原宿は浮島原の中にある宿駅という意味である。
元は甲州道沿いにあったのを慶長年間に現在地に移した。
原宿は、大塚本田と隣の東町、西町の三つの町村で構成されていた。
天保十四年編纂の東海道宿村大概帳によると、宿内人口は千九百三十九人、家数三百九十八軒で、
本陣一軒、旅籠二十五軒で、東海道ではもっとも規模は小さく、沼津宿の1/3にもならなかった。
駿河に過ぎたるものが二つあり、富士のお山に、原の白隠といわれた、
白隠禅師の出生地で、晩年を過ごした地でもある。
JR東海道本線原駅の東南東に約二キロのところに、東三本松のバス停がある。
江戸時代はここが、今沢村で、現在は沼津市今沢である。
その先にある三本松バス停は、沼津市大塚で、東海道(県道163号)は、東海道本線の踏切を渡る。
渡った先は右に半円を描くようにカーブしていて、かって枡形があったような地形である。
そこから二百メートル先の右手に神明社がある。
神明社の鳥居を過ぎた、右側の民家前に、「東木戸跡」 の石碑が建っている。
「 原宿は、大塚本田と隣の東町、西町の三つの町村からなっていた。
天保十四年編纂の東海道宿村大概帳によると、 「 原宿の東見附は、今沢村境の大塚神明神社である。 」 と、記されているので、現在の大塚は、江戸時代には、大塚本田といわれたのだろう。 」
ここから、原宿に入ったわけである。
なお、バス停はこの先、大塚新田・大塚・東町・原警察署前・西町の順にある。
大塚バス停の右手に高木神社がある。
左に入ったところには、清梵寺と長興寺が並んで建っている。
長興寺の境内には馬頭観音などの石仏が祀られていた。
東町バス停を過ぎると、道の左側に 「大本山松陰寺」 と書かれた大きな石柱が建っている。
松の木と山門が見えたので、入って行く。
山門の脇に、 「白隠禅師墓」 という石碑が建っている。
「
松陰寺は、臨済宗のお寺で、「 駿河に過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠 」 と、
言われた高僧・白隠禅師が住職をつとめた寺である。
白隠禅師(1685〜1768)は、原の生まれで、諸国で修行を積んで、京都の妙心寺の住職となる。
その後、原に戻り、松陰寺に住み、ここで亡くなった。
白隠の名前は、全国的に有名だったようで、参勤交代の大名は、競ってこの寺に立ち寄った、という。」
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山門の左側に行くと、高い松の木がある。、その名は擂鉢松(すりばちまつ)である。
「 備前岡山藩三代目藩主・池田継政が、白隠禅師を尊敬し、寺に立ち寄った際、
炊事番が大擂鉢を壊してしまった。
継政は、帰国後、備前焼の大擂鉢を数個作らせて、届けさせた。
白隠は、これを台風で折れた松の傷口に、雨よけに、載せてやり、
松はすり鉢を載せたまま、大きくなった。 」
本堂でお参りを済ませ、墓地に廻る。
本堂の左側の建物脇から墓地に入ると、白隠の墓は、石柵で囲まれた数基の一番左の墓である。
街道に戻り、少し歩くと。左側に、 「白隠禅師生誕地」 と刻まれた大きな石碑が建っている。
白隠誕生地交叉点があり、少し先に、原交番がある。
左右の道は、 「興国寺城通り」 と命名されている。
「
興国寺城は、根古屋と青野の境の篠山という愛鷹山の尾根を利用して築かれた山城である。
後北条氏の祖・北条早雲が、最初に城を与えられ、旗揚げした城として名高い。
城の南部には、原宿のある東海道に通じていて、交通の便はよい。
途中に、広大な浮島ヶ原湿原があったため、難攻不落の城だったようである。 」
交差点を越えると西町になり、右側に原浅間神社がある。
その前には、 「原宿と浮島マップ」 という絵看板がある。
「 愛鷹山の山麓に、多くの寺院が集まり、原宿周辺には神社が多い。
太古から原宿の北西には、富士の湧き水が溜まる浮島ヶ原湿原が広がり、
これが地元民の生活に支障をきたしていた。
そうしたことから、墓地は、安全な高台に、生活の場には、安全祈願の浅間神社を祀っていた。 」
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ここには、 「夢舞台東海道 原宿」 の道標が建っていて、 「吉原宿まで 二里三十二町(11.3km)」 と記されている。
原宿の生い立ちについて触れる。
「 原宿は、浮島ヶ原の東の駿河湾砂丘の上に出来た宿場である。
江戸時代以前はここより南の甲州道、あるいは、千本道といわれた、
現在の県道富士清水線(旧国道1号線)沿いにあった。
鎌倉時代の十六夜日記に 「原中宿」と書かれているが、浮島原の中にある宿駅という意味で、
これが、原 という地名の由来である。
慶長年間に起きた高潮の被害により、宿場はここに移転したといわれる。 」
原宿の全長は、 二十四町四十二間 (約2.7km) と、東海道の中で、長い宿場町だった。
その先の門構えの家の前に、 「東海道原宿本陣跡」 の標石が建っている。
「
本陣は、源頼朝の弟の阿野全成の末裔という渡辺家が、代々平左衛門を名乗り、幕末まで務めた。
建物は、間口が十五間〜十七間、建坪二百五十五坪で、明治元年の明治天皇の東征の際には、
ここで小休止されている。
また、その後の巡幸の時も、御昼をとられた、という記録も残っている。
なお、脇本陣はあったのだが、天保九年に焼失し、廃業になった。 」
原宿の問屋場は、それより東、数十メートルのキタムラ手芸店付近にあったようである。
原駅入口交叉点を左折すると、JR原駅がある。
駅前には五台ほどのタクシーが止まっていた。
そんなに利用者があるのか?と見ていたら、駅を降りたサラリーマンが乗っていった。
原駅を出て、原駅前交差点で左折し、西に向かう。
このあたりは六軒町で、左側に 「沼津の地酒・白隠禅師の里、白隠正宗」 の看板を掲げている、
蔵元の高橋酒造(株)がある。
ガラス戸の先には白隠正宗の壜が並んでいた。 また、バイオの製品も手がけているようだった。
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江戸時代には、ここから田子の浦にかけて、富士の展望がよいことで知られた。
浮世絵にしばしば登場しているように、東海道五十三次のなかで、
富士山が一番近く見えるところであり、浮島ヶ原越しに見える富士山は絶景である。
現在の東海道では、右側の家の屋根が邪魔で、中々見ることができない。
右側に空地を見つけ、望遠で写してみたが、富士山の手前に家があるので、
浮世絵のようにはいかなかった。
旧東海道は、この先、東田子の浦(富士市の東柏原)までと、元吉原(同市大野新田)から旧吉原市街地を通り、柚木までの間に、断続的であるが、残っている。
なお、原宿は幕府領(天領)で、伊豆韮山代官、江川太郎左衛門の管轄だった。
このあたりには、古そうな家が残っている。
左の民家の一角に、 「東海道原宿 一里塚跡」 と、書かれた石碑がある。
ここは、江戸から三十二里目の一里塚跡で、石碑は、平成十六年に 建てられた。
右側の塚跡には、道祖神が祀られている。
新田大橋の下は沼川放水路で、橋を渡ると、右手にIH輸送機械の工場がある。
その先には、沼津自動車検査登録場などがあり、その先の道の沿線に図書印刷や小さな工場がある。
原駅に止まっていたタクシーはこれらに出張する客が目当てだったのだ、と思った。
このあたりは原新田で、古い家の中に、新しい家やアパートが混在している。
そのまま歩いて行くと、右側に大きな木が見えてきた。
近づいていくと、一本松バス停があり、大きな木の下には、 「村社三社宮」 と書かれた石柱と、
鳥居があり、 その奥に、一本松の鎮守・浅間神社があった。
「
浅間神社は、三つの祭神を祀ることから、 三社宮 と呼ばれてきた。
創建は慶安三年(1650)と古く、鳥居前の石灯籠には、 文化十一申戌の銘がある。 」
ここが、原宿の西の見附なので、原宿はここで終わりとなる。
原宿の長い宿場を実感することが出来た。
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訪問日 平成十九年(2007)六月三日