名所訪問

「  東海道 由比宿 」


かうんたぁ。


蒲原宿と由比宿とは、江戸時代に、つながっていたようで、 現在も、古い家が一部ではあるが、残っている。 
由比宿 (油比とも書く) は、 天保十二年(1841)の東海道宿村大概帳によると、家数百六十軒、人口は七百十三人、本陣一軒、脇本陣一軒、旅籠が三十二軒と、東海道五十三次の中で、規模の小さな宿場の一つだったが、 さった峠をひかえた宿場なので、賑わっていた、という。 
現在の由比は、さくらえびと広重の浮世絵を前面に出して、観光の目玉にしている。 


JR新蒲原駅から歩き始める。
駅前には、さくらえび漁船が置かれていた。

駅の北口を西に進み、善福寺入口交叉点で、右折し北に進む。
次の信号交叉点の左右の道が東海道である。
交叉点を左折し、東海道に入る。
左側に、磯部家がある。
明治四十二年(1909)に建てられた建物は、総けやき造りという豪勢さで、二階のガラスは手作りガラス、という。
国産のガラスは、明治四十年に始まったというから、この建物は、当時一番お金がかかった建物だったのではないだろうか?? 

右側に蒲原郵便局があり、その先の鳥居の先には、若宮神社がある。 

「 徳川家康が、織田信長を接待するため御殿を建てた場所といわれるが、確証はないようである。 
ただ、道の反対の狭い道は、御殿道と呼ばれているようだった。 
江戸時代には、鳥居の脇に、高札場があったようである。 」

その先の右側に、洋風の建物があり、旧五十嵐歯科医院とある。

説明板
「 建物は、町家だったのを大正時代に五十嵐氏が歯科医院にするため、 洋風に増改築した擬洋風建築と呼ばれるもので、国の登録文化財に指定されている。
開館時間は、三月〜十一月 十時〜十六時、十二月〜二月 十時〜十五時、
休館日は、月と火曜日、お盆(8/7〜8/16)、年末年始(12/18〜1/5)である。 」

さくらえび漁船 x 磯部家 x 若宮神社 x 旧五十嵐歯科医院
さくらえび漁船
磯部家
若宮神社鳥居
旧五十嵐歯科医院

その先,、左側にある二階建ての家は、蔀戸がある志田家住宅である。

説明板
「 志田家住宅は、安政の大地震後に再建されたものだが、東側の二階建ての部分は、 通り十間一列型と呼ばれる町家の典型的な建物で、国の登録文化財である。 
蔀(しとみ)戸のある家である。  蔀戸は雨戸の一種であるが、戸を横に入れたもので、昼間は、金具で上から持ち上げ、 日除けとして使えるものである。 」

その先の右側に、格子の美しい家・増田家がある。
蒲原に、このような多種多彩の家があることに、正直驚いた。 

東海道は、この先、四百メートルほど行き、西町で南へ折れて行く。

「 長榮寺は、直角に曲がった枡形の角にあり、その手前には、「南無妙法蓮華経法界」   と、書かれた石碑があり、その奥に、妙隆寺、という日蓮宗のお寺がある。 」

枡形を折れ、百メートル程歩くと、県道396号と交差する交叉点に出る。 
道の右側に、「夢舞台東海道 蒲原宿西木戸跡」 の道標と、「西木戸跡」の石柱があり、 大きな蒲原宿案内板が建っている。

「 江戸時代は、このあたりに西の木戸があり、蒲原宿の京方の入口として、 番人が監視していた。
この付近には、茄子屋という茶屋があり、 「茄子屋の辻」と呼ばれていた。
槍の名人と薩摩藩の大名行列との喧嘩は有名である。 」

西の木戸は、蒲原宿の京側の入口で、西の木戸の隣には、江戸時代、浦高札場というのがあった。

「 蒲原は、蒲原の津(港)を経由する海上交通がさかんだったので、 浦高札場に、海船や川舟など船舶一般の取締りのお触れ書きを掲示したのである。 」

道の反対側の 「古屋敷跡」 の石柱は、元禄以前に蒲原宿だったことを示している。 
西の木戸の隣に、和歌宮神社の鳥居があり、奉納柱には和歌宮神社、燈籠には若宮浅間御廣前と刻まれている。 
蒲原宿はこれで終る。 

東海道は、ここから県道396号(旧国道1号)で、西に向かって出発した。 
しばらく歩くと、向田川橋を渡る。 
橋のイラストはさくらえび、また、歩道のタイルにも富士山と波に中のさくらえびが描かれている。

蔀戸のある家 x 増田家 x 西木戸跡の道標 x タイル
志田家住宅
増田家
西木戸跡
タイル

橋を渡ると、左側に南国情緒を感じさせるやしの木(?)が見えた。 
奥の建物は、静岡市蒲原文化センターと、表示されているが、合併前は、蒲原町役場だった。 
平成の市町村合併により、地名も静岡市清水区蒲原○○に変ったのである。 

蒲原宿と由比宿の間は、江戸時代でも町続きだった、といわれる。 
今でも古い家が多く残っているが、その中から、蔀戸と立派な連子格子のある家を見つけた。
連子格子が一階だけでなく、二階にあり特にきめが細かいようで、すばらしい。 

「 蔀戸(しとみど)は、障子が入った二つの戸のことである。 
一見すると、一枚の戸のように見えるが、小さな戸を横向きにして入れ、その上に重ねて次の戸を入れるものである。
従って、写真の蔀戸は、上二枚が障子戸、下一枚が板戸で構成されていることになる。
両脇に立てられた通柱(とおりはしら)には、戸を通す溝が掘られていて、 戸を横にして上から入れるようになっている。 
我々の家の戸は縦に並べて使うので、発想が違う。 
昼間は、戸を入れず、開け放しにして、店先にしたり、障子戸を入れて明るくなるようにした。 
夜はぶっそうだから、板戸に替えて使用する。  使用しない戸は天井に跳ね上げるなどの格納の工夫もあった。  」

東海道(県道396号)は、国道1号を避けて走る車が徐々に増えてきた。
左側に大聖不動明王の幟があるのは神原不動尊 一乗院 である。
役行者より伝わる千三百年の歴史をもつ修験道の真言宗醍醐派のお寺である。 

信号のある三叉路には、 「左へ0.9km 国道1号」 の表示がある。 
その先の左手に、JR蒲原駅がある。
ここから由比宿までは2.1qの距離である。 

蔀戸と連子格子のある家 x 蔀戸 x 県道396号 x JR蒲原駅
蔀戸と連子格子のある家
蔀戸
県道396号
JR蒲原駅

駅を過ぎると、古い家は少しづつ減り、残っている家も、蒲原宿やその周辺の方が手入れがよい。 
その代わり、 「蒲原名物」 と書いた桜えびを売る店が多くなった。

道路には車が増え、ハイカーの数も徐々に増えてきた。 
蒲原駅から七百メートル歩くと、東名高速道路のガードがある。
そのの下には川が流れていて、道はそれに沿ってあるので、高速道路をくぐって歩いて行く。 
百メートル程歩くと、三叉路の神沢交差点である。 

「 道の真中に、大きな道標があり、 「 由比本陣公園、広重美術館は右 」 と、 大きく表示されているが、これは車両用である。  その下に、よく見ないと分らない位の小さな文字で、 「 由比宿は左の矢印 」 がある。 」

東海道は、県道(旧国道1号線)と別れて、左側の道に入る。
百メートル歩くと、神沢川橋 という小さな橋がある。 
ここまでが旧蒲原町(現在は静岡市清水区蒲原)である。 
橋を渡ると、旧由比町(現在は静岡市清水区由比)である。 

神沢川橋の上から見えた大きな煙突には、 「清酒正雪 神沢川酒造場 」と書かれ、 橋を渡ると、バス停の名が神沢川酒造場前とあった。
清酒正雪は、富士山の伏流水を使った地酒であろう。 

道の左側に、 「夢舞台東海道 由比」 の道標があり、 「由比宿まで三町」 とあった。
あと三百三十メートル程歩けば由比宿に到着である。 

神沢川酒造場の先は宿場特有の枡形になっている。
道は右へ曲がり、次いて、左へ曲がる。
曲がった道の左側に、 「水神」 の石碑があった。 
更に、十メートルくらい先の右側には小さな社があり、小さな二体の石仏が祀られていた。 
由比も、蒲原と同様、天災が多かったのであろうか。 

桜えびを売る店 x 三叉路・神沢交差点 x 神沢川橋 x カーブ(枡形跡)
桜えびを売る店
神沢交差点
神沢川橋
カーブ(枡形跡)

右側の民家の一角の目立たないところに、 「由比一里塚跡」 の石柱が建っていた。
また、左側の民家の少し奥まったところに、 「由比一里塚」 の説明板がある。 

説明板「由比一里塚」
「 由比新町一里塚は、江戸から三十九番目の一里塚で、松が植えられていたが、  寛文年間(1661〜1671)に、山側の松が枯れたので、 清心 という僧侶が、 ここに十王堂を建てて、  延命寺の境外寺とした。 
十王堂は、明治の廃仏毀釈で廃寺になったが、  祀られていた閻魔像は延命寺に移されて、お堂に安置されている。 
なお、延命寺は、由比本陣公園の先を右側に入ってところにある。 」  

五十メートルほど歩くと、右側の家と左側の家の並びがおかしく、道が左側にずれている。 

「   江戸時代には、参勤交代の大名などが泊まる宿場を外部からの侵入を防ぐため、  真っ直ぐ入れないように、宿場の入口に、鉤型の通路を造った。
この曲がった道を鉤型とか、枡形と呼ぶが、遠州や尾張では、曲尺手 と、呼んでいた。 」

枡形を通り抜けると、江戸側の出入口の東木戸があり、ここから由比宿である。 
枡形の左側にある連子格子の家は志田家である。
江戸時代には、「こめや」 という屋号で、商売を営んでいた家である。

少し歩くと、右側に、真っ黒な大変存在感のある、大きな木造の倉庫がある。 
隣の白塀に、「御七里役所之趾」と「静岡民俗の会」の黒い大理石プレートが貼られている。
「 この新緑に囲まれた家は、 紀州藩の七里役所跡である。 」 と、書かれていて、詳細な解説がある。

紀州藩・七里役所
「 江戸時代、西国の大名には、江戸屋敷と領国の居城との連絡に、七里飛脚 という、 直属の通信機関を持つ者があった。 
此処は紀州徳川家の七里飛脚の役所跡である。 
同家では、江戸・和歌山間−五八四キロ−に、約七里 − 二八キロ − 毎の宿場に中継ぎ役所を置き、 五人一組の飛脚を配置した。 主役をお七里役、飛脚をお七里衆といった。 
これには剣道、弁舌にすぐれたお中間が選ばれ、昇り竜・下り竜の模様の伊達半天を着て、  「七里飛脚」 の看板を持ち、腰に刀と十手を差し、御三家の威光を示しながら往来した。 
普通便は毎月三回、江戸は五の日、和歌山は十の日に出発、道中八日を要した。 特急便は四日足らずで到着した。 
幕末の古文書に中村久太夫役所、中村八太夫役所などとあるのは、 油比駅における紀州家お七里役所のことである。 
この裏手に大正末年までお七里役衆の長屋があった。 
   昭和四十六年春                         静岡・民俗の会     」

由比一里塚跡 x 枡形跡 x 連子格子の家・志田家 x 紀州藩七里役所跡
由比一里塚跡
枡形跡
志田家住宅
紀州藩七里役所跡

少し歩くと、右側に由比本陣公園があった。
江戸時代の本陣の門を復元したと思われる表門の脇には、 「明治天皇由比御小休所」の石碑や、常夜燈が建っている。

「  本陣公園は、昔の本陣の敷地千三百坪をそのまま利用していて、右側に休憩施設、 正面の芝生の先には、東海道広重美術館と、明治天皇が小休止した離れを忠実に復元した御幸亭が並ぶ。 
左側の隅には、物見櫓が建っている。 」

広重美術館に入った。

「  東海道広重美術館は、浮世絵師 ・ 歌川(安藤)広重の作品を中心に収、集、展示している美術館である。 
東海道五十三次の全宿の絵が見られ、更に、 貴重な 隷書東海道 と呼ばれる浮世絵も、 数枚見ることができる。 
隷書東海道は、 丸清 という版元から、嘉永年間(1848・53)に刊行された、五十五枚の揃物で、 外題の書体からその名がある。 
葉書位の小さなものだったが、画面が生き生きしていて、今刷られたばかりという出来栄えだった。 」

幸亭への入場料は、抹茶付きで五百円で、広重美術館と同料金である。
混雑していたので、入館せず、本陣公園の向かいの正雪紺屋に入った。 
江戸時代初期から四百年近く続く染物屋で、帳場や藍瓶等が残っていた。 

家の左側にある説明文
「 この家が由井正雪の生家といわれ、そのため、正雪紺屋という名が付いた。
由井正雪は、由比(駿府宮ヶ崎町という説もある) の紺屋に生まれ。
江戸に出て、楠木流の軍学を学び、神田連雀町に軍学塾を開き、多くの門下生を集めた。 
慶安四年(1651)、三代将軍・家光没後の混乱につけこんで、叛乱を起こそうとしたが失敗し、 駿河城下で捕り物に囲まれて自害した。 」

紺屋の右隣の民家の塀に、 「脇本陣 温飩屋(うんどんや)」 の表示がある。

「  ここは、江戸後期から幕末まで、脇本陣を務めた平野家である。
東海道宿村大概帳には、 「 脇本陣一軒、凡そ建坪九拾坪、門構え、玄関付き 」 と書かれている。
明治に入り、郵便局を開始し、隣の黒塀に覆われた洋館の家は、明治時代に建てられた郵便局舎である。
現在は、局長の子孫(平野氏)の自宅になっている。 」

その先に、 「由比宿おもしろ宿場」があり、その二階の 「レストラン海の庭」 で、 昼食をとった。
中門したのは、 この地でないと食べられない、生さくらえび、さくらえびのかき揚げ、さくらえびの吸い物など、 さくらえびばかりの桜えび御膳(1680円)である。
混んでいたこともあり、だいぶ待たされた後、食事開始となったが、まさに、その名の通り、 さくらえびオンパレードで、満足した。 

由比本陣公園 x 広重美術館 x 正雪紺屋 x 脇本陣温飩屋跡 x 桜えび御膳
由比本陣公園入口
広重美術館
正雪紺屋
脇本陣温飩屋跡
桜えび御膳

二階から、駿河湾を一望できる展望になっていたので、これから向かうさった峠の地形も分った。 
時計を見ると、一時間近く経過していたが、結果的にはこの後への十分な休息となった。 

西に向かうと、右側の民家の塀に、 「脇本陣 羽根ノ屋」 の表示がある。

「  由比の脇本陣は一軒だけだが、途中で代わっている。 
最初営んでいた徳田屋が、江戸後期寛政年間ごろ、この羽根ノ屋に代わった。
羽根ノ屋は、江尻宿の羽根ノ屋の分家で、寛政五年(1793)に幕府に願い出たことが資料に残っている、という。
その後、脇本陣は、前述の温飩屋に代わり、明治を迎えている。  」

その先のお店の脇に、「加宿問屋場跡」 の標板がある。

「  幕府は、東海道の各宿場に、問屋場を置き、駄馬壱百匹、人足壱百人の常備させた。
由比宿は、宿場の規模が小さいため負担しきれず、周りの十一の村(北田、町屋原、今宿など)に、  加宿問屋を結成させて、一月交代で負担させたのである。 
それに似たものに、助郷制度があるが、これは、臨時に人馬が足りなくなったとき、 周囲の村から調達するものである。 」

本陣公園から二百メートルくらいで、三叉路に出る。

「  江戸時代にはまっすぐな道はなく、枡形に曲がっていて、由比宿の西木戸があったとある。 」

その位置が分らないので、左側の道を行くと、由比川に出た。 
左側の入上地蔵堂には、多くの石仏が祀られていたが、水難者を祀った川手地蔵である。 
また、矢箭(さき)八幡宮もあった。 
川の近くに西木戸があり、高札場があったというが、このあたりだろうか?? 

「 江戸時代は、 西木戸を出ると、川原に下り、仮の板橋を渡っていった。
明治八年に仮橋のところに木橋が架かった。 
その後、昭和八年に、現在の場所にコンクリートの橋が架かった。 」

橋の欄干に、安藤広重の浮世絵のイラストがあり、当時の歩行渡りの様子が描かれている。
ここで、全長五町半(約600m)と短い、由比宿は終わる。 

さった峠方面 x 脇本陣 羽根ノ屋 x 加宿問屋場跡 x 三叉路(枡形跡) x 浮世絵のイラスト
さった峠方面
脇本陣 羽根ノ屋跡
加宿問屋場跡
三叉路(枡形跡)
浮世絵のイラスト

訪問日     平成十九年(2007)四月二十九日



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