由緒書
「 創建の時期は不明ですが、古より三島の地に鎮座し、奈良・平安時代の古書にも記録が残ります。
三嶋神は東海道一の神格と考えられ、平安時代中期「延喜の制」では、「名神大」に列名されました。
社名・神名の「三島」は、地名ともなりました。
中世以降、武士の崇敬、特に伊豆に流された源頼朝は深く崇敬し、源氏再興を祈願し、
神助を得てこれが成功するや、社殿神宝を寄せ、益々崇敬することになりました。 」
三島大社の由緒書(ホームページ)には以上のように記されていて、
神社の起源について、三島大社は、 「 創建は明らかでない。 」 として、書いていない。
三島大社は、延喜式神名帳に名神大社として記載される、伊豆国の一之宮で、
祭神は、大山祇命(おおやまつみのみこと)と、積羽八重事代主神(つみはやえ ことしろぬしのかみ)である。
以上のことから、古来、 以下の説がある。
「 伊豆国下田へ、伊予国大三島の三島明神を勧請。 その後、この地へ、転座したという説である。
鎌倉時代の東関紀行に、
「 伊豆の国府にいたりぬれば、三島の社のみしめ、うちをがみ奉るに松の嵐、木ぐらくおとづれて
庭の気色も神さびわたれり。 この社は伊予の国三島大明神をうつし奉ると聞く 」
と、書かれていることから推察すると、 「日本総鎮守」 と呼ばれる、伊予国大三島に鎮座する、
大山祇神社から、 三島大社は勧請されたという説が、当時、主流だったといえそうである。
なお、この説とは逆に、三島大社から勧請されたのが、大山祇神社という説もあるが ・・・
」
JR三島駅駅前からバスに乗り、三島大社前で降りた。
三島大社のバス停近くに、 「夢舞台東海道 旧伝馬町 三島大社」 の道標が建っている。
目の前に「三島大社」の石柱と大鳥居がある。
その先、右側に石の上に、三島大社の神社の神紋を付けた常夜燈があった。
参道には常夜燈が並ぶが、それには 「三島大明神」 と書かれている。
江戸時代には、三島大社ではなく、三島大明神が神社名だったのだろう。
参道を歩くと、右側に大きな石があり、「たたり石 」の説明板がある。
説明板「たたり石 」
「 この石は大社前の東海道の中央にあり、行き交う人の流れを整理をする役目を果たしていた。
たたり(絡○)は、本来、糸のもつれを坊ぎ具であり、整理を意味する語である。
(注)○の字は、土遍に上が九の字、下が木という字の組み合わせで、ホームページには使用できない漢字である。
後に往来頻繁になり、これを取り除こうとする度に、災いがあったといわれ、絡○(り)が、祟りに置き換えて考えられるようになったと言われている。
大正三年、内務省の道路工事によって、掘出され、神社に於いて、ここに移された。
今では、交通安全の霊石として之進公がある。 」
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池のほとりに、 若山牧水の歌碑が建っている。
「 のずゑなる 三島のまちの あげ花火 月夜のそらに 散りて 清ゆなり 」
沼津市に居を構えていた牧水が、三島大社の夏祭りの花火を詠んだものである。
近くの松の木が生えているところに、 「安達藤九郎盛長警護の跡」 の説明板がある。
「説明板
源頼朝は、治承四年(1180)、源家再興を祈願して、百日もの間、
毎晩、 蛭ヶ小島から三島大社に日参したが、 警護した安達盛長が詰めた場所である。 」
鳥居をくぐると、道の左右に神池がある。
左手に出島があり、北条政子が勧請したという、 厳島神社が祀られている。
池の脇を過ぎると、三島大社の総門がある。
神門は、慶応三年(1854)の建立で、総檜造りである。
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神門をくぐると、慶応弐年(1866)に再建された舞殿がある。
その先に 三島大社の立派な社殿がある。
「 社殿は、拝殿・本殿・幣殿からなる、権現造りの複合社殿である。
本殿の大きさは出雲大社級の大きさである。
高さは二十三メートル、鬼瓦の高さは四メートル、流れ造りで、切妻屋根、棟には千木、鰹木をつけている。
現在の建物は、 嘉永七年(1854)の東海地震で倒壊したのを、 慶応弐年に再建したものである。
総檜造りで、六千六百七拾七両余りのお金がかかった、という。 」
本殿前に、 御神木のキンモクセイがある。
「
樹の高さは十メートル、周囲約四メートルで、樹齢はおよそ千二百年の巨木で、
今もなお青々とした葉を付けている。
国の天然記念物に指定されている。 」
境内には売店が何軒かある。
福太郎餅の暖簾を掲げた店に入った。
福太郎餅という名に興味を感じたからである。
出てきたお菓子は草餅に、餡を入れたものだった。
その菓子を食べ、濃い目に出されたお茶を飲んだ。
福太郎餅はとびきり美味いというものではなかったが、腹持ちはよかったですね!!
福太郎餅のいわれを確認するのを忘れて店を出たが、後で確認すると、
「 暖簾の翁が福をもたらす縁起餅 」 とあった。
境内には、「源頼朝 旗挙げの碑」 が建っている。
碑の文面
「 治承四年(1180)八月十六日、源頼朝は北條時政を招き、旗挙げの相談をし、
「まず 八牧判官兼隆を夜討ちにすべし、急ぎ相計へ 」
時政「 但し 今夜は三島社の神事にて、国中には弓矢とる事候はす 」 (源平盛衰記)
との意見を入れ、十七日夜討と決定した。 十七日 藤九郎盛長を奉弊使とし、戦○(文字?) を祈請し、(東鑑)
旗挙げに成功したのである。 二日後。 十なわち、 八月十九日、報賽のため、神領を寄進の下文を寄せた。 現在、この下文は、宝物として社蔵されている。
三島大社宮司 原勝治撰 」
御参りを済ませ、御朱印を書いてもらい、三島大社の訪問は終了した。
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訪問日 平成十九年(2007)六月三日