名所訪問

「  東海道 吉原宿 」


かうんたぁ。


江戸側から 吉原宿に入る手前に、東海道で冨士が左に見える数少ない、左冨士という名所がある。 
吉原宿は、天保十四年の宿村大概帳によると、宿内人口が、二千八百三十二人、家数六百五十三軒で、 本陣が二軒、脇本陣が三軒、旅籠が六十軒あった。
吉原宿は、冨士川の舟渡りとさった峠を越える手前の宿場だったことで賑わったという。


JR東田子浦駅前から歩き始める。
東田子浦駅の南口に出たが、そこは店も駐車場もない、寂しい駅前である。
その先に、田子ノ浦駅前交叉点があり、左右の道が東海道(県道380号)である。
その手前の左側に、六王子神社がある。

「 この先の浮島沼に身を投げてしまった六人の少女が、神社の祭神である。
昔、沼川・和田川と、潤井川が合流する淵(三股)に、龍が住んでいて、毎年の祭りに、 少女を生贄にするしきたりがあった。 
四百年前、関東の巫女が京に向かう途中、生贄の籤を一番若いおあじが引いてしまった。 
残りの六人は、京からの帰途、柏原あたりにきたとき、悲しみの余り、世をはかなんで、 全員が浮島沼に身を投げてしまった。 
彼女達の霊を祀ったのがこの神社である。 」

六王子神社の近くに、「海抜九メートル六十センチ」 の表示があったので、 東海地震で高浪が起きたら危ないなあ、と思ったが、地元の人はどう思っているのだろうか?? 
そこから二百メートル歩くと、江戸時代には柏原の立場茶屋があった。
道の右側には、柏屋などの商店がある。
道の反対の駐車場の一角に、 「見て歩こう冨士市の東海道」 と表示された標柱があり、  「間の宿 柏原本陣跡」 と書かれている。

「  この地は、鰻がとれ、蒲焼きが有名だったといわれる。
十返舎一九の東海道中膝栗毛に、
「 新田といへる建場にいたる。 ・・・ ここはうなぎの名物にて、家ごとにあふぎたつる
かば焼きの匂いにふたりは鼻のさきをひこつかせて、 」 と書き、下記の狂歌を載せている。 
  「 蒲焼の にほひを嗅ぐも うとましや こちらふたりは うなんぎのたび 」 
なお、新田というのは、沼田新田のことと思われる。 」

少し先の柏原交差点の手前右側に、立派な門構えの立円寺がある。
門前の題目碑には、常八、半蔵などの名前と、金二朱など寄進額が書いてあった。 

東田子浦駅 x 六王子神社 x 柏原本陣跡 x 立円寺
東田子浦駅
六王子神社
柏原本陣跡
立円寺

山門をくぐると、真っ赤な錨が目に入ってくる。

「 昭和五十四年十月十九日、清水港から救援米を載せて出港したゲラテック号は、  台風に遭遇し、この寺の南方にある柏原海岸に打ち上げられ、インドネシア人船員が二人亡くなった。 
彼らの霊を慰めるため慰霊碑が建てられ、その横にゲラテック号の錨を設置したものである。 」 

隣に三角形の石碑があり、石碑の裏には、 「  予の性、山を愛し、また山を書いて喜ぶ。
山は冨士より奇なるはなし。 冨士の勝、この間に望むにしくはなし(以下略) 」 と、いうことが漢文で書かれている。 
尾張藩の侍医・柴田景浩が、文化五年(1808)、江戸に下る途中、立円寺に滞在した時に 冨士を賞して、碑を建てたもので、「望嶽碑」 と呼ばれるものである。

そこから三百メートルほど先に、昭和放水路にかかる広沼橋がある。
橋の下流には水門が見え、放水路の両脇には、ツツジ、松、ツゲ、槙などが植えられていた。 

橋を渡った左側に、 「見て歩こう冨士市の東海道」  の標柱があり、「増田平四郎の像」とある。
保育園の駐車場の左に、増田平四郎像と、「開墾増田平四郎翁」 と書かれた石碑がある。

「  増田平四郎は、幕末の飢饉や水害に苦しむ村民を見て救済を決意し、  東海道の北側に広がる浮島沼の干拓を計画した。
幕府から干拓事業の許可がおりず、立案から二十七年目の慶応元年(1867)に、工事に着工し、 二年後の明治弐年(1869)、計画から三十年を要して、ついに大排水路を完成させた。
無情にも、その年の八月の高波により、全て破壊されてしまった。 
平四郎の努力は報われなかったが、彼の事業は後世に受け継がれ、大排水路の場所に、 昭和放水路が築かれ、浮島沼も完全に干拓されて、田畑化された。 」

この辺りの海が、有名な田子の浦である。 
平安時代から、ここからの冨士を多くの歌人が歌に詠んだ。
当日は雲が覆い頂部が見えなかった。

ゲラテック号慰霊碑 x 望嶽碑 x 増田平四郎像 x 冨士山
ゲラテック号慰霊碑
望嶽碑
増田平四郎像
田子の浦からの冨士山

道の右側に、田中町公会堂があり、その隣に、白い鳥居の米之宮神社がある。
その先の横断歩道橋には、「四百メートル先で、県道380号と県道170号に分かれる表示」 がある。 

少し先の愛鷹神社の鳥居の前に、わらと板で作った小さな社のようなものが祀られていた。
これはどういうものだろうか? 
境内にある一体の石像は塞の神か、石仏なのか、磨耗しているので分らなかった。

東海道は、その先の桧交差点で、三叉路になる。
右へ行くのは県道380号で、大部分の車はそちらに入っていった。 
左側の道が旧東海道で、この大野新田から吉原市街地を通り、柚木までの間、旧道の大部分が残っており、車の通行量が少ないので、のんびり歩くことができる。 

入るとすぐ左側に、冨士マリンプールに入る入口があり、その先の右側に庚申堂がある。

愛鷹神社から三百メートル歩くと、右側に、 「高橋勇吉と天文掘」 と書いた大きな説明板と 顕彰碑が建っている。

説明板「高橋勇吉と天文掘」
「 高橋勇吉は、大野新田を開いた高橋庄右衛門の子孫で、天保七年(1836)の大飢饉で、 村民が困窮しているのに心を痛め、約八十ヘクタールの三新田(大野・桧・田中)を水害から守るため、 排水路の建設を計画し、多くの反対や苦難を乗り越えて、十四年後の嘉永三年(1850)に完成させた。 
彼は自分の田畑や財産などを売り払って、工事費にあてたといわれ、 また、彼の天文の知識や土木技術が優れていたことから、この掘割を天文堀と呼んだ。 
今、三新田は土地改良や道路などで開発が進み、勇吉の天文堀はその跡を留めていない。   」

正面に見える白い煙が出す赤と白の煙突は歩くに比例して大きくなっていく。
この先の左側に、元吉原小学校があり、 左奥の小高いところには、稲荷神社がある。 
このあたりは、天和弐年(1682)までは、東海道の宿場だった元吉原町(現在の今井)である。
今井三丁目の道の右側には、秋葉常夜塔が建っている。

愛鷹神社 x 庚申堂 x 高橋勇吉の説明板 x 秋葉常夜塔
愛鷹神社
庚申堂
高橋勇吉の説明板
秋葉常夜塔

その先の左側に、 「南無阿弥陀仏」 の大きな石柱と、「今井山妙法寺」 の小さな石柱がある。 
石段を上って行くと、色々な形をした伽藍が並んで建っていた。 

「  妙法寺は、毘沙門天妙法寺で、千年以上の前、富士山の修験者の霊場として始まり、 戦国時代には武田氏、江戸時代には紀州藩徳川家の信仰をうけ、元吉原宿は、 その門前町として栄えた。 
毘沙門天は聖徳太子の作ともいわれ、正月だるまで賑わう。 」

毘沙門天を出ると、道が左右に軽いカーブを繰り返す。 
歩きながら見ていた赤と白の煙突が、右側の家のベランダの先に見える。 
家の隣に工場があるので、覆いかぶさるように大きく見える。
東海道本線の踏切を渡ると、正面に日本製紙冨士工場があり、さっきの煙突はここのものだった。 

なお、東田子の浦駅前の六王子神社の言い伝えに出た、いけにえになったおあじは、 踏切の反対の方角(南)に行った、鈴川の阿字神社に祀られている。 

線路に沿って歩くと、吉原駅入口交差点の手前で、道は大きく右にカーブし、 沼川に架かる河合橋を渡る。
橋を渡るとガソリンスタンドがあり、道が直進と左に分かれている。 
正面の道の先には、国道1号や新幹線のガートが小さく見え、その先に山の裾野が広がっている。 
富士山が見えないといけないのだが、もやに覆われてまったく見えない。

妙法寺 x 大きな煙突 x 河合橋 x 富士が見えない
妙法寺
大きな煙突
河合橋
富士が見えない

東海道は左の道(県道171号)を行く。 
右側の山清倉庫の前に、一本の松の木があり、 「東海道」の標識があった。 
東海道は、吉原駅入口交叉点で、右からの国道139号と、合流する。
道を横断して、国道139号の左側を進む。 
左側にあるホンダの販売店の先を右に曲がり、その左2本目の細い道を入る。
国道1号線と新幹線のガードをくぐると、「県道171号線」 の標識が建っているので、 その道を進む。

車の通行も、ほとんどない住宅地を歩く。
道が二度にわたって、右にカーブしている。 
二つ目のカーブが終わる右側に、うっそうとした樹木に覆われた森に、 左富士神社がある。

「 左富士の名前は、左側に富士山が見えることから付けたようである。 
東海道を京都に向かう場合、北側にある富士山は右に見えるはずである。 
しかし、ここは道が右にカーブし、北東になったため、左側に富士山が見える、「吉原の左富士」  と呼ばれる場所である。 」

左富士神社から、二百メートル程の信号交差点の先に、一本の松の木がある。
その下に、 「左富士」 の石碑と、黒大理石に、馬に乗った旅人の姿を描いた、 「名勝左富士」  の碑がある。
石碑の説明文
「 江戸時代には、この辺りの松並木の左側に、富士山が見られた。 」
曇っているので、富士山の姿はまったく見えなかった。 
また、「夢舞台東海道 冨士市吉原宿左富士)  の道標が建っている。

両側は日清紡の工場で、富士山に覆いかぶさるように建っている。 
これが富士山を見るのに、邪魔している。
この先すぐに道が左にカーブするため、富士山は再び右に見えるようになるはずである。  

依田橋郵便局とセブンイレブンが隣り合っているが、その前に馬頭観音の祠があった。 
祠の入口が車道に向いているため、中を見るには車への注意が必要である。
もとからこの向きに建てられていたのだろうから、東海道は車道を歩いていたということになるのだろう。 

県道171号 x 左富士神社 x 一本の松の木 x 馬頭観音の祠
県道171号
左富士神社
一本の松の木
馬頭観音の祠

少し行った三叉路の信号交差点の右側に、「平家越え」 の碑がある。

説明碑「平家越え」
「 治承四年(1180)の十月二十日、冨士川を挟んで、源氏と平家の両軍が対峙した。 
その夜半、源氏の軍勢が動くと、近くの沼に眠っていた水鳥達が一斉に飛び立ち、 その水音に驚いた平家軍は源氏の夜襲と思い込み、戦いもせずに、西に逃げ去った。 
源平の雌雄を決する富士川の合戦が行われたのは、この辺りと言われ、平家越しと呼ばれている。 」 

平安時代の富士川はいくつもの分流があったので、この辺りにも流れていたのであろう。 
また、冨士山からの伏流水もあったと思えるので、いたるところに葦などが生い茂っていて、 水鳥の棲家になっていたことも間違いないだろう。 

平家越えの碑の先に、和田川が流れ、そこには平家越え橋が架かっている。
平家越え橋を渡ると吉原宿である。

「  吉原宿は、当初、JR吉原駅付近の元吉原の地にあった。
寛永十六年(1639)の津波で、壊滅的な被害を受けたため、現在の中吉原(富士市依田原付近)に移転。
しかし、延宝八年(1680)の津波により、再び、壊滅的な被害を受け、 天和弐年(1682)、吉原本町のこの地に移ってきた。 
吉原宿がここに移ったことにより、これまで海沿いを通っていた東海道が、海から離れて、 北側の内陸部に大きく湾曲することになった。 
このことにより、富士山が左に見えるようになり、 左富士 と呼ばれる景勝地が誕生した。 」

 

平家越え橋から少しの間は空地や畑が続いていた。
家が増えてきたところに、「東木戸跡」の標柱があり、ここが吉原宿の江戸側の入口である。
道はその先で右にカーブするが、手前の左側に、岳南鉄道、本吉原駅がある。
岳南鉄道の存在を知らなかったので、一両編成の電車が走っているのに驚いた。 
JR吉原駅と岳南江尾駅とを結ぶ9.2kmの短い路線である。 

 
平家越えの碑 x 平家越え橋 x 吉原宿東木戸跡 x 吉原本町駅前
平家越えの碑
平家越え橋
吉原宿東木戸跡
吉原本町駅前

踏切を渡り、商店街をでると、両側は立派なアーケードが続いている。 
右手にある天満宮と唯称寺以外は、全て商店という状態だった。 

「  昨今、この手の商店街に、 シャッター通り という異名が付けられているケースが多いが、 ここはまだ健在のようだった。
その反面、宿場時代のものは勿論、昭和初期の建物もなかった。 」

調べてみると、以下のことが分かった。 

「 今から四十年ほど前までは、江戸時代の面影を色濃く残した町並みで、 個性的木造建築が軒を連ねていたという。 
ところが、富士市がこの商店街を防災街区に指定し、全店を強制的に、  鉄筋コンクリートに建て替えさせたのである。 
しかも、本陣を含め、歴史的に価値ある建造物も全て取り壊され、移築さえされなかった、という。
住民の一部は、市のやりかたに反対したようだが、時代の流れには逆らえず、 吉原の町は今のような姿に形を変えてしまったのである。 」 

宿場が始まった天和弐年(1682)創業の旅館・鯛屋與三郎も、その一軒である。
四十年前に、現在のビルを建てて、左側の狭い玄関が入口、二階が客室になっている。

アーケードの下を歩いていき、右側のお菓子処、きよせ で、宿場小まんじゅう(12個入り200円)を買おうとしたら、すでに売り切れていたので、残念だった。 
東海道は、中央駅交叉点で、アーケードの道と別れて、左側の静岡駿河銀行手前を左折する。 
細い道をまっすぐ進むと、妙祥寺の題目碑がある。
題目碑の前には市が建てた道標がある。

ここを右に曲がると、県道22号に出て、 道をしばらく歩くと、右側に冨士市の建てた、 「吉原宿西木戸跡」 の道標が建っている。

その先に小川が流れていて、志軒橋を渡ると、国道139号線に出た。 
これで、吉原宿は終わる。 

吉原本町駅前 x 旅館鯛屋與三郎 x 妙祥寺題目碑 x 西木戸跡
吉原本町駅前通
旅館・鯛屋與三郎
妙祥寺題目碑
西木戸跡

訪問日     平成十九年(2007)六月四日



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