諏訪原城は、遠江国榛原郡金谷(現在の静岡県島田市金谷)にあった山城である。
城内に諏訪大明神を祀ったことからこの名が付いたとされる。
遠州の攻略を続けていた武田信玄は病死したが、
跡を継いだ武田勝頼が、遠州に進出する際の出城として、
天正元年(1573)、馬場氏勝に命じて築いた城で、
浜松の徳川家康に対する前線基地だった。
続日本100名城の第146番に選定されている。
JR東海道本線金谷駅で下車し、東海道を辿り、金谷宿を経て、西へ、旧東海道の石畳を登って行くと、城跡に至る。
諏訪神社の鳥居の横に、 「諏訪原城址」 の石碑が建っている。
薄暗い神社境内を進むと、空掘がある。
その先の草叢に、 「武家屋敷跡」 「大手郭」 の表示板がある。
武家屋敷や馬場などがあったところは林に変り、自然に戻ったという感じで、
大手郭の面積などは確認しようがない。
その先には一面茶畑である。
「 明治維新で、駿府徳川家の家臣が職を失い、 自活のために、荒廃していた牧野城周辺に移住して開墾し、主に茶畑とした。 」
現在も諏訪原城跡は茶畑の中にあり、
茶畑の中に、 戦死した武田方の城主、「今福浄閑の墓塚」 がある。
林の中に入ると、 「乾郭跡」 の表示板があった。
その先に、 「三号堀」 の説明板があり、
「二の丸を守っていた。 長さ七百メートル、幅十四メートルの水堀。」とあったが、
家康が増強したもののように思えた。
二之丸や三之丸は茶畑になっていたが、近年、学術調査で掘り返したところ、
その痕跡も残っていたという。
説明板
「 二之丸は、武将が集まって戦術を打ち合わせたところである。
三之丸は、火薬や武器を貯蔵していたところである。 」
その先の一角は、掘り返された区画のようで、 「本丸跡」 の表示板があり、 「 ここに城主が住んでいた。 」 とある。
その先に、 「天守台地」 の説明板がる。
「 この城は山城であり、天守閣はなく、 二層からなる矢倉(櫓)があり、物見が常駐していて、敵の動向を監視していた。 その前方は急斜面になっていて、攻めてくる敵には、石や矢で見ながら攻撃できる位置にあった。 」
当時は、地上にいる敵の様子は一望できたようだが、 木が繁茂しているので、一部しか見ることはできなかった。
その先に、 「搦手外郭」 「搦手口」 の表示板があるが、 笹に覆われた原野になっていた。
(ご参考) 諏訪原城について
「 武田勝頼が、天正元年(1573)、 普請奉行馬場信春、その補佐を武田信豊に命じ、
東海道沿いの牧之原台地上に、諏訪原城を築かせた。
諏訪原城は、複雑な地形を利用して、堀を幾重にも張り巡らせ、
押し寄せる敵を防ぐ工夫が施された、 天然の要害の城である。
城は、甲州流の城の特徴である台地の突端部を利用し、戦闘正面を限定させる構造になっている。
甲州流築城術の特徴である、丸馬出、及び、三日月堀が、三ないし五ヶ所あり、
枡形虎口などの遺構も残る。
城の三方は、台地の断崖となっており、前面の巨大な空堀がこの断崖へと続いている。
天正三年(1575)、徳川家康の攻撃を受け、
城主 ・ 今福浄閑斎は、 一ヶ月余 抵抗したが討死し、
残った城兵は、夜半に紛れて、田中城に逃亡して落城した。
落城後、家康は、この城を拠点に、 武田勝頼軍の動向を監視、牽制を続け、
高天神城への大井川沿いの補給路を封じたことで、 戦いを有利に導いた。
家康は、 この時期に、堀や丸馬出しを更に増強、 大手曲輪なども築き、
牧野城と改名している。
天正十年(1582)に、武田氏が滅亡すると、牧野城の存在意義が薄れ、
天正十八年(1590)に、廃城となった。 」
諏訪原城へは、JR東海道本線金谷駅から西へ、旧東海道の石畳を登って約20分、城跡に至る
金谷駅から島田市営のコミュニティバスが一日四往復運行している
訪問日 平成十九年(2007)五月二十二日