名所訪問

「  続日本100名城 要害山城 」

かうんたぁ。


要害山城は、躑躅ヶ崎にあった武田氏館の詰の城として築かれた城で、
以後、勝頼により新府城に移るまでの約六十年間、
居住と政庁の躑躅ヶ崎館と、防備を主目的とする要害城とが、一体となって機能していた。 
続日本100名城の第128番の城である。 


続日本100名城の要害山城のスタンプは、現地に置かれていない。
設置場所は、甲府駅北口広場にある甲府市藤村記念館(8時〜17時)である。 
このレトロな建物には歴史があった。

「 まず、この場所である。、
甲府駅と北側の甲府駅北口広場は甲府城の清水曲輪の跡である。 
明治六年(1873)、 山梨県権令から翌七年山梨県令になり、 明治十九年地方官制により、山梨県知事、翌二十年の愛媛県知事に転ずるまで、 十四年間も、山梨県政を担当した藤村紫朗が、藤村式建築と呼ばれる、擬洋風建築を推奨した。 
この建物は、明治八年(1875)に、現在の甲斐市亀沢(旧睦沢村)に、睦沢学校として建てられた、 学校の校舎である。 
平成二十二年、この地に移築復元工事が行われ、交流ガイダンス施設としてオープンした。 
国の重要文化財に指定されている。 」 

要害山城hへは、マイカーで行った。

「  要害山城は、躑躅ヶ崎にある武田氏館の北東二キロ、要害山に築かれた山城である。 

「 武田信玄の父・信虎は、永正十六年(1519)、石和の館 から、 躑躅ヶ崎館 に居館を移した。
甲斐国内の統一を果たした翌年の永正十七年(1520)、詰の城として、要害城を築いた。 
以後、勝頼により新府城に移るまで約六十年間、 防備を主目的とする要害城は居住と政庁の躑躅ヶ崎館と一体になって機能していた。 
武田氏滅亡後は、徳川方の城番が置かれ、徳川関東移封後は、甲府城に入城した、豊臣秀吉の家臣・ 加藤光泰が、要害城を修築している。
しかし、関ヶ原の戦いでも、戦いに使われることもなく、慶長五年(1600)に廃城となった。 」 

城がある要害山は、山梨百名山に選定されている標高七百八十メートルの山で、 要害城に行くには相川に沿って上る。 
登山口には、積翆寺温泉・ホテル要害 があったが、廃業し、今は、やまびこフォルテイサと いう障害施設になっている。 
途中には竪堀と土塁があり、不動曲輪の左手には諏訪水と水神が祀られている。 

甲府市藤村記念館
     要害山方面      元積翆寺温泉
甲府市藤村記念館
武田神社からみた要害山方面
元積翆寺温泉

山を上ること千五百メートルの距離、三十分〜四十分で本丸跡に到着する。
途中に「門跡」「竪堀跡」「曲輪」「土塁」「堀切跡」「主郭部」などを説明した立て札がある。 
山腹を削って造られた曲輪は、段上に設けられていて、虎口の遺構が数ヶ所あり、 野面積みの石垣も残っている。 
本丸は山頂で、四方を土塁で囲んだ東西七十三メートル、南北二十二メートルの細長い平坦地で、 「武田信玄公誕生地」という大きな石碑が建っている。 

「 要害城築城の翌年の大永元年(1521)、 信虎は、駿河今川氏の属将・福島正成の侵攻を受けたが、 懐妊中の信虎夫人は。この城に避難し、嫡子・晴信(信玄)を産んだと伝えられるが、 実際は、積翆寺で産んだようである。 」 

南麓の積翆寺には、 「 機山 武田信玄誕生寺 」 の石碑が、寺前に建っている。
「武田不動尊 信玄公像 毘沙門天」 というお堂があり、境内に、産湯井戸、産湯天神がある。 

積翆寺
     毘沙門天堂      続日本100名城スタンプ
積翆寺
毘沙門天堂
続日本100名城スタンプ

要害山城へは甲府駅北口から山梨交通バス積翆寺行きに乗り、約14分終点で下車、 徒歩30分〜1時間。 
要害山城のスタンプはJR甲府駅北口広場の甲府市藤村記念館(9時〜17時、月休)にあり、 城跡近くには用意されていない。    

訪問日     平成十九年(2007)十一月七日



名所訪問 (東日本編) 目次