名所訪問

「 名水の地  三島 」


かうんたぁ。


駅前の商店街を左に沿って歩くと、 「愛染堂跡」 の溶岩塚があった。 
市民会館の脇を下って行くと、からくり人形があった。

その先の左側に白滝公園があり、中に入ると、 公園の至るところから湧水が噴き出し、池をなしていた。 
これらは富士山の積もった雪が溶けて地面にしみ込み、三年の日月をかけて、 幾つかの地層を通りぬけてきた清水である。 

遊歩道に戻ると、桜川の水辺に、 「白滝観音堂」 というお堂が建っている。

「 以前は、北側の滝の脇にあったらしいが、今は桜川の水辺に移されている。 
桜川は、この上流にある菰池公園が源流で、白滝公園の水も集めて、流れている。  」

右側に商店があり、左側に桜川が流れているが、左の遊歩道に、 大きな石柱があり、 「三島 水辺の文学碑」と書かれている。
その先の遊歩道には小さいが色々な形の文学碑が多数ある。
大岡信・宗祇・正岡子規・太宰治・若山牧水・十返舎一九・川端康成・三島由紀夫・井上靖という豪華メンバーである。 
こんなに多くの著名人が三島を訪れているのに、驚いた。
司馬遼太郎のは長かった。 
「 この湧水というのが、なんともいえずおかしみがある  むかし富士が噴火してせり
あがってゆくとき、溶岩流が奔って、いまの三島の市域にまできて止まり、冷えて岩盤になった。
   三島は富士の湧水の町なので、ここだけではなく至るところで水が湧き出している。 
その後、岩盤がちょうど 人体の血管のように そのすきまに多くの水脈をつくった  」  とあり、さらに続いていた。
これは小説新潮に掲載した、 「 裾野の水、三島一泊二日の記 」 からのものとあったが、
湧水について見事に表現していると感心した。 

からくり人形 x 白滝観音堂 x 三島 水辺の文学碑石柱 x 司馬遼太郎文学碑
からくり人形
白滝観音堂
「三島 水辺の文学碑」石柱
司馬遼太郎文学碑

三島駅前に戻り、元小松宮の別邸で、廻遊式の庭園の楽寿園を訪れる。
楽寿園は、二万坪の大きな公園である。
入園料三百円を支払い、右側の道を行くと、右側に資料館、そして、左側に池がある。

溶岩流の先に、建物が建っていた。 これが楽寿園である。

説明板「楽寿園」
「 この建物は、明治二十三年(1890)、 小松宮彰仁親王の三島別邸として建てられたもので、 江戸初期の数寄屋造り様式を備え、明治期の代表的建物です。
内部は、それぞれ、異なった趣の部屋と、それを結ぶ廻廊によって構成され、建築材料もより吟味されたものが使われ、造作もきわめてすぐれたものです。
主室となる楽寿の間には、当時の帝室技芸員や大家の肉筆による装飾絵画が、襖・板戸・格天井・天袋などに、数多く残されていますが、ほとんどが魚や水鳥・植物などを画材としており、 小松宮様の情緒深い心情がうかがわれ、当時の画法なども興味深くみることができます。
建物周辺は、富士山溶岩流上に実生した自然林と、湧き出る天然の池泉を巧みに利用し、 その自然美に人工の妙を加えた築庭がなられています。 
       (以下省略)           」     

小松宮が造った楽寿館の建物を見学する。

「 小松宮は、明治天皇の側近として、戊辰戦争では、奥州征討総督として官軍の指揮を執った人物である。 上野公園に騎馬姿の銅像が建っている。 
建物の中は、 撮影禁止とのことで、写せなかったが、明治期の装飾絵画が数多く残され、 建物も京風の高床式数奇屋造の建物で、材料にお金がかかっていて、素晴らしいものだと、思った。 

 

楽寿館の建物は、明治二十三年に建てられ、小松宮は明治三十六年まで使用された。
明治四十四年、梨本宮方子妃と結婚した李氏朝鮮最後の皇太子・王垠の所有となり、 別邸として、新たにホールが増築された。
昭和二年、資産家の緒明氏の所有になる。
昭和二十七年、三島市の所有になる。 「楽寿園」 と命名され、今日に至る。 

案内パンフレットには、 「 三島溶岩流の岩肌に、百六十種以上の樹木が実生し、 湧水が所々に、小浜池などの天然池をなし、昭和二十九年に、国の天然記念物、及び、名勝に指定された。 」 とあったので、豊富な湧水を想像していた。
しかし、小浜池は湧水は見られず、一部は干上がっていて、看板に偽りありの風景である。
係員の話では、 「 小浜池が満水になるのは、五年に一度くらいしかない。 
周辺の地下水汲み上げが原因で、水位が下がり、代わりに、水道水を入れでも、漏れでしまう。」 という。 
残念ながら、いたしかたない。

駅で頂いたパンフレット (水の街三島歴史の道」 に、「 三島のうなぎはなぜうまい? 」 、とあるのを見て、三島で食事をすることにした。 
何箇所かの案内がある中から、駅前の 「不二美」 という店に入り、うな重を頼んだ。 
しばらく待って出てきた鰻は、割と淡白な味だった。
三島では江戸時代、うなぎは食用とされていなかったため、桜川などに、沢山の鰻がいたという。 
幕末の戊辰戦争で来た薩長兵により食され、三島の清流に住む鰻は、美味と次第に東京方面に伝わり、 鰻屋が増えていったという。 
それを証明するように、パンフレットの味処案内の半分が、鰻屋だった。 

楽寿園入口 x 楽寿園の庭と建 x 小浜池 x うな重
楽寿園入口
楽寿園の庭と建物
小浜池
うな重

訪問日     平成十九年(2007)六月三日



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