている。
江戸時代には、時計台のある交叉点あたりに、日除け地と土塁があった。
交叉点を越えると、黄や赤に紅葉し始めた樹木の並木道になる。
これが武家屋敷通りである。
「 旧城下町は、
狭隘な上に、水害や火災にしばしば見舞われたことから、
元和六年(1620)、現在の位置である古城山の南麓へ町を移転させた。
新しい城下町では、道路の幅員を広げるとともに、見通しを避ける工夫をこらし、
下水を整備し、火事対策を施して、武家地・町人地・寺社を配置した。
南北に細長い町を東西に貫く形で、中央に土塁を築き、火除け地にし、
その北側を武士の居住区である内町、南側を町人の居住地である、外町とした。
角館城は、同年発布された、一国一城令により、破却された。 」
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連結された秋田新幹線(奥) | 小さな時計台 | 武家屋敷通り |
道の右側の薬医門には、「小野田家」とある。
説明板「小野田家」
「 佐竹義宣より少し遅れて移ってきた小野田氏は今宮弾正の配下になり、
角館の菅沢町(現在の田町武家屋敷)に居住した。
小野田氏は角館に入って分家をつくり、
ここの小野田主水家は長右衛門から分かれた清右衛門家である。
両家とも佐竹北家組下に変わり、代々主水を名乗り、武芸に秀でていた。
九代藩主佐竹義和が文化八年(1811)に角館を訪れた折、
小野田主水直政(十九歳)は藩主御前で武芸を披露している。
また、眼科医としても名をなした。
建物は、明治三十三年(1900)の大火により主屋は消失したが、
その後再建された主屋の間取りは、近世武家住宅そのままである。
屋敷の特徴としては、薬医門から玄関までの灯台躑躅と
黒壁にそって熊笹が生い茂っていることである。
仙北市教育委員会 」
非公開の家もあり、修理中で入場できない家もあった。
また、武家屋敷を保存しながら、ねこの雑貨を売っている家もあった。
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小野田家薬医門 | 小野田家主屋 | ねこの店なめかわ |
人力車に乗って説明を受けている人がいた。
岩橋家の門をくぐると、「岩橋家住宅」 の説明板がある。
説明板「岩橋家住宅」
「 岩橋家は、会津黒川城主・芦名氏の重臣であった。
天正十七年(1589) 芦名氏が伊達政宗に敗れ、兄である常陸の佐竹氏を頼り、常州に移り、
江戸崎において、秀吉から四万五千石を与えられると、
岩橋氏も芦名氏に随従し、江戸崎に移った。
関ヶ原の戦い後、慶長七年(1602) 佐竹氏の出羽移封に伴い、芦名氏も出羽に下り、
角館一万五千石が与えられました。
岩橋氏は、一時、江戸崎を立退き、
津軽氏に三百石で仕官していたが、
主君の角館居住とともに、再び、芦名氏に帰参し、角館に居住しました。
芦名氏が、承応二年(1653) 三代にして、断絶に及んで、
代わって、角館所預となった、佐竹北家の組下として(八十六石)、廃藩に至るまで仕えた。
この建物は、江戸時代末期に改造され、屋根も茅葺きから木羽葺(こはぶき)に変わったが、
角館の武士の生活を今に伝えている。
仙北市教育委員会 」
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紅葉の下の人力車 | 岩橋家住宅 |
岩橋家の庭に、「天然記念物 岩橋家のカシワ」の木柱があり、
祠の隣に大きな樹木があった。
その先の交叉点の左手に樺細工伝承館がある。
「
樺細工(かばざいく)とは天然の山桜の樹皮を素材として造られた茶筒や文箱、
茶箪笥などである。
安永年間〜天明年間(1776〜1783)にかけて、
佐竹北家の手判役・藤村彦六により、阿仁地方から、技法が伝えられたのが始まりで、
その後、下級武士の副業として、育まれました。
正倉院御物には山桜の樹皮を用いて作られた刀子(とうす)がなどがあり、
また、万葉集や源氏物語でもみることができる。
樺細工は、名工達の秘技によって創りだされる、山桜の樹皮特有の光沢を生かした渋く
奥深い色合いが美しい工芸品である。 」
伝承館を出て左に行くと、桧木内川の堤に突き当たる。
木内川左岸堤防の桜並木は、「檜木内川堤桜」として、国の名勝に指定されていている。
また、「桧木内川堤・武家屋敷」として、日本さくら名所100選にも、選ばれている。
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樺細工伝承館 | 樺細工の茶筒 | 桜並木 |
交叉点に戻り、先に進むと、右側の薬医門前に、多くの人がいる。
入場料が500円の青柳家武家屋敷である(9時〜17時、冬は16時30分まで)。
「
当家は、天正八年、常陸国青柳和泉守より続く、角館を代表する武家屋敷である。
三千坪の敷地は、植物園のように草木に覆われ、その中に、六つの資料館がある。
薬医門は、藩への功績が認められ、特別に建てることが許され、万延元年に建てられた。
」
門をくぐると、「秋田県指定史跡 武家屋敷 青柳家」 の標柱の先に、母屋がある。
「 青柳家母屋は、約二百年前の建物で、厄除けの意味を込めた鬼板や懸魚等で 意匠をこらした玄関や、座敷内の板欄間に施された家紋の透かし彫り、 雪国特有の廻り縁など、武家らしい威厳に満ちている。 」
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青柳家武家屋敷 | 青柳家母屋 | 母屋玄関 |
母屋の左手に武器庫があり、青柳家の武具・六十二間小星兜・五輪塔旗印・
藤原高真による秋田郷土刀などが、展示されている。
その奥の右側に神明水があり、正面に解体新書記念館がある。
「
安政三年(1774)に日本最初の本格的な西洋医学の翻訳書として発刊された解体新書。
その附図を描いたのが、角館出身の武士で、青柳家と親戚の小田野直武である。
この建物には、直武の偉業と解体新書の附図、
また、直武と交流があった人物の作品が展示されている。 」
神明水の先に、小田野直武の肖像がある。
説明板「小田野直武」
「 角館の武士であるが、
日本で初めて洋画の技法である写実に取り組んだ天才画家。
解体新書のさい絵を描くなど、西洋医学の夜明けに貢献した。
寛延二年(1749) この地に生まれ、安永九年(1780)この地で、謎の死を遂げた。 」
小田野直武は、平賀源内に師事、秋田蘭画を確立した。
西洋の隠影法を取り入れた秋田蘭画は、彼と秋田藩主・佐竹義敦により完成した。
像の先には「秋田郷土館」があり、右手の橋を渡ると、正面に「武家道具館」がある。
武家道具館には、当時の武士の生活様式を伝える武家道具が展示されていた。
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神明水と解体新書記念館 | 小田野直武像 | 武家道具館 |
その先に時代体験館とハイカラ館があり、
アンティ−クコレクションが展示されている。
青柳家を出て進むと、紅葉が今が盛りと、美しかった。
その先に石黒家がある。
説明板「石黒家住宅」
「 藩政時代、角館町の財政管理を担った侍の家で、角館に現存する武家屋敷の中で、
格式が最も高いと言われています。
母屋の築年数は、この町の中では、最も古く、築二百十年程度です。
また、唯一、子孫家族が生活し続けるため、旧来部分を公開しています。 」
その先の左側に、平福美術館があり、蘭画の展示が行われている。
その先で、武家屋敷通りは終わる。
「 なお、角館武家屋敷は、昭和五十一年(1976)九月十四日、
国の要伝統的建造物群保存地区として、選定された。
日本で最初に選定された七地区の一つである。 」
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ハイカラ館 | 紅葉が今が盛り | 石黒家武家屋敷 |
訪問日 令和二年(2020)十月二十七日