国道136号は、静岡県三島市の国道1号線南二日町IC交差点から南下し、伊豆長岡・修善寺を通り、
出口交差点で西に向かい、土肥峠を越えると、伊豆市土肥で伊豆半島の西岸に出る。
伊豆半島西海岸を南下して、最後は下田市に至る道である。
三島から修善寺までは下田街道と呼ばれているが、
下田街道は出口交差点で南下する国道414号に名前を変えて下田へ向かっている。
◎ 三島から修善寺
南二日町IC交差点国道で、国道136号に入り、韮山、伊豆長岡を過ぎると、修善寺に入った。
「 修善寺は、修善寺温泉の真ん中にある寺である。
大同二年(807)に弘法大師と弟子たちにより作られた真言宗の寺である。
当時は、この地一帯に、密教形式の堂宇が建ち並び、真言宗の東国の拠点であった。
元久元年(1204)、鎌倉二代将軍・源頼家が、この地で殺害された。
、
本尊の大日如来像(重文)は、その母・北条政子が我が子の菩提のため、七回忌に実慶に造らせたものである。
その後、宋から渡来した蘭渓道隆が一時、止住し、約240年間は臨済宗として栄えた。
その後、北條早雲が韮山城主となると、自分の叔父を住職にして、寺を再建し、曹洞宗の寺院になり、
今日に至る。
修善寺の地名はこの寺名によるが、寺の正式名は福知山修禅萬安禅寺という。 」
赤い橋を渡り、石段を登って行くと、指月殿がある。
これはこの地で非業の死を遂げた源頼家の冥福を祈り、母の北条政子が建立したもので、
伊豆最古の建物といわれる。
本尊の釈迦如来像は寄木造りで、高さ二メートル三センチあり、右手に蓮の花を持っている。
この御堂の左手に少し行ったところに、頼家の墓がある。
説明板「頼家の墓」
「 この奥にある石碑は、元禄十六年(1704)、彼の五百周忌にあたり、
時の修禅寺住職・筏山智船和尚が建てた供養塔で、墓はその裏側にある小さな五輪石塔である。 」
桂川の畔に、独鈷の湯がある。
「 空海は、桂川で病気の父の体を洗う少年の孝行心に打たれ、
持っていた独鈷杵で、川の岩を打ち、霊泉を湧き出させた。
その湯に浸かったところ、たちまち、病は癒え、温泉療法が広まったと伝えられる。
現在も、自然石を使用しており、修善寺温泉の象徴的存在である。 」
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◎ 修善寺から土肥を経て堂ヶ島
国道に戻り、旅を続ける。
道を南下続けると、出口交差点があるので、国道136号はここで右折して、西に向かう。
このまま直進すると、川端康成の伊豆の踊子で有名な天城越えとなる道だが、
これは国道414号となっていて、熱川からの帰りに通った。
国道136号を西に向かうと、黄金の湯船で有名になった船原温泉があるが、
そのあたりから道は上り坂になり、くねくねと登ると土肥峠で坂を下ると、土肥に出る。
土肥はかっては土肥町であったが、平成の合併により、修善寺などと合併し、伊豆市になっている。
町に入るとすぐ、左手に入ると土肥神社がある。
神社の由来を示す石碑によるとかなり古いようである。
石碑の文字
「 神社の創建は定かではないが、既に延喜五年(905) の 延喜式神名帳に、
「伊豆国那賀郡豊御玉命神社」 とあり、伊豆国神階帳に、「従四位上とよめ玉命ノ明神」 とあり、
豆誌に、 「土肥明神ハ祭神豊御玉命ナルベシ 村名土肥ハ蓋し神名豊ノ転訛ナラン 」 とあり、
この地の産土神として今日まで続いてきた、と思われる。 」
境内には、樹齢千年を越える大きな楠が土肥を見守るようにそびえ立っている。
この社の石垣は、江戸城建築の際、築城石を切り出した薩摩藩の石工達により築かれたと伝えられ、
石切りや石積みの時、うたわれた仕事歌が、 さつまころがし の名で伝承されている。
国道に戻り進むと、土肥中浜交差点で、右から県道17号が合流してくる。
県道17号は、沼津土肥線と呼ばれ、沼津市を起点とし、
伊豆半島の北部から戸田を経て、伊豆半島西側をぐるーと廻り、この交差点で、国道に合流する道である。
この交差点を右折し、県道に入り少し行くと辮才天があり、その隣に日帰り温泉の弁天の湯がある。
漁船が停泊する一角に温泉施設の駐車場があり、車を止めて県道に出て、温泉に入りたいと思ったが、
早いため、営業していなかった。
左側に港の防潮堤の標識が見えるので、そのまま、歩道の坂を登っていくと、
眼下にはいくつかの岩が海の中に飛び出していて、波が寄せしぶきになって白く光っている。
登るにつれて、左側は切り立った崖のようになっている。
その様子を堪能しながら歩くと、広場のようなところに出た。
そこには駐車場があり、丸い橋のような下に、 「旅人岬」 と書かれたモニュメントがあった。
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その先は石段になっていたので、石段を登ると、「 小説 旅人岬 」 の石碑があり、 ここからの情景を描いた笹倉明の文章が刻まれていた。
石碑の文字
「 笹倉明は直木賞作家で、96年〜97年、静岡新聞に 「人びとの海」 を連載。
その後、舞台となったこの峠を 旅人岬 と命名し、小説名も改題した。
「 船の白い波の尾を引いて入江に向かう。 水鳥が宙を舞って、一瞬の影を水面に描いた。
それらの光景が刻々と彩を変えて行く。 赤みと大きさを増して輪郭がくっきりとさせた夕陽が向こう岸から長い朱の帯をのばし、湾の波間に真ぷたつに割り裂いた。
これまで夕陽は幾度も見てきたけれど、いまほどそれを美しいと感じたことはない。 」
作家が感動した夕陽をいつの日にか見たくなった。
ここには、「1993 「家族」 」 の 銘がある銅像もあった。
夕日を見るには一番のスポットのようであるが、ここからは富士山は見られないようで、残念である。
坂道を下り、駐車場に戻る。
「
土肥は伊豆における最大の金山として知名度が高く、最盛期には全国で第二位の金生産高をあげた。
坑道から噴き出した湯が今日の土肥温泉の始めである。 」
国道を進むと、次第に上りになり、右下には港が見える。
車を止めてみると、先程の旅人岬の先に、 富士山の雄姿が見える。
本日始めてみた富士で、感激である。
更に上ると、右側に旅館があり、その先に駐車場がある。
このあたりは八木沢というところで、駐車場に止めて北方を見ると、駿河湾の先に富士山がくっきり見える。
写真を撮っていると、大きな船が画面をとらえた。
それまでは漁船だけしか、視野に入らなかったが、
大きな船は。清水港から土肥港へ向かうフェリーのようで、両者を六十五分で結んでいる。
清水から陸地を走ると一時間で来られないと思う。
それはともかく、ここからの富士山の展望はよかった。
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国道を南下すると、トンネルやアップダウンが続く。
しばらく走ると、恋人岬のバス停があるところに出て、
駐車場のペンションのような建物があったので、車を止めた。
そこには恋人岬の案内板があり、 「 およねと福太郎の恋物語の舞台になったところで、
1983年に新たに整備誕生した自然公園である。 」 と、書かれている。
案内に従い、小道を下ると菜の花の咲く一角があり、その先の右側に、展望台があった。
展望台には、丸く輪のようにくり抜かれた 「メガネ記念碑」 というものがあり、
輪の中に富士山が見えるようになっている。
もう一つは金の鐘で、石の台座の上に、二人の人形のようなものがあり、その上に鐘が吊り下げられている。
「 この鐘は、1989年、グアムの恋人岬と姉妹提携を結んだ際、記念に設置されたもので、
銀の鐘はグアムに贈られた。 」 、とある。
若い男女には人気のあるスポットである。
道はその先もあるが、木道で高低差があるので、足に自信のない人はここで引き返していた。
樹木の上に橋のように作られた道を下って行くと、もう一つの展望台がある。
先程のは5人位で一杯になるようなものだったが、こちらは広い。
眼下に、緑とその先に入江が見える。
背丈の高いところに吊られた愛の鐘がある。
先程の金の鐘も同じであるが、この鐘を恋人二人で三回鳴らす恋が成就すると信じられていて、
当日も多くのカップルが突いていたが、その後の成果はいかなるものだろうか?
恋人岬とか、旅人岬などの命名がよいせいか、伊豆西海岸は若い人が多く訪れるような気がする。
伊豆西海岸に訪れ、開放的な風景が多いことに驚いたが、
ネーミングと、この風景が若い人を引き付けてると思った。
目を転じると富士山が見えた。 ここからの富士山もわるくない。
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国道を南下すると、西伊豆町に入る。
右に宇久津港を見ながら上ると、道は幾つかのトンネルをくぐる。
その一角の海側に、黄金崎があるが、そのまま通過すると、遊覧船の出る堂ヶ島に到着。
「 堂ヶ島は、浮石質凝灰岩が、駿河湾の荒波により侵食され、断崖絶壁となったもので、 伊豆の松島と称えられる。 」
遊覧船乗場に向かったが、浪が高いため欠航中。
仕方がないので、右手の岩山の方角へ歩いていく。
岩に道が続いているので、その上を歩いていくと、上るに比例して、視界が広がっていく。
下を見ると、カップルが岩の上に座って寛いている姿が見え、その先には松の生えた岩がある。
岩の下は切り立っていて、砕け散る波が見えた。
先に進むと、左手に島が見え、案内板には 「三四郎島」 とあり、「
手前から、象島・中の島・高島の三つの島の総称 」 とある。
一見したところでは、一つの島に見えるなあと思いながら、右手に目をやると、
この島と陸地の間に細い砂浜が続いているように見えた。
説明板「トンボロ現象(陸繋砂洲)」には、
「 トンボロ現象(陸繋砂洲)が見られるところで、干潮時には歩いて渡ることができる。 」 とあった。
レンズを拡大して覗くと、人が歩いて渡っている姿が小さいながら、確認できた。
干潮時にしか現れない現象が見られたので、ラッキーと思った。
その先には地面に穴が開いているところがあったが、天窓洞である。
ここからだけでなく、遊覧船は海から中に入るとあり、欠航中なのは残念だった。
説明板
「 天窓洞は昭和10年に天然記念物に指定された。
長い年月の海触によりできた洞窟で、中央の天井は抜け落ちていることから名づけられた。 」
堂ヶ島温泉は西伊豆最大のようで、三四郎島に面して旅館が建っていた。
国道脇の駐車場には加山雄三ミュージアムなどがあったが、昼になったので、お店に入り鉄火丼を注文して、食べた。
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◎ 堂ヶ島から松崎経由、下田へ
食事後、日帰り温泉を探して、隣の大浜海岸へ行くと、親子が海を見ていた。
夏は海水浴が出来るのかもしれないが、サーフィンを若者がしていた。
といっても、浪はそれほど高くないので、初心者向きの海岸かもしれない。
日帰り温泉はその近くにあり、西伊豆町営 堂ヶ島温泉なぎさの湯である。
「
堂ヶ島温泉 なぎさの湯は、仁科車庫バス停から5分。
>泉 質は、ナトリウム・カルシウムー硫酸塩泉 泉温 51.5℃
施設は、平屋の質素な建物で、下駄箱の先の受付があり、その右側に休憩室があった。
浴室は、受付の奥に男湯(手前)と女湯がある。 脱衣場には木の棚と
コインロッカーがあり、海側が浴室になっていた。
タイル張りの浴室には、大きな窓がどちらの風呂もあり、そとの景色が見える。
ここの湯は、堂ヶ島温泉の旅館と同じ湯が引き湯されてい
るようで、無色透明やや塩味のさっぱりとした肌触りの湯が注がれていた。
露天風呂から立つと大浜海岸の風景が見えるが、座ると海の景色は見えない。
西風が吹くと海岸から砂が湯船に入ることが書かれていたが、
目隠しを兼ねたカイズカイブキが植えられているためである。 」
入浴後、国道に戻り南下すると、松崎町に入り、伊豆の長八美術館前の駐車場に車を止める。
「 松崎といえば、なまこ壁で有名な町である。
伊豆の長八美術館は、この町に生まれた、入江長八の鏝絵を保存しており、
建物の建設には全国の左官職人たちが関わったとある珍しい美術館である。
入江長八は、文化十二年、当地で生まれ、左官職人となったが、二十歳のとき江戸へ出て、
狩野派の喜多武清から絵を学ぶ一方、彫刻も学んだ。
江戸時代の後半になると、火災予防のため、漆喰壁の建物が商人を中心に多く建てられたが、
建物の外観を装飾する目的で壁に鏝(こて)で、絵を描くようになった。
入江長八は、江戸日本橋茅場町にあった、薬師堂の拝柱の左右に、昇り竜と下り竜を造ったが、
その見事さから、名工伊豆の長八と呼ばれるようになった。
この美術館には五十以上の長八の作品が収蔵されているという。 」
館内を見てまわり、こて絵やしっくいなどの知識は増えた。
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美術館を出て、国道を少し戻ると、右側に伊那下神社がある。
「
延喜式内の古い神社で、祭神は彦火火出見尊と住吉三柱大神で、かっては唐大明神」と称し、
源頼朝をはじめ、多くの武士達に崇拝された。
現在の名前の伊那は地名で、造船技術を持った新羅渡来人の猪名部が、この地をイナと名付けたことに、
由来する。
国宝などの社宝が多い神社である。 」
道の反対には浄感寺があり、長八三十一歳の時、天井に描いた八方にらみの竜のこて絵が、残っている。
国道を戻ると、「なまこ壁」 の案内があるので、左手の小道に入ると、
江戸末期に建てられたという、近藤家のなまこ壁の家がある。
道を進むと、大通りに出る。 この左手にはなまこ壁の伊豆文邸がある。
説明板
「 明治四十三年の建物で、かっては呉服商を営んでいた家である。
木像二階建てで、延べ210平方bで、正面の帳場やどまなどが当時の面影を残している。 」
家の中に入ると、お雛様飾りがいくつかあり、部屋全体を占拠していた。
外に出て、右の方角に向かうと、観光案内所がある。
松崎町観光協会は、警察署を改装したというが、
星のような形を描いたステンドグラスの丸窓が印象的な建物である。
受付の前には煙火松崎手筒組と書かれた手筒花火が大小四本あったが、
八月15日の花火大会で披露される。
観光会館を出て、その先に進み、交差点を左折し常磐橋を渡ると、
大正十三年に、昭和天皇のご成婚を記念して建設されたものを復元した時計塔がある。
周りの風景には溶け込まず、少し違和感はあるが、童話に出てくるようなかわいいものだった。
その奥には明治の商家・中瀬邸がある。
説明板
「 中瀬邸は、明治中期に呉服商家として建てられた。
わずかな数代の間に財を成した大地主の建物は、現代では考えられない程贅沢な木造建築で、
なまこ壁造りのたたずまいの中は、太い柱や梁、贅沢な素材や細工を施してある。
現在は町の資料館になっていて、当時を偲ばせる道具や調度品のパネル、
モニターによる紹介をしていた。
また、大人が三人位足を浸けられる足湯もあった。 」
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◎ 下田市
国道136号をこのまま南下を続けるとマガレットラインと呼ばれる道だが、道幅が狭くなる。
時間の関係から、国道を南下することを諦め、道の広い松崎街道を通って、下田に向かう。
駐車場に戻り、宮の前橋を右折し、標高三百十六bの婆娑羅峠を越える。
峠と言いつつも、実際は峠を越えるわけではなく、トンネルがあり、それをくぐるのである。
峠から降りていくところはくねくねとした道だが、その後は、急カーブはない道で、
思ったより早く下田市に入れた。
「 下田は、江戸と大阪間の風待ち港として栄えたが、
歴史に残る事件として有名なのはペルーの来航による和親条約の締結である。
嘉永七年(1854)三月、神奈川に於いて、日米和親条約が締結されると、下田が開港場となり、
ペルー艦隊が下田港にぞくぞく入港してきて、了仙寺は上陸した一行の応接所となる。
その後、下ここ、田の了仙寺に於いて、
日本側の全権大使・林大学頭等と、ペルー間で、
和親条約の細則を定めた全十三箇条からなる下田条約が締結された。
下田開国博物館には、それに関連した資料が展示されている。 」
開国博物館の近くの小さな川に架かる石橋を渡ると、「下田了仙寺」 の石標が建っていて、
了仙寺はその奥にある。
お堂の中に入ると、従軍画家ハイネが描いたペルー提督黒船陸戦隊調練の図(複製)と、
住職が使用した駕籠があった。
開国に関連した寺に、宝福寺がある。
宝福寺はここから少し離れていて、裁判所の近くの大通りに面している。
「 この寺は、幕末には日米交渉の際の幕府役人の宿舎にあてられた。
また、総領事ハリスに仕え、五十一歳の時、稲生沢川の門栗ケ淵に投身自殺した唐人お吉の墓と、
お吉記念館があり、お吉とハリスの遺品や開港当時の資料を展示している。 」
下田港の反対側にある玉泉寺は、ハリスが来日して最初の米国領事館になったところで、 お吉の出会いが始まったところである。
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最後に下田海中水族館へ行った。
「 下田海中水族館は、天然の入り江を利用して海上に浮かぶ、浮遊円形水族館で、 イルカと一緒に泳げる数少ない施設である。 」
巨大水槽内では給餌ショーが行われていた。
イルカショーは、天然の入り江で暮らしている元気いっぱいのバンドウイルカたちが、
自慢の技を披露する。
巨体を使っての大ジャンプがあり、また、トレーナーとイルカが一体となったドルフィン
サーフィンが披露され、なかなか見ごたいがあった。
館内から出たところの売店で食べた小さな貝が串刺しになっているものは大変うまかった。
以上で下田の旅は終了、予約していた伊豆半島東側の熱川に車を走らせた。
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訪問日 平成二十一年(2009)三月十五日