滝山城は、八王子市の北端に位置し、
八王子ICから十分程の八王子市高月町と岡本町にまたがる加住丘陵の一角にあった城で、
川沿いの絶壁を利用した堀は深く、土塁も高い典型的な山城である。
城を築いたのは、山内上杉家の重臣で、武蔵国の名門、で武蔵国守護代を務めた大石定重である。
滝山城跡は、「国の史跡」 に指定されており、都立滝山公園になっている。
滝山街道の滝山城址下バス停の脇から、北に続く細い道に入ると、
「都立滝山公園」 の案内板が建っている。
ここが滝山城への入口である(駐車場はない)
滝山城の縄張り図を見ると、 「
多摩川と秋川の合流点の南側に広がる加住丘陵の複雑な地形を巧みに利用していることが分かる。 」
その先にあるのは小宮曲輪で、薄暗い道は天野坂から枡形虎口に続く道である。
説明板
「 大手口と思われる天野坂から堀底道は、
城兵が効果的に攻撃できるように工夫されている。
小宮曲輪と三の丸の間には、枡形虎口(出入口)が設けられた。 」
この城が築かれたのは、台頭してきた北条氏が、 山内上杉氏や扇谷上杉氏と抗争していた時代である。
「
武蔵国守護代を務めている大石氏は、大石顕重の代より高月城を本拠地に構えていたが、
大石定重は北条氏の勢力が武蔵まで拡大するのを見て、
高月城では防備に不安があるとして、
永正十八年(1521)、高月城の北東1.5kmに、滝山城を築城し、本拠を移した。
大石定重の子・定久が、大永七年(1527)、大石家を継いたが、
天正二十一年(1552)、北条氏康が、関東管領の上杉憲政を打ち破り、
越後国に追いやると、弱小な大石定久は北条氏康の軍門に下る。
北条氏康は、次男の氏照に、大石家を継がせ、
入間・多摩郡を中心とする武蔵国を治めさせことにした。
大石定久はその決定を受け入れ、氏照を大石家の養子として迎えいれて、家督を譲った。
滝山城が、北条氏照の居城となったのは、
永禄二年(1559)から永禄三年にかけてのことである。
氏照は、城を拡張し、天正十四年(1586)頃に、
八王子城に移るまでの約六十年間をこの城を使用した。
当時関東屈指の山城といわれ、その偉容を誇ったといわれる。
この間の永禄十二年(1569)には、甲斐の武田信玄に小田原城攻略の途中、
二万の兵で本丸を囲まれ、
三の丸まで攻めよせるほどの猛攻に遭い、かろうじて落城を免れたという戦闘もあった。
滝山城は堀も深く、土塁も高く、広大で立派な城であるが、各部の高低差が少ないので、
少人数の籠城には向かないことから、裏山が急峻な八王子城への建築に至ったと思われる。 」
枡形虎口の先に三の丸があったが、枡形虎口や三の丸の原形は留めていない。
公園の道は三の丸から二の丸に向うが、枡形虎口をすぎたところに「 コの字土橋 」 の説明板がある。
説明板「コの字土橋」
「 堀を掘る際に一部を土のまま残し通路として使う場所を土橋という。
当時はもっと狭く、敵方の侵攻に対して4回も体の向きを変えて進ませ、
側面攻撃ができるように工夫されていた。 」
現在の道は広く、その足跡は感じられないが、
敵の直進を防ぐための土橋は大変貴重な遺構である。
左手の木の椅子などが置かれた空間が、千畳敷跡であるが、
説明がないので詳しいことは分らない。
千畳敷の一角に 「馬出」 の説明板があり、 その北側に馬出があり、その先に二の丸があったようである。
説明板「馬出 (少人数で守れる出入口前の防御設備) 」
「 虎口(出入口)の前方に設けられた空間を馬出という。
この場合は方形に作られていることから、角馬出と呼ばれている。
馬出があることによって、大変堅固な守りとなり、守備する城兵の出撃が容易である。
二の丸の三ヶ所の虎口(出入口)には、馬出が設けられていた。 」
千畳敷からくにゃくにゃした道を行くと、丁字路に出た。
このあたりが、二の丸だったところと思われるが、表示がないので分らない。
トイレの先あたりに中の丸があったようで、「櫓門の推定」 という説明板がある。
説明板櫓門の推定」
「 中の丸の南側は、二方向から攻め寄せられた敵が合流できる場所だったので、
木橋の前面を守る防御施設が必要である。
土塁の残り方から考えて、楼門があったのではないかと推定される。 」
二の丸、中の丸の位置関係は下図の通りである。
中の丸は、本丸の次に重要な曲輪である。
「 中の丸の山腹には、
腰曲輪 と呼ばれる平場が多摩川に向って多く設けられている。
このことから、北側の多摩川方面に対して、警戒していたと考えられる。
付近には河越(現在は川越)道の渡河地点である 「平の渡し」 がある。
この重要な地点を抑えるために、瀧山城は構築されたと考えられる。 」
腰曲輪だったと思われるところに出ると、多摩川の向うに、昭島市街が展望できた。
三の丸の左先・薄暗い林の中の開けたところに霞神社がある。
その近くに、 「瀧山城跡」 の石碑が建っているので、
このあたりに本丸があったと思われる。
金毘羅社が祀られていて、その由来が書かれていた。
「 江戸時代の天明年間(1781〜)に滝村で造営されたと、
武蔵風土記に記載されている。
江戸時代から本丸一帯は、麓の滝村持ちで年貢の免除地として受け継がれてきた。
滝村は幕府の庇護により、多摩川の漁業や河運で繁栄した。
平成6年にこの神社を復活した。 」
江戸時代には幕府直轄地であったことや、最近まで自然のままに放置されていたようで、保存を働きかけた人の顕彰碑が城跡碑の隣にあった。
以上で、滝山城の探勝は終了である。
所在地:東京都八王子市舟木町3丁目、高月町、加住町1丁目
京王八王子、JR八王子駅北口からバスで滝山城跡下で下車、徒歩約10分