新府城は、武田信玄の息子・勝頼により、織田信長や徳川家康の侵攻に備えて築かれた城である。
JR中央本線新府駅の西方七百メートルの七里岩と呼ばれる釜無川と塩川に挟まれた台地の上に築かれた。
武田氏の集大成の城で、築城から入城まで一年足らずの未完の城ともいわれるが、
丸馬出、三日月堀や、出構などの特徴的な遺構が随所に残り、
甲州流築城技術を考える上で魅力的な城といわれる。
昭和四十八年(1973)に「新府城跡」として、国の史跡に指定された。
続日本100名城の第127番に選定されている。
甲府から高速道路で、韮崎ICで降り、穂坂橋を渡る。
小高いところ(七里岩)にある、韮崎市民俗資料館(韮崎市藤井町南下條786−3)に寄る。
ここに、続日本100名城のスタンプが置かれている。
七里岩ライン(17号線)を北上すると、左側に小高い山があり、ここが新府城跡である。
少し先の右側に、駐車場があるので、そこに車を停めた。
歩いて少し戻ると、 「新府城跡出構」 の説明板が建っている。
説明板「新府城跡出構」
「 出構(でかまえ)は、 城の外郭の一部を長方形に堀の中へ突出させた大型の土盛構造である。
東西に約百十メートルへだてて、平行に、二本 (東出構・西出構) が築かれている。
城の裾に沿って掘られた堀は、 幅約七メートル、深さ約二・五メートルの断面逆台形をした箱堀で、
その外側には、湿地帯が広がり、深い堀と湿地帯を含め、防衛施設となっている。
出構は、新府城跡のみにみられる施設で、 鉄砲陣地とも、堀の水位を調整するためのダム的な施設とも、いわれるが、その機能は解明されていない。 」
その先に見えるのが、出構と堀跡で、 黄葉して先に、乾門があったようである。
道路に沿って進むと、「史跡新府城跡」 の石碑と、 「国指定史跡新府城跡」 の説明板が、
建っている。
説明板 国指定史跡「新府城跡」
「 新府城は、正式には、 新府中韮崎城 といい、天正九年(1581)春、武田勝頼が甲斐府中として
城地を七里岩南端韮崎の要害に相し、部将・真田昌幸に命じて、築かせた平山城である。
勝頼が、この地に築城を決意したのは、織田信長の甲斐侵攻に備え、
藤崎に広大な新式の城郭を構えて、府中を移し、これに拠って強敵を撃退し、
退勢の挽回を期した結果であろう。
築城工事は、昼夜兼行で行われ、着工後の八ヶ月余りで、竣工した。
次いて、城下町も整ったので、 新府韮崎城 と名づけ、 同年十二月、甲府からここに移り、
新体制を築いた。
しかし、戦局は日に日に悪化して、翌年三月、勝頼は、織田軍の侵入を待たず、
みずからこの城に火を放って退去するのやむなきに至り、天目山田野の里に滅亡の日を迎えた。
廃墟化した城は、同年六月、本能寺の変で織田信長が亡び、徳川・北条両氏が甲州の覇権を争うようになると、徳川家康は、城を修築し、本陣とした。
家康軍の五倍の兵を率いた、若獅子・北条氏直が布陣するのを翻弄して有利に導き
名城新府の真価を発揮したのである。
新府城は、八ヶ岳火山の泥流による七里岩の上にあり、
その地形をよく生かして築かれたその城地の特色は、城外から俯瞰されないことで、
縄張りの特徴は、北方に東西二基の出構を築き、鉄砲陣地とした点で、
従来の城郭には見ることができない斬新な工夫である。
現存する主な遺構は、頂上の本丸を中心に、西に二の丸、南に三の丸・大手・三ヶ月堀、・馬出、
北に出構・搦手口、東に稲荷曲輪・帯曲輪があり、北から東に堀が巡らされている。
史跡指定区域は、約20ヘクタールに及ぶ広大なものであるが、
この外側には、部将らの屋敷跡と伝えられる遺構、遺跡が散在している。 」
藤武神社の石段があるので、上っていくと、鳥居の前には 「参道(乙女坂)」 の表示があった。
このあたりに、 稲荷曲輪があったのか、と思った。
「 新府城がある韮崎は、甲府盆地北西端に位置している。
戦国期に拡大した武田領国においては中枢に位置し、
府中よりも広大な城下町造営が可能だったと考えられる。
また、七里岩は、西側を釜無川、東側を塩川が流れ、天然の堀となる要害である。
江戸時代の韮崎は、甲州街道や、駿州往還・佐久往還・諏訪往還などの諸街道が交差し、
釜無川の水運(富士川水運) も利用できる交通要衝として機能していることも、
新城築造の背景にあったと考えられる。 」
石段の先に、新府城守護神である、新府藤武神社の社殿がある。
藤武神社の北西には、石祠の 武田勝頼公霊社と、 武田十四神霊碑が建っている。
「 部下の反対を押し切って移転した勝頼だが、
新府城で新年を迎えた天正十年(1582)、武田親族衆の木曾義昌が、織田信長に通じて反逆したため、
義昌追討の兵を出すと、信長はそれを待っていたように兵を出したので、
最前線を守っていた信濃勢の中から、寝返るものが続出し、多くの城が戦わずして織田軍に降伏した。
更に、駿河口の穴山梅雪が、江尻城を明け渡し、奮戦していた高遠城も落ち、
新府城に織田軍が迫ってきた。
三ヶ月後の天正十年(1582)三月、勝頼は、 小山田信茂の岩殿城(大月)に移るため、
新府城に火を放って岩殿城に向った。 僅か三ヶ月の在城だった。 」
武田勝頼公霊社の説明板が建っている。
説明板
「 武田勝頼公霊社は、武田氏滅亡後、当地方民が国主の恩徳を追慕し、
石祠を建立し、勝頼の心霊を納め、之を祀り、毎年卒亡の当日は慰霊祭を行い、
「お新府狭間」 と呼び、藤武神社とともに、地元民に親しまれてきた。
勝頼神社の建立は、貞亨、元禄(1684年)の頃と言い伝えられている。 」
囲いの中の中央に、石祠があり、左の石碑には 「勝頼朝臣霊位」 と書かれている。
右の石碑の文字は分らなかった。
その左手に、 「 小塚 長篠役陣没将臣墓 」 と書かれた石碑が建っている。
その奥の空地に、 「国指定史跡 新府城本丸跡」 の標柱が建っている。
藤武神社の境内一帯は、新府城の本丸(本曲輪)跡である。
「 新府城は南東六百メートル、東西五百五十メートル、
外掘の水準と本丸の標高差は八十メートルの平山城で、
近世城郭のような石塁は用いず、高さ約2.5mの土塁を巡らしている城である。
最高所は本丸で、標高は五百二十二メートル、
東西九十メートル、南北百二十メートルで、周囲に土塁がめぐられていた。 。
本丸東に、稲荷曲輪があり、本丸の西に、蔀の構を隔てて、二の丸があり、馬出に続く。 」
その先の林の中に、 「二の丸↑」 の木札がある。
中に入っていくと、草が生い茂っているだけで、当時の様子は確認できない。
「 二の丸(二の曲輪)は、本丸の西側の一段低くところにあった。
東西五十五メートル、南北七十五メートルの長方形の曲輪で、曲輪の周りは土塁がめぐり、
三ヶ所の虎口(出入口)があったようである。 」
樹木が茂る外側のの盛り上がっている部分が土塁だろう、と思った。
「 二の丸を北方に下ると、横矢掛りの防塁(前述の東西出構)があり、
その外側に堀を巡らしていた。
二の丸の北東の虎口は、城の北部に出るもので、乾門枡形虎口に行くものである。 」
二の丸の南側の虎口は、馬出に通じるもので、先程入ってきたところが、
本丸から二の丸へ入る南東部にある虎口と思った。
二の丸の南にあったのは、「馬出↑」の標木である。
これは、二の丸と本丸を守る防御施設の馬出しである。
「 二の丸と南の馬出の先に食違虎口があった。
二の丸の南側に曲輪があり、その虎口で、現在、砂利道が虎口の一部を通っているが、
土塁を観察すると、食違虎口の存在に、気が付くことができる。 」
新府城復元想像図を見ると、本丸の南に、シトミの構えと腰曲輪があり、
その下の下がったところに、東の三の丸(東の三の曲輪)、 西の三の丸(西の三の曲輪)がある。
「馬出↑」の標柱から進むと、「西三の丸↑」 の標柱があるが、
その方向はすっかり草に覆われて、侵入はできない。
以前この中にあったことを示しているのかも知れないが、表示のみである。
その下に、 「三の丸」 の説明板がある。
説明板「三の丸」
「 東三の丸と西三の丸があります。
2つの間は直線的な土塁で区切られています。
一部を発掘調査をしましたが、建物などの痕跡を明確に発見するには至っていません。 」
「西三の丸↑」 の標木の先を回りながら下っていくと、「南大手門↑」 の標木がある。
説明板「南大手門」
「 大手門(枡形虎口)を出たところ、丸馬出しがあった。
大手門の前に築かれた馬出しは、城門の前に築き、人馬の出入りを敵に知られぬよう、
また、城の内部を見通せないようにした土手で、馬出しは甲州流築城法の特色である。
ここには、望楼台 (物見などともいった展望台) も設置され、
甲府盆地や富士川河谷一帯を監視していた場所である。 」
大手門の外には、丸馬出しと三日月堀があり、大手門を出ると、作事用陣屋を経て、
甲州街道に通じていた。
山裾を左に回ると、地面に 「帯曲輪」 の標識が置かれていた。
「
なんらの説明もないので、規模などは分からないが、左側は東三の丸で、
右側には土塁で囲まれ、その下は、水堀だった。
帯曲輪の北側の左に広がっていたのが腰曲輪である。 」<
「新府城跡周遊道路完成記念碑」 があるが、現在は山頂まで行く道は閉鎖になっていて、
「駐車場 この先100m →」 が建っていた。
道標に沿って進むと、車道に出て、道の右側に、数台分の駐車スペースがあった。
小生は、その先の藤武神社参道入口を横目で確認し、停めた駐車場に戻った。
以上で、新府城の見学は終りである。
新府城へは、JR中央本線新府駅から徒歩15分 (藤武稲荷神社)
訪問日 令和元年(2019)十一月二十日