由比宿を過ぎると、東海道の難所と一つ、さった峠が待ち構えている。
最初は海岸を行く道だったが、波にさらわれるなど、事故が多いので、山を越える道が開かれた。
さった峠から見た富士山は、駿河湾の前景として、すばらしかった。
興津宿は、 天保十四年の東海道宿村大概帳によると、宿場の家数が三百十六軒で、宿内人口は
千六百六十八人で、本陣が二軒、脇本陣二軒、旅籠が三十四軒である。
さった峠を控えた宿場として、隣の江尻宿より賑わいをみせていた、という。
由比宿を見学したあと、さった峠に向かう。
◎ 間の宿 倉沢
由比川に最近建て替えられた橋を渡ると、由比宿も終りになる。
その先の北田集落の道の両脇に、「由比桜えび通り」 と表示されていて、
飲食店は、どの店も桜えびのメニューを掲げている。
昼時とあってどの店もお客が列をつくって入るのを待っていた。
道の左側に、せがい造りと下り懸魚の家 ・ 稲葉家がある。
説明板
「
せがい造りは、平軒桁へ腕木を足してたるきを置く、「出し粱」 という、軒下の長い屋根を支える建築技法で、全国各地に内容は違うが、この工法は使用されている。
なお、せがいとは、船の櫓(やぐら)を出す部分をせがいというが、それに似ていることが語源のようである。
下り懸魚(げぎょ)は、彫刻などを施したものを平軒桁に貼り付けて、
風雨から守るものである。 」
きょうしんばしを渡ると、町屋原集落である。
ここを町屋原と称するのは、古代に
、物々交換の市場が営まれたところだったからである。
道の右側の鳥居の奥に、式内社の豊積(とよつみ)神社がある。
由来書
「 延喜式神名帳に、駿河国廬原郡豊積社 として、記名されていて、
第四十代天武天皇の白鳳年間、 ここに五穀の神・豊受姫を祀る豊積神社が創建された、と伝えている。
東海道名所図会に、 「 鳥居より社前まで桜多し、祭神は木花開耶姫命。 天武天皇御宇勧請、
其後 大同元年(806) 坂上田村将軍東夷征伐の祈願として再興 」 と、書かれているが、
今は社殿も小さく、境内も狭くなった。
坂上田村麻呂の戦勝を祝ったのが始めというお太鼓祭りは有名である。 」
少し歩くと、 由比駅の手前の左側に大きな案内板があり、
道上に大きな桜えびのイラストが入った商店街の看板がある。
なお、JRで来て、由比宿だけを見学するのなら、由比駅からより蒲原駅からの方がずーと短い。
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由比駅を過ぎると、道はゆるやかな上り坂になる。
道端に、 さくらえびが干してある。
浜辺は、東名高速道路が走っているため、狭くなり、遠望がきかないが、
昔は、塩釜(海水を煮詰めて塩をとる釜)が、 多くあった所である。
東海道は、 右からきた県道396号線(旧国道1号線)と合流してしまう。
右側の横断歩道橋を渡って、県道の右側へでる。
右下写真は、歩道橋からさった峠方面を撮影したものである。
歩道橋を降りると、その先に右に入る狭い道がある。
そちらに入ると、寺尾集落で、 昔、南方寺という真言宗の寺があったことから地名になった、といわれる。
「 東海道は、海に沿って続いていたのだが、度々の津波に遭い、天和元年(1682)に、 この高台に移ったのである。 」
少し歩くと、寺尾澤橋がある。 平成に造られたのに木目調の欄干なのはうれしい。
その先の中の沢2号橋を渡る。
この辺りの道幅は東海道当時のままで、連子格子戸の古い家が多く残っている。
「
右側の海上山讃徳寺は、地元の長者・河西六郎右衛門が、寛文九年(1669)、
自邸を提供して開基した日蓮宗のお寺である。
境内には、谷口法悦が元禄四年に建立した、大きな題目塔が建っている。 」
ハイカーの数が増えてきた。
五名から六名のグループが多いが、朝、興津駅を出て、さった峠を越えてきた人達だろう。
少し歩くと、右側に国の有形文化財に指定されている旧小池邸がある。
家の前で、数名の女性が休憩をとっていた。
「
甲州武田家家臣が当地に移住し、寺尾村の名主になり、代々小池文左右衛門を名乗ったという家である。
この建物は、明治期に建てられたもので、
町が買い取り、休憩所として公開されているので、自由に入ることができた。 」
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たたきの柱に、 明治政府が慶応年間に出した太政官令が掲示されていた。
右側の一室に、 伊豆で見かける、吊るし雛が、飾られていた。
樹木が手入れされた庭には水琴窟があり、見学者が耳をあてて聴き入っていた。
狭い道に、二階建ての古い家がひしめいていた。
坂は少し急になったが、そのまま歩くと、三叉路でた。
左の道は下って国道へ、 右の道は更に急になって上っていく。
上っていく道が東海道で、高くなったことで、少し展望がひらけてきた。
この辺りは、海に接近しているので、左下に、東海道本線と国道1号線、そして、
海を埋め立てて出来た高速道路が走っているのが見える。
振り返ると、木の間越しに富士山が見えた。
今日歩きだして、はじめての富士山である。
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左に、 「さった峠、2km」 という標識がある。
車が一台通るのがやっとという狭い道を行くと、左側に磯料理と桜えび料理を看板にしている、 「
くらさわや」 があり、窓からの景色も売り物である。
店前には多くの人がたむろして、順番を待っていた。
少し歩くと、右側の崖の上に、八坂神社が祀られている。
歩く道は、まさに、山裾の旧道である。
その先の権現橋には、天狗のタイルがあり、中峯神社の由緒書があった。
中峯神社は、その先の高台にある。
中峯神社の由緒書
「 神社の創建が何時かは安政の津波で資料がなくなったので分らない。
昔は富士浅間大菩薩と呼ばれた、とあるので古い。
安政年間、藤八という村人が亡くなった後、天狗となって、倉沢の火防守護神となったといわれ、
藤沢権現として祀られてきた。
明治維新後、社殿が東西の倉沢の中間にあるため、現社名になった。 」
権現橋の名は、藤沢権現によるのである。
橋を渡ると、西倉沢集落で、古い町並みが残っている。
道の右側の鳥居をくぐり、傾斜のある石段を登っていくと、崖の上に、鞍佐里(くらさり)神社 がある。
「 日本武尊が、 東征の途中で、焼き討ちの野火に遭い、
自らの鞍下(あんか)に居して、神明に念ず、其鞍敵の火矢により、焼け破れ尽くしたことから、
鞍去の名があり、後に倉沢に転訛した、と伝えられる。
鞍佐里神社は、日本武尊が野火にあったさった峠の雲風か、山中あたりに建てられていたものを、
後年に現在地に遍座したものである。 」
拝殿の蟇股には、日本武尊のその様子が見事に彫刻されていた。
神社のある崖と、街道の狭い道の反対にある家並みの先は、傾斜になっているので、
大雨が降るとがけ崩れの心配があるし、海岸の方は高潮の危険もあったので、
江戸時代には神仏にすがるという気持は強かっただろう。
ここからは、駿河湾を前景にした富士山が一望でき、また、下には東海道を歩く旅人が見下ろせた。
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寺澤橋を過ぎると、西倉沢である。
江戸時代、ここは、さった峠の東坂登り口に当る、 間の宿(あいのしゅく)で、
十軒ばかりの休み茶屋があった。 」
左側の連子格子の家は、大名などが休憩する、倉沢間宿本陣(茶屋本陣)だった川島家である。
「 川島家は、慶長年間から天保年間、凡そ二百三十年間、代々、川島勘兵衛を名乗り、 間の宿の貫目改所の中心をなし、西倉沢村名主を務めたという家柄である。 」
小さな橋を越えた左側にある倉がある、連子格子の家は、 明治天皇が休憩した、脇本陣、柏屋だったところである。
少し歩くと三叉路に出るが、道の左側の角に、藤屋がある。
さった峠への東口の麓にある藤屋は、 「望嶽亭」 と呼ばれたのは富士の眺めが良いためで、
江戸〜明治時代にかけては、 脇本陣や茶亭として、多くの文人墨客で賑わった。
案内していただいた女主人の話では、
「 一番奥の建物は二百年以上も前のもので、幕末、官軍に追われた山岡鉄舟が、
この部屋の床から、下に抜ける道を利用し、舟で清水に逃れた。 」 ということだった。
この後、鉄舟は、清水次郎長の助けを得て、西郷隆盛と会見、 江戸無血開城への道が開かれることになる。 まさに日本の歴史を変えた家である。
案内いただいた部屋には、関連の資料が展示されていた。
それより、窓の形がよく、そこからの景色が大変印象に残った。
三叉路に戻る。
ここから、さった峠への本格的な上りが始まる。
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◎ さった峠
三叉路の右側の道は車が一台なんとか通れる程の狭さで、急である。
車はほとんど通らないが、バイクにはかっこうのコースとあって、どんどん登って行く。
道路標識には、 「さった峠1.3km」 とあり、
ここから、 さった峠への本格的な登りが始まる。
標識の先に、 「夢舞台東海道 倉沢 」 の道標がある。
道の右側には、「西倉沢一里塚」 の石柱と説明板がある。
説明板には、「 江戸より四十番目の一里塚で、榎が植えられていた。 」 と、書いてあった。
この登り坂は、先ほどまでの道とは違い、正にハイキングのコースである。
しかし、快晴で、空気が乾燥しているので、それ程苦にならない。
富士山を背にして登っているが、振り返る度に何故か大きくなっていくような気がする。
駿河湾は青々と光り、その先に霞で囲まれた伊豆半島が見える。
少し歩いたところに、 「 ここから三百メートル先、一番の展望。 」 と表示があったので、
道から少しはずれるが、行ってみた。
眼下には自動車が走り、駿河湾と富士山のバランスがよい。
ザックをおろして何枚かの写真を撮った。
「 江戸初期までの東海道は、さった峠の崖下の海岸に波の寄せ返す間合いを見て、
岩伝いに駆け抜ける道のため、親知らず子知らずの難所といわれた。
安政の大地震で地面が隆起して現在の地形になった。
地震のお陰で、現在、 JRや国道1号線が通れるのである (右写真ー下部部分)
東海道は、明暦元年(1655)に、朝鮮使節を迎えるため、さった山の山腹を経て、
外洞(そとぼら)へ至る道が造られた。
大名行列が通るため、道幅は四メートルあった。 」
東海道の難所とされたこの道は、農道として舗装され、
両側は収穫用のモノレールが設置されるミカン畑やビワ畑に変った。
小生は、その中をのんびり歩いていった。
といっても、一里塚から、急激な登り坂が何回かあったが・・・
登り坂がようやく終わると、 「夢舞台東海道 さった峠」 の道標と、昔の石道標が二つ並んで建っていた。
「 昔の石碑の小さな道標には、正面に、「さつたぢぞうミち(地蔵道)」、
右側に、「これより四町」 とあり、 永享元年建立のものである。
大きい石碑は、まん中で折れていて、字が磨耗して判読しずらいが、小さい道標と内容は同じのような気がした。
さった峠のさったとは、ぼさつさったを意味し、それを省略したもので、鎌倉時代に、
漁師の網に掛かって海中から引き上げられた、さった地蔵を山上に祀ったことから、
これまでの岩城山からさった山になった、という。 」
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少し歩くと、三叉路になるが、左側の駐車場へ下り、そこのトイレを利用した。
展望台の眼下には、交通の大動脈が四つ、国道1号線・東名高速道路・東海道本線・東海道新幹線が、
地表から舞い上がるように駿河湾から富士山に向かって伸びている (右写真)
しばしの間、撮影に夢中になった。
少し休憩した後、「東海自然歩道」 の標識に従い、左の小道に入る。
この先はまさに山際の断崖にある細い道である。
百五十メートルほど歩くと、右側の少し小高いところに展望台がある。
説明板
「 江戸時代、山塊が海に接するこのあたりからの眺望は、東に富士の高嶺、南に伊豆の岬、
西に三保の松原、眼下にはアワビを取る海女の姿が楽しめた。 」
展望台を降りた海側に、 「山ノ神」 の石碑がある。
蜀山人の逸話が残っている。
「
享保元年(1801)、蜀山人こと、大田南畝が東海道の旅で、峠にあった茶屋で休息をしたとき、
小さな祠が目に止まり、亭主に尋ねたところ、山の神と返事をした。
蜀山人は、それを聞いて、即興で、 「 山の神 さった峠の風景は 三行半に かきもつくさじ 」 という狂歌を詠んだ。 」
ここから二百三十メートルほど歩くと、少しひらけたところに出る。
黒い大理石に、茶色の石が張られた、 「東海道さった峠」 の石碑がある。
これまで、さった峠の文字は数ヶ所あったが、由比町(合併で静岡市清水区由比)と、清水市興津(合併で静岡市清水区興津)の境であるここが、さった峠なのだろうか?
四阿(あずまや)もあり、小休止ができる。
その近くに、 「牛房坂」の道標があった。
そちらへ向う道は草に覆われていたが、古戦場へ向かう方角だった。
そちらに向わず、海沿いに約五分、三百二十メートル歩くと、 「さった峠清水市指定眺望地点」 と書いた石碑があった。
旧清水市は、合併前に 「夢舞台東海道 さった峠」 という道標も建てていた。
旧清水市と由比町の二つが、さった峠の道標をそれぞれ建てて、こちらが一番と自慢している感じは、子供の喧嘩のようでおかしかった。
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さった峠の道標から少し歩くと、下り坂になり、道が二手に分かれる。
上へ登って行くと、すぐに、 「立ち入り禁止」 の表示があった。
清水市指定眺望地点で、興津地区の建てた看板には、
「 江戸時代の後期、峠を下るところより、内洞へ抜ける道ができ、それを上道といったが、
現在は廃道になっている。 」 とあったが、方角的には、この道が該当する。
左の道を下って行くと、両側が木に覆われた暗い道になった。
自然が作りだした谷のような道で、これでよいのか?と、一瞬不安に駆られた。
それほど長い時間ではなかったが、突然明るいところに出た。
下を見ると墓地がある。
墓地を過ぎると、左側に、さった峠に上る人のための駐車場とトイレがあった。
道の角に、「東海自然歩道」の案内板があり、「さった峠ハイキングコース 全長0.94km、興津駅2.5km」 と表示されていた。
興津へ向かって、下り始めると、道の左に、 「往還道」 という石柱があった。
道の正面には小高い丘があり、農地を造成したような道も出来ていたが、最初の四差路で右折し、長山平に向かった。
舗装されていない道の左側に、秋葉山常夜燈があり、文政二年と刻まれている。
ここから先の道筋は判然としない。
左下に家並みがあったので、畑を突っ切り行ってみると行き止りで、慌てて引きかえした。
やっと舗装された道に出たので、ここを左折し、両脇が家が並ぶ中を歩く。
このあたりは興津東町で、少し歩くと、左側に、「瑞泉寺」の標柱と常夜燈が建っていた。
瑞泉寺には寄らず、そのまま進むと、右側の車道と合流した。
道の角に、「JR興津駅とさった峠方面」の矢印があった。
道を左折して、川沿いの道を歩くと、左側に入る道に、「さった峠の矢印」があった。
この道は瑞泉寺の前に続いていて、この道の方が近道であることを後日知った。
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左側に東町公民館があるが、右側の川に出ると緑地が広がり、興津東町公園になっている。
そこに、 「川越遺跡」 の案内板があるが、江戸時代の渡し場の跡である。
「 興津川は徒歩渡しだったので、川会所で越し札を買って、
蓮台や人足の肩車で、川を渡った。
その様子は、広重の興津宿の浮世絵で、確認することができる。 」
現在は川渡しはないので、先程の道に戻る。
道の左側に、 「牛頭観世音菩薩」 の石碑を祀った小さな社がある。
JR東海道線のガードをくぐると、県道に合流。
駐車場から、ここまで、1.2kmほどの距離だった。
ここを右折すると、興津川に架かる橋があるので、川渡りに代えて、
歩道がないこの橋を渡る。 ここから、興津中町である。
少し歩くと、国道1号が左から接近してきて、合流する。
中央に上っていく道は、国道1号バイパスである。
右側の国道1号を歩くと、興津中町交差点に出た。
ここで、身延山に向う国道52号線は右へ分かれる。
交差点を渡ると、その先の右側に、宗像神社の鳥居がある。
入って行くと、小学校の先に宗像神社がある。、
神社由来
「 祭神は、奥津島比命
(おくつしまひめのみこと)、狭依姫命(さぎりひめのみこと)、多岐津比売命(たきつひめのみこと)の三女神である。
江戸時代には、宗形弁才天、三女の宮などと称していたが、明治元年に現社名になった。
古は、沖に出た漁師の目印になったという、 女体の森 と、呼ばれる広大な森に覆われていたが、清水興津小学校のグランドになるなど、社域はかなり縮小した。
興津という名は、祭神の奥津島比命から付いたと伝えられる。 」
街道に戻り、少し歩くと、静岡信金の角を右に入る道がある。
この道は、江戸時代の脇甲州往還(身延道の正式名)で、ここは身延道の追分にあたる。
道の角に、元禄六年(1693)建立の 「身延道」 と書かれた石碑が建っている。
「 江戸時代には、宿場の人々がここを管理し、常夜燈に灯をともして、
旅人の安全を守っていた、という。
そのものと同じか分らないが、すこし変った常夜燈もあった。
ここは、明治時代まであった石塔寺の跡で、石塔寺無縁供養塔や承応三年(1654)建立の南無
妙法蓮華経と刻まれた石碑があった。 」
三メートルある題目碑は、 「髭題目」 と呼ばれる変った字体で書かれている。
興津駅前交差点手前の民家の一角に、 「一里塚跡」 の石碑があった。
小さいので、注意しないと、気が付かずに通り過ぎてしまう。
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◎ 興津宿
少し歩くと、右側の空地の一角に、静岡県が建てた、 「夢舞台東海道 興津宿」 の道標が建っている。
「
江戸時代天保十四年に編纂された東海道宿村大概帳によると、
興津宿は、本陣が二軒、脇本陣二軒、旅籠が三十四軒、宿場の家数が三百十六軒で、千六百六十八人の人が住んでいた。
さった峠を控えた宿場として、隣の江尻宿より賑わいをみせていた、というが、
国道1号に沿って、開発が進んだ結果、古い建物はほとんど残っていない。
江戸時代には、この空地に、問屋場があったようである。 」
少し歩いた右側の民家の前に、「興津宿東本陣跡」 の石柱が建っている。
東本陣は、市川新左衛門が勤めた。
道の反対側に樹木が茂り、「ギャラリー水口屋」 の看板があり、
一見料亭風の建物が建っている。
入口に、「一碧楼水口屋跡」 と、 「興津宿脇本陣跡」 の石柱が建っている。
「 この屋敷は江戸時代、興津宿の脇本陣だった水口屋の跡である。
明治の東海道の廃止で、各地の本陣や脇本陣が廃業する中、水口屋は旅館に変わり、
興津が明治の元勲の避暑地になると、西園寺公望・伊藤博文などの日本の政財界の大物が、
多く宿泊し、また、作家も宿泊して作品を書いた、という老舗であった。
廃業後の現在は、その一部をギャラリーとして開放し、
天皇陛下が宿泊された時使用された食器類などが展示されている(無料、10時〜16時、月休) 」
少し先の右側の駐車場の一角に、 「西本陣跡」 の標柱が建っている。
興津宿西本陣は、手塚十右衛門が勤めていた。
少し歩くと、右に入る細い道があり、入口に、 「波切り不動尊」 の表示があり、
JRの踏切を越えて五分とあった。
山の中腹で、三保や伊豆半島の眺望がよいとあり、おきつ公園もある。
右にカーブするところに、清見寺交差点がある。
交差点を左折すると、興津埠頭である。
かっては、清見潟、 あるいは、 清見ケ崎、と呼ばれた海岸だったが、
美しかった砂浜は埋められ、近代的な港湾施設に、変ってしまっている。
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交叉点を過ぎると、「夢舞台東海道 興津宿」 の大きな説明板があり、この奥の小高いところに、清見寺(せいけんじ)という古刹があり、山門の前に、「清見関旧跡」 の碑が建っている。
説明板
「 興津宿は、古くから交通の要衝として知られ、平安時代にはすでに清見ヶ関という関所が
設けられ、更級日記に、「清見ヶ関は片つ方は海なるに・・・・ 」 と、
関所の姿が描かれていたり、十六夜日記や東関紀行などにも登場する。
清見関は、平安時代白鳳年間に築かれた関所だが、永禄年間に廃止されたため、
江戸時代の東海道名所記には、 「 清見が関、風景まことにたぐひなく、眺望ひとへにあまりあり(中略) 此関いにしへ眺望の所とて名を得たりけるが、今は関の戸も跡たへててなし 」 と、記されている。
その展望も埋めたてられて、埠頭の先に海は遠のいた。
清見寺は、清見関が設けられた際に、その守護として仏堂が建てられたのが始まりで、
足利尊氏の帰依を受け、室町時代には、七堂伽藍が造営されたが、戦国時代の兵火により燃失。
その後、徳川幕府により、再建されたものである。 」
慶安四年(1651)建立の山門をくぐり、鉄道線路でへだてられた参道を行くと、 目の前をJR東海道本線の列車が通り過ぎたので、驚いた。
「説明板」
「 清見寺の玄関は元和二年(1618)、仏殿は天保十三年(1844)、大方丈は文化十一年(1862)など、江戸時代に建てられたものが多い。
文久三年(1862)に建立された鐘楼には、正和三年(1314)に鋳造され、
謡曲・三井寺に登場する梵鐘が吊り下げられているが、豊臣秀吉が、韮山城攻略の際、
陣鐘として使用した、と伝わる。
境内左手に、「里生塔旧跡」 の碑がある。
これは、足利尊氏が康永四年(1345)、戦没者の慰霊の
ため、全国六十六ケ所に建立を発願した利生塔の跡である。
傾斜したところに、五百羅漢の石仏が、いろいろな表情をして、並んでいる。
高山樗牛の清見寺鐘声文塚などの文学に関するものもあった。 」
この寺は、徳川家康が学んだところといわれる。
家康が好んだ池泉庭園(国名勝)や、家康が接ぎ木したという、 臥龍梅がある。
その他にも、琉球王子の墓、咸臨丸記念碑など、興味をそそられるものが多いので、
時間さえあればゆっくり見学したいところである。
街道を進むと、左側に,、「座魚荘」 と表示された建物がある。
「説明板」
座魚荘は、明治の元勲 ・ 西園寺公望が、大正八年に建設し、晩年を暮らした別邸であるが、
本物は、愛知県犬山市の明治村に移築して保存されている。
この建物は、平成四年、明治村の図面を基に、復元したものである。
木造二階建ての京風数寄屋造りで、
床面積は、約三百平米である。 」
これで、興津宿は終わる。
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訪問日 平成十九年(2007)四月二十九日