秋田城は、奈良時代に、出羽国秋田に築かれた城柵官衙である。
当時は、「出羽柵」 と呼ばれていて、東北地方で最北の地に設けられた。
城柵官衙は、蝦夷(えみし)の人々が暮らしていた、東北各地に造られた律令国家の地方官庁のことで、
秋田城は、城柵で囲まれた施設の中で、
東北地方の日本海側(出羽国北部)の政治・行政・軍事の中心地としての役割を担い、
また、津軽や渡島の蝦夷との交流や渤海との外交の拠点として、重要な位置にあった。
天平宝字四年(760)頃、施設名は秋田城に改称され、城全体が改修される。
奈良時代の創建から十世紀中頃までの平安時代にかけては、
城柵としての機能を維持したと考えられているが、
十世紀後半になると、古代城柵としての機能は失なわれていく。
鎌倉時代以降、秋田城介は、北方を鎮護する役職名となり、武門の名誉となっていった。
秋田城跡は、昭和十四年(1939)に国の史跡として、指定される。
また、続日本100名城の第107番に選定されている。
秋田城があったのは、秋田市の郊外にある高清水公園の辺りであった。
公園の一角に資料館があるので、訪問し、車を停めた。
資料館の入口には、NHKで放送された、
「タモリ 東京を出る 秋田ゆき プラタモリ」 の ポスターが貼られていた。
館内には当時の姿を現すジオラマなどがあった。
「 秋田城は、秋田平野の西、 雄物川が日本海に注ぐ河口の右岸の
独立した、標高約30〜50m の丘陵 (通称・高清水) の上に建設された。
その歴史は、天平五年(733)に、
庄内地方から秋田村高清水岡に遷された出羽柵が始まり、それを創建とする。
当初は、城全体が壮麗な瓦屋根の築地塀により囲まれていて、
城壁で囲まれた外郭の東西南北に出入口の門が造られ、
海を望む西門は二階建てであった、と考えられている。
中心施設の政庁に向けて、外郭東門と外郭南門から、城内道路(大路・約12m)が伸びていた。
政庁も、瓦屋根の築地塀で囲まれ、正殿と脇殿に囲まれた正面の広場、北・北西の建物が配置されていた。
外郭の門や政庁の正殿などの主要な建物は、瓦屋根でした。 」
奈良時代に城壁の屋根に使われていた瓦は、丸瓦と平瓦を使った、「本瓦葺き」という 重ね方で、展示されているのは、一部を復元したものである。
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プラタモリ | ジオラマ | 復元した瓦 |
資料館を出て道路に出ると道の反対に急な石段がある。
そこを上ったところが政庁跡で、上がったところにあるのが「正殿跡」である。
「 正殿や前面の広場で、
出羽国の政務や定期的に貢物を持って訪れる蝦夷に対しての贈り物や、
宴も行われていたと考えられる。
また、時には外国からの使節を迎えての儀式が行われていた。
正殿はほぼ同じ場所で六回建て替えられている。
最後の建物は石の上に柱を立てる礎石式の建物で、
それ以前の建物は直接地面に柱を埋め立てる掘立式の建物でした。 」
政庁跡の前に政庁の模型が置かれている。
「 政庁域は東西九十四メートル、
南北七十七メートルと東西に長い長方形で
築地塀に囲まれた門を入ると右手に北東建物と北西建物、左手に東脇殿があり、
正面に細長い正殿が建っていた。 」
資料館を出て道路に出ると道の反対に急な石段がある。
そこを上ったところが政庁跡で、上がったところにあるのが「正殿跡」である。
「 正殿や前面の広場で、
出羽国の政務や定期的に貢物を持って訪れる蝦夷に対しての贈り物や、
宴も行われていたと考えられる。
また、時には外国からの使節を迎えての儀式が行われていた。
正殿はほぼ同じ場所で六回建て替えられている。
最後の建物は石の上に柱を立てる礎石式の建物で、
それ以前の建物は直接地面に柱を埋め立てる掘立式の建物でした。 」
政庁跡の前に政庁の模型が置かれている。
「 政庁域は東西九十四メートル、 南北七十七メートルと東西に長い長方形で 築地塀に囲まれた門を入ると右手に北東建物と北西建物、左手に東脇殿があり、 正面に細長い正殿が建っていた。 」
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政庁跡の右手に、秋田県護国神社の建物が建っている。
護国神社は他の地にあったのを、秋田城の城跡に遷座したものである。
築地塀に囲まれた門から、東大路を歩いて行くと、外郭東門がある。
「 外郭の東西・南北は、約五百五十メートルの不正方形であった。
外郭東門は、平成元年度の発掘調査で発見された、奈良時代の東門を復元したものである。
正面の桁行8.4m、側面の梁間 4m、高さ約6.5mで、軒先につく軒瓦がないこと、
部材をつなぐところに、舟肘木を使用しているのが特徴である。
材木の仕上げは、槍の穂先のような「やり鉋」 という、古代と同じ工具で削り、
また、表面は丹土を塗っている。 」
門の横に続く土壁は、「築地」とよばれるが、 土を人の手でつき固めながら積み上げる「版築」 という古代と同じ工法で、再現されている。
「 築地の手前にある深さ七メートルの土取り穴は、 築地を積む土を 取るときにできた穴で、 後にゴミ捨て場として使われ、発掘時には、多数の漆紙文書・木簡・猪・馬・鯨・鳥などの骨が、 発掘された。 」
門をくぐると、右下に古代池がある。
「 この池は、縄文時代以前に飛び砂によって沢がせき止められて出来た自然の沼を
復元したものである。
池は城内で行われた大祓いの行事で使われた人形・斎串・矢羽根・人面墨書土偶などを流す、
神聖な場として利用された。 」
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古代池の右手(南側)の小高いところに、井戸跡や建物跡がある。
「 ここは、鵜の木地区で、寺院があった場所である。 」
その先にあるのは、「古代水洗トイレ」である。
「
八世紀後半に造られた厠舎((かわや)で、建物の中に、三基の便槽が並び、
外には約六メートルの木樋と、その先端には沈殿槽が作られている。
渤海国との交流により造られたのではという説がある。
また、文献史料による確たる証拠はないものの、
奈良時代を通じてたびたび出羽国に来着した渤海使の受け入れが
秋田城においてなされた可能性が高いと考えられている。 」
以上で、秋田城の見学は終了した。
なお、続日本100名城の秋田城のスタンプは、史跡公園管理棟か、秋田市立秋田歴史資料館にて、捺印できる。
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秋田城へは、JR秋田駅からバス、「将軍野線・寺内経由土崎線」 で20分、 護国神社入口バス停で下車、徒歩すぐ
訪問日 令和二年(2020)十月二十七日