吉原宿から富士川を渡るあたりは、富士山が右手に大きく見えて、美しい。
江戸時代の富士川は、船渡しで、両岸の岩淵村と岩本村を結んでいた。
水神の森は、富士川渡船場の下船居にあり、船場と呼ばれていたところで、この森には、航海の安全を祈願し、水神社が祀られた。
東岸の渡船場は、松岡地内の一番出しから、川下二十町の間で、
上船居・中船居・下船居の三ヶ所があった。
出発地は、当日の川瀬の状態で使い分けられ、
そこから、上・中・下の往還が通じていた。
身延線柚木駅で下車する。 このあたりは、富士市柚木である。
駅の北側に、県道396号が通っているが、これが東海道である。
駅の東方に柚の木バス停があり、その手前に天白神社がある。
境内には、馬頭観音と、宝暦十二年の銘がある石盤があった。
神社の石碑の文面
「 太古の柚木村は、草深いところだったが、長さ一寸八分の米が三粒降ったので、
一社を設けて、天白神社と名付けた。
天正十三年に本社を造営、慶長十八年、寛永十九年、寛文六年に修復した。 」
鳥居の前から、来た道を引き返し、JR身延線の高架橋を越えると、 右手に静岡県富士自動車学校があり、正面に電線もなかったので、雪をかぶった富士山が写せた。
その先の橋下交差点は六差路であるが、ここはやや左にカーブする正面の道(県道396号)を行く。
次の信号交差点の右側に、冨士市が建てた、「道標と常夜燈」 の説明板がある。
「
秋葉山常夜燈は、慶応元年(1865)の建立で、総高は一メートル四十三センチ。
その傍に、左東海道の道標があった。 」
ここには、常夜燈と、「左東海道」と刻まれた道標があった。
東海道は右側の細い道に入る。
この道に入り、一時停止の交差点を越えると、小川が流れている橋を渡った交差点で、左の道を行く 。
県道を左に見ながら、歩いていくと、左手にコンビニとレストランが見え、横断歩道橋があるところで
さっきの県道と合流した。
この後は、県道をそのまま歩く。
五百メートルほど歩くと、左側に、 「明治天皇御小休所阯」 の石柱が建っていた。
隣の小さな石碑は、その時の経緯を記したもののようであるが、残念ながら、読み取れない。
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少し行くと、富士川の手前の右手にこんもりとした森が見える。
「
これが、水神の森である。
江戸時代の富士川は、船渡しで、両岸の岩淵村と岩本村を結んでいた。
水神の森は、
富士川渡船場の下船居にあり、船場と呼ばれていたところである。
この森には、航海の安全を祈願し、水神社が祀られた。 」
境内に入ると、鳥居の右側に、「富士山道」 、「富士川渡船場跡」 の石碑がある。
参道には、古い常夜燈が建っている。
参道を進むと、赤と白に塗られたコンクリート造りの水神社の社殿があった。
境内の左側には、「文政三年の両舟場」 刻まれた、馬頭観音が祀られていて、 その手前の常夜燈には、「岩本村六番船方講中」 と刻まれ、その下に、多くの名前が書かれている。
説明板
「
渡船業務は、最初は、京都側の岩淵村がを担当していたが、交通量の増大に伴い、寛永十年(1633)以降は、
対岸の岩本村も、三分の一を分担するようになった。
東岸の渡船場は、松岡地内の一番出しから、川下二十町の間で、
上船居・中船居・下船居の三ヶ所があり、川瀬の状態で使い分け、
そこから、上・中・下の往還が通じていた。 」
富士川に向って歩き始めると、冨士市が建てた道標があり、 「、護所神社と雁堤 → 東方向」 とある。
水神社まで歩いてきた途中に、右手に見えていた土手が雁堤である。
神社の手前まで戻り、土手に向って歩いていった。
土手に上ると、散歩道になっていて、正面には、箱根連山が一望できた。
左手に富士山の雄大な風景があるので、写真に撮っておこうと、移動しながら、写した。
前方からきた散歩客から、雁堤について聞いてみた。
彼の話によると、「 雁堤は、 かりがねつつみ と呼ぶのだそうで、
実相寺の上にある岩本山公園から見ると、雁が連なって飛んでいるように見えるとのこと。
実相寺まではかなりの距離があるので、行くのはやめた。
これから、いよいよ、富士川を渡る。 現在は、富士川橋を歩いて、渡る。
「 江戸時代に、舟渡りに用いた船は、定渡船・高瀬船・助役船があり、通常の定渡船には、人を三十人、牛馬を四疋乗せ、船頭が五人ついた、という。 」
橋を渡ったところで、河原降り、川に沿って上流に上る。
川の上の車道に、 常夜燈と富士川を開削した 「角倉了以」 の石碑が建っている。
「
東海道名所図会にも記されているが、富士川は、岩が多く、溶岩の露頭は、地盤堅固で、
舟が通るのに適さなかった。
江戸時代の豪商で、土木事業家だった、角倉了以は、川の岩石を砕き、川底をならして、
平底の高瀬舟が通れるようにした、という。 」
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東海道は、常夜燈の前の横断歩道を渡り、正面の坂道を登る。
右へ左へとうねりながら,少しずつ道は広くなっていく。
さっき渡った橋の上に出る
この交差点で、右へ曲がり、少し登ると、右手に清源院があるが、ここは左へ。
その先の民家の塀前に、秋葉山常夜燈が建っていた。
道は右へ、そして、左に曲がると、右側に、高さ十メートルの大きな槙が生え、
黒塗りの塀のある屋敷が現れた。
門の下の方に、 「小休本陣常盤邸」 と書かれた、教育委員会の説明板がある。
説明板
「 東海道の間宿・岩淵には、渡船準備のため、大名が一時休止できる施設として、
小休本陣と脇本陣が各一軒設けられた。
常盤家は、岩渕村富士川渡船の名主で、小休本陣を務めた家である。
現在の建物は、安政の大地震後、に建てられたものである。 」
建物の脇に、秋葉山常夜燈が建っていた。
用水の側溝の蓋には、「東海道ルネサンス」 と書いていた。
この先の交差点で、左側からの県道188号と合流し、直進する。
その先の右側に、赤いエプロンをした大きな地蔵尊があり、その先に新豊院の山門がある。
この寺は、鎌倉時代の創建で、山門は江戸時代のもの、という。
右側には、また、秋葉山常夜燈があった。
その先は突き当たり、右にク大きくカーブする。
この角に、江戸から三十七番目の岩淵の一里塚が、榎の大木とともに残っている。
「
右側の榎の木は、今まで見たものよりも巨大である。
左側の榎の木は、昭和四十二年に枯死したので、四十五年に植えられたものである。 」
木の下には、小さな石仏と、 「東海道夢舞台 富士川町岩淵」 の道標が建っている。
現在の地名は、富士市岩淵である。
説明板
「 ここが岩渕村と中之郷村の境で、岩淵名産の栗の粉餅を売る茶屋が並んでいた。 」
その奥には、富士山が見えた。
道に沿って進むと、右側に富士川第一小学校がある。
小学校の先は左にカーブする。
その先、道なりに進むと、富士川駅入口交叉点に出る。
東海道線の富士川駅は、もとは岩渕駅といっていた。
今回の富士川の舟渡の確認する旅はここで終了である。
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訪問日 平成十九年(2007)六月四日