「 第二次世界大戦前の新宿以西の住宅地は、
杉並や中野までで、
その先は都下として田畑が残る中に、住宅が点在していた。
昭和五十年頃までは、
国道20号を走ると到る所で雑木林が見ることができた。
今日のように住宅地が八王子まで西に延びたのは、
都庁の新宿副都心への移転よるといってもよいだろう。 」
武蔵野の面影が残るところはないかと調べると、
調布市に武者小路実篤の晩年の寓居が残っていることが分かった。
ここに武蔵野の面影が残っているかは分からないが、
訪れてみようと新宿駅で京王線に乗る。
武者小路実篤の寓居の最寄り駅は、仙川駅である。
「
京王電鉄はその名の通り、東京と八王子を結ぶ鉄道会社として誕生し、
甲州街道と平行する路線の申請を行ったが、
電車を走らせるまでには時間がかかり、
実際に電車が走ったのは大正二年(1913)のことで、最初は笹塚〜調布間だった。
大正五年(1916)に新宿追分から八王子までが開通し、
その後、新宿〜八王子が複線化された。
なお、北側を走るJR中央本線は、
前身の甲武鉄道が明治二十二年(1889)に新宿から八王子までを開通させている。 」
仙川駅を降りると、南に向かう一方通行を歩き、桐朋学園前交叉点で右折し、
桐朋学園大の校舎に沿って歩くと、
校舎の門塀の角に、実篤公園への案内標があった。
それに従い、左折して進むと、東部公民館と保育園がある。
、
その先で右折して道なりに行く。
その先にも案内標があり、狭い道を進んでいくと、
実篤公園の管理棟がある公園入口に到着した。
窓口でいただいた「仙川の家 ご案内」
というパンフレットによると、
「 実篤公園は、
武者小路実篤が晩年の二十年を過ごした邸宅の敷地を公園としてもので、
実篤の死後、遺族から調布市に寄贈され、
昭和五十三年(1978)に実篤公園として公開した。 」 と、ある。
武者小路実篤は白樺派の中心人物で、
理想主義を掲げた新しき村の建設で有名である。
約五千平方メートルあるという敷地に踏み入れると、
下り坂の両脇に、シダやヤツデなどの下草の上に椿などの樹木が、
植えられており、この季節はまさに、 「緑のトンネル」 という感じだった。
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左側に実篤が住んでいたという家があった。
邸宅の公開日だったので、中に入ることができ、
ボランティアから丁寧な説明を受けた。
「 実篤は、
水のあるところに住みたいという子供の頃からの願いどおり、
昭和三十年、七十歳の時に、この地へ居をかまえ、最寄りの駅が仙川だったため、
仙川の家と呼びました。
この家で、長編小説の「一人の男」などを執筆し、
野菜や花など自然をモチーフにした数多くの書画の制作に励みました。 」
先生の作品や原稿の展示があった。
先生の使われた仕事部屋や応接室、客室や居室を見たが、
ガラスをふんだんに使っているなあという印象で、
ガラスを通して、緑がまぶしく目に入ってきた。
記念館に向かう途中には竹林があり、風に吹かれて、竹が音をたてていた。
その下には実篤の銅像、右手には八橋の架かった菖蒲園があった。
銅像の左側の池は下池で、中の島があるかなり大きなものである。
上の池には水源となる湧水があり、下の池には鯉が泳いていて、
野鳥も多くやってくるようで、
実篤は安子夫人と池に飼う鯉にえさをやり、
集まる野鳥に餌場を作ってやったという。
園内にはあづまやがあるので、ひと休みして自然に親しむひとときが過ごせる。
トンネルをくぐった先に武者小路実篤記念館がある。
「 記念館では、武者小路実篤と、交友のあった作家の著書や研究書、 実篤が主宰した雑誌 白樺 などの図書や雑誌を二万冊余り所蔵している。 」
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実篤公園を出て、先程の桐朋学園大の実篤公園案内標まで戻った。
ここからは仙川駅には戻らず、甲州街道を歩き、つつじヶ丘駅に向かうことにした。
左折して進み、京王線の上を通ると、甲州街道が通る仙川二交差点に出た。
右手にはキューピーマヨネーズ仙川工場があるが、
ここは左折して滝坂を下る。
あまりに急な坂のため、荷を引く馬が滝のような汗をかくことから、
「滝坂」という名が付いたと、伝えられる坂である。
右手の少し高いところに見える茅葺屋根を銅板で囲ったような屋根の屋敷は、
江戸時代に「川口屋」という馬宿を営んでいた家である。
国道を下っていくと、
坂の途中の左側に「滝坂小学校発祥の地」と書かれた標柱が建っているが、
現在の小学校は、切りとおしの整地されたところに建っている。
「
滝坂は急坂の難所だったため、
江戸時代には頂上と坂下に休憩場所があったという。
坂の脇の切りとおしの道と比較すると傾斜の違いが分かる。
京王線や国道の工事等により、車が走れる傾斜に改良されたが、
今も急であることは変わりはない。 」
滝坂下交差点の手前の右手一帯は、
昭和三十年代に京王電鉄が 「つつじヶ丘」 と名付けて、
開発して、分譲したところである。
滝坂下交差点を過ぎたつつじヶ丘交差点の国道両脇には、
五階建て位のマンションが建ち並び、
一階は食品スパー、レンタルビデオなどの店舗が入っている。
京王つつじヶ丘駅へはここで左折する。
「
つつじヶ丘駅から調布駅までには柴崎、国領、布田駅の三つの駅がある。
江戸時代には国領から上石原にかけて、甲州街道の布田五宿があった。 」
布田駅の北、都道117号布田駅前交差点の角に、常性寺がある。
境内に入ると 「調布不動尊」と、
「成田山長楽寺」 と書かれた標板が掲げられている不動堂があり、
その奥に本堂がある。
「
常性寺は、 「布田のお不動さん」 として信仰されている成田山系の真言宗の寺院である。
鎌倉時代の創建当時は多摩川沿いにあったが、
慶長年間に現在の場所に移転、江戸時代に入り、
住職の祐仙法印が成田山新勝寺より成田不動尊を勧請した。 」
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常性寺の境内はかなり広く、本堂の右側には地蔵堂と馬頭観音堂がある。
「 地蔵堂は一願地蔵堂といい、 一つだけ願いを叶えるという 「一願地蔵尊」 が安置されている。 」
右側の馬頭観音堂の 「馬頭観音塔」 は、小橋の馬頭観世音を祀るものである。
「教育委員会の説明板」
「 甲州街道の小橋付近にあった馬すて場に設置されていたが、
道路拡張のため、転々とし、ここ常性寺に移された。
この塔は、文政七年(1824)、調布市域および近隣の十九ヶ村のほか、
八王子の嶌(縞)買中などが協力して建立したものである。
彫られている観音は三つの頭をもち、それぞれの頭に馬の像をかぶり、
二本の手は合掌し、
四本それぞれ武器らしきものを持っていますが、摩滅してよく分からない。 」
江戸時代には布田駅前交差点のあたりから調布駅にかけて下布田宿があり、
家数は九十五軒、住民は四百二十九人、旅籠は三軒あったという。
布田駅前交差点を西に進むと左側の道の奥に蓮慶寺がある。
「 もとは真言宗の寺だったが、天文元年(1532)に、
小田原北条氏の重臣・中条出羽守が布田の領主となり、
寺を再建した際、日蓮宗に改宗した。
本堂は寛政五年(1793)の再建で、正面五間、側面六間の書院造り風の建物である。 」
少し先には 「 右新宿 左り府中 甲州街道 」 と、
書かれた灯篭付きの道標が建っている。
少し歩くと、調布駅北口交差点に出た。 ここまでが、旧下布田宿である。
実篤公園から足を伸ばして、調布駅前まで来てしまった。
武蔵野の自然を求めての旅だったが、武蔵野の地の大部分は市街化されたことを確認する旅になってしまった。
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訪問日 平成二十二年(2010) 五月十日