八王子城は、豊臣軍の来襲により落城した未完の城で、
天正12年(1584)頃から北条氏康の次男・氏照により築かれた、山城である。
平成十八年(2006)には日本100名城の第22番に選定された。
八王子城跡は、八王子城跡自然公園になっている。
公園の管理棟には、「八王子城の歴史」 の説明板がある。
説明板 「八王子城の歴史」
「 八王子城は、小田原に本拠を置いた後北条氏の三代目氏康の三男・北条氏照が、
天正十年(1582)頃に築き始め、天正十四年(1586)頃に、滝山城より移ったとされる。
永禄十二年(1569)に、滝山城が武田信玄に三の丸まで攻め込まれ、落城寸前になったこと、
甲州街道の小仏峠の守護が重要となってきたことなどが、移転の理由と考えられる。
北条氏照は、 深沢山を中心とした城(要害)地区、 その麓の居館地区、
城山川の谷戸部分の根小屋地区(現宗関寺付近)、
居館地区南で、城山川を挟んだ対岸の太鼓曲輪地区など、
八王子城を壮大な城郭として整備する計画であったが、
天正十八年(1590)の落城により、 夢と消えた。
豊臣秀吉の関東制圧の一環で、天正十八年(1590)、秀吉の本隊は小田原城を囲み、
前田利家・上杉景勝・真田昌幸らの別働隊は、
北関東の北条の城を陥落させながら南下してきた。
氏照の弟・氏邦が、 城主の鉢形城(埼玉県寄居町)は、
一ヶ月近くの戦いの末、降伏した。
八王子城は、同年六月二十三日明け方、
前田利家・上杉景勝・真田昌幸らの一万五千人の軍勢に、
元八王子側と恩方側から攻められた。
城主の氏照は小田原城内にいて留守。
城を守るのは横地監物・中山勘解由・狩野一庵以下、
戦闘員七百名程と、農民・僧侶など三千人〜四千人。
麓の曲輪から次々と陥落し、夕方には戦いが終わった。
この八王子城の落城が決め手になって、本拠の小田原城は開城し、北条氏は滅亡した。
氏照は、この時小田原に籠城中で、兄の氏政と共に城下で切腹した。 」
八王子城は、麓の居館部分と、背後の急峻な裏山を本丸とした城部分で、
構成されていた。
城部分の本丸を目指し、「八王子城跡自然公園」 の看板から、
繁った樹木の中に入って行く。
その先は急な坂道が続いている。
やがて、「金子丸」 の説明板があるところに到着。
説明板「金子丸」
「 金子丸は、金子三郎左衛門家重が守っていたという曲輪である。
尾根をひな段状に造成し、敵の進入を防ぐ工夫がされていた。 」
その先に「棚門跡」の説明板がある。
説明板「棚門跡」
「 山頂の本丸方面に続く道の尾根に築かれた平坦地で、詳しいことは分らないが、
棚門と呼ばれていた。 」
その先には、「高丸 この先危険 」 の標示板がある。
急になった道が続くが、開けたところからは、八王子市街地の展望が広がった。
更に進むと開けたところに出た。
小高いところには、八王子神社の社殿があった。
「 八王子神社は、延喜十三年(913)、
華厳菩薩妙行が、 山中に修行している際に出現した牛頭天王と、
八人の王子に会ったことで、
延喜十六年(916)に八王子権現を祀ったといわれる。
この伝説を基に、 氏照は八王子城を築城にあたり、八王子権現を城の守護神とした。
これが八王子の地名の起源とされている。 」
八王子神社の左側の石段を上っていくと、 「本丸跡」 と記された標柱がある。
「八王子城本丸址」 の大きな石碑もあり、右側に小さな社があった。
本丸は城の中心で、最も重要な曲輪であるが、平地があまり広くないので、
天主閣などの大きな建造物はなかったようである。
説明板
「 本丸は、標高460mの深沢山の山頂に設けられており、
本丸を中心に、松木曲輪・小宮曲輪などの曲輪が配置された。
急峻な地形を利用し、下から攻めにくく、上から攻撃するのに有利な構造になっていた。
落城の際、ここを守っていたのは横地監物吉信といわれ、
本丸跡にある小さな社には落城寸前に奥多摩に落ちのびた横地監物が祀られている。 」
下に降りて行くと、「小宮曲輪」 の説明板がある。
説明板「小宮曲輪」
「 小宮曲輪は狩野一庵が守っていたといわれる曲輪で、
三の丸とも 一庵曲輪とも 呼ばれていた。
天正十八年六月二十三日に、上杉景勝軍勢の奇襲にあい、落とされたと伝えられる。 」
松木曲輪は、八王子神社の左手にあった曲輪である。
「 中山勘解由家範らがこの辺りを守護していたといわれる。
八王子城攻めの際に奮闘したが、多勢に無勢で防ぎきることができなかった。
前田利家は、家範の武勇をおしみ、助命を申し入れたといわれている。 」
八王子城跡自然公園の入口まで下り、
城山川に沿って上流に向うと、左側に川を渡る橋がある。
その先は広場で、 「大手門跡」 の説明板がある。
説明板「大手門跡」
「 発掘された礎石や敷石などから、いわいる薬医門と呼ばれる形状の門と考えられる。
現在は埋め戻されているが、
ここには昭和六十三年の調査で、門の礎石や敷石が見つかった。
大手門は城の表門にあたり、このあたりが八王子城の正面口だったと考えられる。 」
その先の道は戦国時代に御主殿へ入る道として使われてきた。
当時は、城山川下流方面へ更に続いていた、と考えられる。
対岸の道は江戸時代になって造られたものである。
その先にある 「曳橋」 は、 古道から御主殿へ渡るために、城山川に架けられた。
現在の橋は、戦国時代の雰囲気を考えて架けられたとあるが、
危険なためか?御主殿への通行はできなかった。
御主殿跡に着くと、説明板があった。
説明板「御主殿跡」
「 御主殿跡は、落城後は徳川氏の直轄領、明治以降は国有林であったため、
あまり手が入らず、築城当時の状態のままで保存され、遺構の状態も良好であった。
平成四年(1992)から、二年間、発掘調査を行い、
城主の北条氏照が執務を行ったと考えられる御主殿の大きな礎石建物跡をはじめ、
会所などのさまざまな遺構が発見された。
調査の結果、氏照の生活の場はここからさらに奥に眠っていると思われる。 」
御主殿のあった場所には床張りの部分と礎石がむき出しになっている部分があった。
説明板 「御主殿跡」
「 主殿は中心となる建物で、政治向きの行事が行われていたと考えられる。
広さは15間X10間(29.4mX19.8m)で、 折中門 と呼ばれる玄関から入る。
大勢の人が集まる広間や城主が座る上段などがある。
建物は平屋建てで、屋根は板葺きか檜皮葺きと思われる。 」
「会所跡」 の説明板がある。
説明板 「会所跡」
「 会所は主殿で儀式が終えた後、宴会などが行われた場所と考えられる。
広さは11間X6間(20.9mX13.3m)で、北側が主殿廊下でつながっている。
会所の北東には庭園が作られていた。
同時代の他の事例などを参考にして、床を再現している。 」
曳橋から主殿に入る手前に石垣が聳え立っていたが、 これが八王子城の大きな特徴のようである。
「 自然石を加工せずに積み上げる 「野面積み」 と呼ばれる方法が用いられていて、城を作る際に採れた石が利用された。 」
御主殿入口の門は、冠木門(かぶきもん)というが、
ここにあるものは、当時の門をイメージして建てられたものである。
虎口(こぐち)は、曲輪の出入口のことをいい、石垣や石畳はなるべく、
当時のものをそのまま利用し、できるだけ忠実に復原したという。
御主殿跡を跡にしようとすると、城山川に注ぐ滝を見付けた。
「 御主殿の滝 と呼ばれるもので、 落城の時に御主殿にいた北条方の武将や婦女子らが滝の上流で自刃して、 次々に身を投じ、その血で城山川の水は三日三晩赤く染まったと伝えられる。 」
以上で、八王子城の探勝は終了し、城のスタンプをいただき、帰宅した。
所在地:東京都八王子市元八王子町・下恩方町・西寺方町
JR中央本線高尾駅北口から多摩バス「霊園正門経由」で約5分「霊園前」下車、徒歩約20分