三島宿は、新町橋の東の見付から、広小路先の西の見付までの長い宿場である。
天保十四年の宿村大概帳によると、家数は千二十五軒、宿内人口は四千四十八人だった。
三島宿には、箱根越えをする人、終えた人が集まったので、脇本陣は三軒、旅籠は七十四軒あった。
箱根関所と箱根越えを終えた開放感から、旅人はここで羽目を外した。その相手をしたのが三島女郎衆である。
それを示す数字は宿場の人口で、女子が二千百二十人で、男子を百五十人上回っていた。
旅人は三島女郎を相手に遊び、農夫節(のうへいぶし)を謡ったので、農夫節は全国的に有名になった。
三島宿の東の入口は、大場川に架かる新町橋である。
江戸時代には、ここに東見附があったというが、今はなにも残っていない。
橋の右手に真っ白に雪を被った富士山を見える。
新町橋を渡ると、日の出町だが、江戸時代には、新町、長谷、伝馬金谷、久保町などであった。
そこから四百メートルの右側に、守綱八幡神社がある。
「 創建ははっきりしないが、寛永年間ごろとされ、祭神は守綱大神である。
石鳥居は、慶応三年(1967)の建立、 灯籠は安永六年(1777)、
境内の秋葉山常夜燈は、弘化弐年(1845)の建立である。 」
道の反対の左側には、大きな題目塔が二基建っている。
奥にある寺は、妙行寺で、山門は、小松宮の別邸だった楽寿園の表門が移設されている。
このあたりには、お寺が多く、時宗の光安寺、高野山真言宗の薬師院、真宗大谷派の成真寺などがある。
古い民家は残っていなかった。
日の出町交叉点から、七百メートル歩くと、右側に「三島大社」の石標と大鳥居が建っていて、
その先に、 大社町西交叉点がある。
安藤広重の東海道五十三次の浮世絵、「三島宿」 は、三島大社の大鳥居を描いている。
参勤交代の大名行列の殿様も、鋒根越えをしてきた全ての旅人が、無事の峠越えにほっとして、
三島神に感謝の祈りをささげたことだろう。
「 三島大社は、伊豆国の一の宮として、源頼朝が挙兵に際し、祈願を寄せ、
緒戦に勝利したことで有名である、
祭神は、大山祇命と、積羽八重事代主神である。 二柱を総して、三島大明神と称している。
境内には、天然記念物で、御神木の御神木のキンモクセイがある。
樹の高さは十メートル、周囲約四メートルで、樹齢はおよそ千二百年の巨木で、
今もなお青々とした葉を付けている。
x | x | x | ||||
神門は、慶応三年(1854)の建立、舞殿は慶応弐年(1866)、の再建で、総檜造りである。
その先に 三島大社の立派な社殿がある。
「 社殿は、拝殿・本殿・幣殿からなる、権現造りの複合社殿である。
本殿の大きさは出雲大社級の大きさである。
高さは二十三メートル、鬼瓦の高さは四メートル、流れ造りで、切妻屋根、棟には千木、鰹木をつけている。
現在の建物は、 嘉永七年(1854)の東海地震で倒壊したのを、 慶応弐年に再建したものである。
総檜造りで、六千六百七拾七両余りのお金がかかった、という。 」
三島大社の大鳥居を出ると、
バス停近くに、 「夢舞台東海道 旧伝馬町 三島大社」 の道標が建っている。
目の前の左右の道は、 三島大通り(旧東海道) である。
正面に真直ぐの道は、下田街道である。
また、三島大社の西側(大社町西交叉点)には、中山道に通じる佐野街道がある。
ここは交通の要所でもあった。
東海道は信号交差点を右折し、西に向かう。
なお、鎌倉時代以前の東海道は、もう一つ北の、 現在、 桜小路 と呼ばれる道である。
宿場町だったこの辺りは、アーケードのある商店街になっていて、古い家は見当たらない。
x | x | x | ||||
少し歩くと、右側に、郵便局(市役所中央町別館)がある。
右に入ると、、「 問屋場跡」 の石碑と説明板が建っている。
説明板「問屋場」
「 三島の宿は、慶長六年、徳川幕府の交通政策として宿駅に定められ、
海道有数の大宿として認めされた。
この宿場の施設として、同年、この場所に問屋場(現・市役所中央町別館)が設置された。
この施設は、幕府の役人をはじめ、海道を通行する公用の貨客を運ぶための人馬の調達を主目的としていた。
問屋場には、問屋年寄り・御次飛脚・賄人・帳付・馬指人足・送迎役などあり、
問屋場の北側に人足部屋がおかれ、雲助と呼ばれた篭かき人夫の部屋があった。
箱根・小田原に比較して当時交通量が多かったこの三島宿に、一か所の問屋場で、すべてを賄っていた。
そのため、
ここで働く役人や人足は、相当の数いたといわれ、助郷人馬の動員などと併せ、人手不足をかこっていたことが、史料で残っている。
三島市教育委員会 」
田町駅入口交差点の左側のメガネのスパーの手前に、 「上御殿橋」 があったことを示す、
モニュメントがある。
県道51号線を越える交差点の手前には、井戸から水を汲み上げる、人形からくりがある。
「 三島は、富士山の溶岩流上にあり、湧水が豊富なため、水の都とも言われる。
一年を通して一定の水温のため、冬は外気より暖かいため、朝霧が立ち込める、という。
三島は、 水、水、水で、象徴される都市である。 」
三島宿は新町橋の東の見付から、広小路先の西の見付までの 東西十八町二十間(約2km)の長さである。
長い宿場であるが、天保十四年の宿村大概帳によると、家数は千二十五軒、宿内人口は四千四十八人だった。
交差点を渡って少し行ったところに、花で飾られた西洋風のお店がある。
そこには、 「世古本陣跡」 と表示されたものが、店の左手にある水盤の上に乗ったデザインであった。
しゃれたものなので、お店の案内と思って通り過ぎてしまいそうである。
道の反対にある茶処山田園は、樋口本陣跡である。
店の前に置かれた、小さなセロケースに、案内が書かれていた。
x | x | x | ||||
その先も、アーケードが続く商店街だが、あまり活気は感じられない。
「 江戸時代の三島宿には、箱根越えをする人、終えた人が集まったので、
脇本陣は三軒、旅籠は七十四軒あった。
箱根関所と箱根越えを終えた開放感から、旅人は農兵節(のうへいぶし)と並んで、
有名な三島女郎を相手に遊んだ。
そうした賑わいはもうない。 」
道の左側に、常林寺 という古い禅寺があるが、ここには江戸時代の古い墓が多数あった。
常林寺を過ぎると、すぐ源兵衛橋がある。
「
この橋は源兵白旗橋といい、江戸時代の駿豆五色橋の一つに数えられていたという。
その下には、 楽寿園の小浜池を源流とする、 源兵衛川が流れている。 」
橋を渡り、左折して、 川に沿って歩くと鐘楼がある。
「 江戸時代から時を告げた鐘だったので、 時の鐘 と呼ばれている。
宝暦十一年に鋳られた鐘は、 太平洋戦争時に供出してしまったが、昭和二十五年に復活させた。 」
その奥にあるのが、三石神社である。
「
源兵衛川の川辺に、 三ツ石 という巨石があり、 その上に社を建て、稲荷を祀ったのが始まりである。
東海殿の宿場が発展するとともに隆昌したが、天明年間に、隣村新宿の火災で類焼。
その後、 火防の神 ・ 、正一位火防三石大明神を合祀したという。 地元の鎮守である。 」
街道に戻ると、その先の交叉点の先に踏切があり、右側に伊豆箱根鉄道三島広小路駅がある。
その先は変則の交差点で、道が多数に分かれている。
「
東海道は、右側に花屋、左側にパチンコ屋がある道であるが、この先黄瀬川の先まで、旧道が残っている。
この交差点で、花屋の右側の道に入り、最初の五叉路の狭い道を進むと、伊豆国分寺跡がある。
伊豆国分寺は、旧蓮行寺(現在は国分寺)一帯にあったようである。
発掘調査の結果、金堂跡、僧房跡などが確認されたが、今はこの寺の
本堂の裏に礎石の一部があるだけである。 」
その先は西本町であるが、宿場の面影はまったく残っていなかった。
林光寺を通り過ぎると、左に 「茅町」 の石柱がある。
の先に、善教寺がある。
広小路から五百メートルほどで、左側に秋葉神社がある。
小さな社は八坂神社、石段を上ると秋葉神社である。
手前に、秋葉山常夜燈があった。
その先に境橋がある。
ここが名前の通り、三島宿の西の入口で、 ここは「西見附跡」 である。
三島宿は、ここで終わる。
x | x | x | x | |||||
訪問日 平成二十年(2008)二月二十九日