久保田城は、佐竹義宣が、慶長七年(1602)に、秋田市の標高四十米の神明山に築いた平山城である。
秋田藩二十万五千八百石の佐竹氏は、
築城から佐竹氏十二代の明治二年(1869)まで、約二百七十年間、この城の城主であった。
日本100名城の第9番に選定されている。
千秋公園入口交叉点から、池を渡って、公園に入る。
道なりに進み、きらら図書館明徳館の周囲を右にぐるりと廻ると、コインパーキングがある。
この近くに、「久保田城跡」 の説明板が建っている。
説明板「久保田城跡」
「 本丸は、明治十三年(1880)七月の火災で全焼した。
同二十三年、公園として開放され、その後、千秋公園と称し、現在に至っている。 」
駐車場の先の右手に「安楽院・勘定所・境目方役所跡」の標柱があり、その奥に
秋田市立佐竹資料館がある。
佐竹資料館では、秋田藩主・佐竹氏関連の資料の展示や秋田の藩政時代を紹介している。
また、日本100名城のスタンプが置かれている。
正面戻ると、二の丸跡である。
二の丸の現在は、公衆トイレと売店だけで、後は広い緑地と遊歩道になっている。
「二の丸跡」の標柱
「 本丸に次ぐ城の要衝地であり、城内に入城する道は内掘を渡って、二の丸に集まった。
勘定所・境目方役所・安楽院(祈祷所)・時鐘・金蔵・厩などがおかれ、
特に、二の丸広場は、多数の家臣が集まる際の集合場所として利用されたほか、
能や踊りの見物のために、町人に開放されることもあった。 」
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売店の脇の石段を上る。 ここは長坂である。
長坂は途中で右に曲がり、更に左に曲がる。
道の両側は下に二段石垣があるが、その上は土塁で構成されている。
「 関ヶ原の戦い後、
常陸国から出羽秋田に転封を命じられた佐竹義宣が築いた久保田城は、
天守閣と石垣のない城として知られる。
石垣がほとんど用いられていないのは、佐竹氏が石垣普請に精通せず、
かわりに、土塁普請を得意としていたためで、
「鉢巻土手」 といわれる石垣は、基底部に僅かに石垣があるだけで、
その上に土塁を盛られる工法で、築かれている。
また、山川沼沢を巧みに利用して防御を図っており、
水堀や円郭式城郭など、西国の様式も採り入れられている。 」
右側に「御長坂門跡」 の標柱が建っている。
標柱「御長坂門跡」
「 長坂門は、本丸の玄関口である表門(一の門)の前に設けられており、
二の門とも呼ばれていた。
現在、久保田城跡に唯一残っている御物頭御番所
(秋田市指定文化財)がこれを管理していた。
長坂門の名称は、二の丸から本丸へ上る長い石段「長坂」 にちなんで、名付けられたものである。 」
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その先は右に曲がる枡形で、江戸時代には土塁の上に多聞櫓などがあった、と思われる。
石段を上ると、突き当たりに、御物頭御番所 の建物がある。
説明板「御物頭御番所」
「 御物頭は、秋田藩の行政機構の中で、番方に属する役職であり、
配下の足軽を指揮して、二の門(長坂門)の開閉及び城下一帯の警備を担当した。
御番所の南側十四畳の部屋に、物頭が詰めて、登城者を監視した。
北側には七畳半の休息所や台所・便所があり、
中二階には八畳の部屋が配置されている。
「国典類抄」などの史料によれば、
御物頭御番所は、宝暦八年(1758)に焼失したのち再建され、
安永七年(1778)以降の火災では類焼を免れた、と考えられてることから、
建設年代は十八世紀後半と推定される。
久保田城内で、旧位置のまま残っている唯一の建造物である。
昭和六十三年三月、保存修復工事を行い、平成二年に秋田市文化財に指定された。
形式 切妻造南庇付 こけら葺屋根
間口 約10、5m(五・五間)
奥行き 約9、5m(五間)
平面積 約100u(三十坪)
平成十三年十一月 秋田市 」
左側には、久保田城表門の説明板と石段があり、石段の上には表門が見える。
説明板「久保田城表門」
「 表門は、久保田城本丸の正門で、一の門とも呼ばれていた。
本丸の玄関口として警備上からも重要な地点とされており、
左手には門の警備と管理をする「御番頭局(おばんがしらへや)」、
門の下手には侵入者を警戒する「御物頭御番所」を置いて厳重な守りを固めていた。
久保田城は慶長八年(1603)に築城して翌年に完成し、
表門は元和八年(1622)に最初の建て替えが行われている。
その後、寛永十年(1633)、安永七年(1778)など何度か火災に見舞われている。
この門は絵図などの文献資料や発掘調査の成果をもとに再建されたもので、
構造は木造二階建て瓦葺き櫓門であり、
佐竹二十万石の正門にふさわしい壮大なものとなっている。
平成十三年三月 秋田市 」
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表門をくぐると、「久保田城表門礎石」の説明板があり、 礎石と礎石跡の穴がある。
説明板「久保田城表門」
「 展示されている6基の石は、久保田城表門に使われていた礎石です。
また、展示されていませんが、礎石(@とD)の間、(CとE)の間には柱の堀り方(穴)があり、
深さ約1.4m下に礎石が据えられていました。
これらの6基の礎石と2基の掘り方から、
表門の柱間は正面(桁行き)2、1m+4、9m+2、1mの9,1m、
奥行き(梁間)2、4m+2、4mの4、8mであったことがわかっています。
すべての礎石は、上面が平坦で、ほぞ穴があり、
扉が付く鏡柱の礎石(AとB)は石・ほぞ穴とも他の礎石より大きくなっています。
また、両側の控え柱用の礎石(@とC)の石垣側(外側)には、
ほぞ穴の他に深さ2cmの寄せ掛け柱用の彫り込みが認められます。
この他に、発掘調査では、古い段階の小規模な門の跡が確認され、記録保存しています。
礎石は、表門を再建した位置にありましたが、
来園する方々にご覧いただくために、現在の位置に移設したものです。 」
正面がお白州跡で、「久保田城本丸跡」 の説明板が建っている。
説明板「久保田城本丸跡」
「 久保田城が築かれた神明山は、三つの高地からなる、標高約四〇メートル程の起伏のある台地で、
別名三森山とも呼ばれていた。
築城は慶長八年(1603)五月から着工され、翌九年八月に完成した。
本丸は、最も高い所を削平や土盛をし、平にして造られた。
東西六五間(約117m)、南北一二〇間(約215m)のほぼ長方形を呈し、
周囲には高さ四〜六間半(約7.3m)の土塁を構築している。
本丸の建造物には、表門から入った正面に、玄関が置かれ、
政庁である政務所が設けられており、
池を配した中央部には、藩主の住居である本丸御殿があった。
また、土塁の上を多聞長屋と板塀で囲み、要所には隅櫓を置き、
北西隅には、兵具庫を兼ねた御隅櫓を設けた。
西南隅の土塁上には、御座敷と呼ばれた書院風二階建ての「御出し書院」が造られた。
出入口は、周囲に、表門(一の門)・裏門・埋門(うずみもん)・帯曲輪門の四門に、
御隅櫓に通じる切戸口があった。 」
その先に「本丸跡」の標柱が立っていて、その奥に、久保田城の最後の城主、 佐竹義堯の銅像がある。
「 佐竹氏は、清和天皇の子・貞純親王を祖とし、
河内源氏の頼義の子・義光から三代・昌義が佐竹氏の初代という、
清和源氏 という由緒ある一族である。
第十二代藩主・佐竹義堯(文政八年〜明治十七年)は、
近代秋田を開いた最後の藩主であり、
戊辰戦争では新政府方に属して、戦いました。
明治維新の激動期を生きた象徴的な人物です。 」
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その左手に入ると、八幡秋田神社がある。
説明板「八幡秋田神社」
「 八幡秋田神社は、初代・佐竹義宣公を始め、歴代の藩主を祀る。
秋田県の有形重要文化財でありましたが、
平成十七年一月九日の放火により、社殿が焼失しました。
以来、皆々様のお力を戴きまして、平成二十年十二月に竣工することができました。
これも偏に皆様の御蔭様と心より感謝をし、厚く御礼を申し上げます。
又、社殿の再建は成りましたが、皆様より一層のご理解、力強いご支援、
ご協力を賜ります様、切にお願い申し上げます。
平成二十一年十月吉日 八幡秋田神社 」
秋田神社の右手に、与太郎稲荷神社があり、初代藩主・義宣の飛脚として仕え、
羽州街道六田宿(現山形県東根市)で、非業の死を遂げたと、伝わる与次郎キツネを祀る。
秋田神社の左奥(南西隅)には、「御出書院櫓台跡(霊泉台)」 の標柱がある。
標柱「御出書院櫓台跡(霊泉台)」
「 久保田城は、清和源氏の流れを汲む由緒ある大名の城としては、質素なつくりで、
天守も持たず、土塁の上に、出し御書院 と呼ばれる、櫓座敷を建てて、その代わりとし、
他に、八棟の櫓を建て並べていた。 」
その奥には舟形手水鉢がある。
「 舟形手水鉢は、加藤清正が文禄の役の際に朝鮮から持ち帰り、 大坂城内にあったものを石田三成の計らいで、佐竹家に贈られた、と伝えられている。 」
埋門跡は、佐竹氏の銅像の先の広場を越えた先の突き当たりにあった。
埋門跡を右折すると「←アヤメ園」の道標と、「多聞長屋跡」 の標柱が
建っている。
下を見るとアヤメ池が見えた。
多聞長屋(多聞櫓)は、土塁に沿って建てられたいた、と思われる。
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その先は左右が狭くなっていて、
築城前は別々の山になっていたのを繋いだのかと思った。
その先の左奥に、御隅櫓が見えた。
説明板「久保田城御隅櫓」
「 この御隅櫓は、もと、城内に八ヶ所あった櫓の一つで、
本丸の北西隅、一番高い台地 (標高約四十五メートル) に位置しており、
物見や武器の貯蔵庫などに使われたものです。
資料と発掘調査に基づき、当時の二階造りを基本として、
その上に、市街地が一望できる展望室を加えました。
市制百周年記念事業として、二十一世紀にむけての市政の発展を願い、
千秋公園の歴史的シンボルとなるよう、復原したものです。
構造形式 鉄筋コンクリート造 三層四階建屋根本瓦葺入母屋造り
秋田市制百周年記念日
平成元年(1989)七月十二日 秋田市 」
内部では佐竹氏の歴史を解説し、パネル展示を行っている(入場100円)
御隅櫓から土塁に沿って進む。
現在も各曲輪の周囲の土塁がよく残っている。
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その先が土門跡で、左折し、
階段を下りると、「帯曲輪門跡」の標柱が建っている。
帯曲輪門跡を進むと、佐竹氏の銅像のあった築山の裏に出て、
「奥庭跡」 の表示があり、右手に東屋が建っている。
そちらには行かずに左に進むと、裏門跡 に出る。
「 裏門は、夜間の出入りの際に使用された重層門で、 二度の大火で消失し、 そのつど再建され、明治十三年の本丸の大火では焼け残ったが、 楼門から平屋へと改造されて、市内の鱗勝院(旭北栄町)へ移築され、 山門になったと伝えられている。 」
裏門跡の階段を下りると、左側に胡月池がある。
「 胡月池は、公園を設計した長岡安平が最初に築造して池で、 雪見灯籠や噴水が趣きを添え、夏には二千年の眠りから覚めた大賀ハスが咲く。 」
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その奥には「不浄門跡」や「厩跡」・彌高神社・「馬場跡」と「金蔵跡」がある。
「 彌高神社は、国学者・平田篤胤、経世学者・佐藤信綱を祀る。
本殿は、藩政期の正八幡宮社殿で、拝殿と共に県指定文化財。 」
胡月池の先は二の丸跡で、右に御物頭御番所のある台地を見ながら進むと
「鯉茶屋」 と書かれた建物前に出た。
二の丸跡を横断して売店先のコインパーキングに行き、松下門跡を通って大坂を下る。
左側が内掘。 中土橋通りを通り、左右の大手門掘の間を
抜けると、広小路で、江戸時代には 「中土橋門」が建っていた。
広小路に出ると、秋田駅までは約15分の距離である。
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所在地 弘秋田市千秋公園1−39
久保田城へはJR秋田新幹線・奥羽本線秋田駅から徒歩約10分。
訪問日 令和二年(2020)十月二十八日
(ご参考) 「久保田城の歴史」
「 佐竹義宣(さたけよしのぶ)は、慶長八年(1603)、
雄物川の支流である旭川の左岸にある、標高四十メートルの神明山に、築城を開始した。
翌慶長九年(1604)に完成した城は、石垣や天守を持たない平山城であった。
久保田城と命名されたが、矢留城とか、葛根城とも、呼ばれた。
佐竹氏は改易されることもなく、幕末まで存続した。
明治政府の廃城令により、久保田城跡は陸軍省の所管になったが、
明治二十三年に、佐竹氏に払い下げになったことで、本丸と二の丸を秋田市が借り受け、
明治二十九年(1896)に、祖庭といわれた近代公園設計の先駆者、長岡安平により、
千秋公園として整備され、市民に公開された。
秋田城は、市街調整の過程で、堀の多くも埋め立てられ、
城下の中通を中心に官庁街へと変貌。
三の丸には、秋田県民会館や秋田市立中央図書館明徳館、平野政吉美術館、
秋田県立脳血管研究センターなどが建てられていて、城の遺跡は極めて少ない。
秋田県知事公舎は、三の丸御殿の跡地に建てられている。 」