新居宿は新居の関所が置かれたところである。
「入り鉄砲に出女」の取り締まりが厳しい関所だった。
今でも、当時の姿で関所は残っている。
新居宿と舞坂宿は船渡しであったので、新居宿は船待ちや関所の通過待ちの人で、賑わった。
宿場の人口は三千四百七十四人、家数七百九十七軒で、本陣は三軒あったが、脇本陣はなかった。
旅籠は二十六軒(時代により変動があるが)である。
現在も、紀州藩の御用宿だったという旅籠が残る。
◎ 新居の関所
JR東海道本線の新居町駅で下車し、駅南にある国道361号を西に向かう。
新居町駅前には、 山頭火の句碑 が建っている。
「 浜名街道 水まんなかの道がまっすぐ 山頭火 」
浜名川に架かる浜名橋の左側に、多くの小さな舟が係留されていた。
浜名橋には、新居宿の浮世絵がレリーフになって、幾つか描かれていた。
川の右側には、小さな秋葉神社があったが、壊れかけていた。
道の両脇には、御土産物屋や飲食店が並んでいる。
道の右側に、特別史跡の新居関所があった。
新居町駅から、新居関所までは、距離で八百メートル、十分ほどの距離である。
四百円を払って入館した(営業時間 9時〜4時30分、月休)
新居関所と資料館だけなら三百円だが、その先の旅籠を含めた料金である。
門をくぐると、 左側に堀のようなものがある。
これは、江戸時代の渡舟場を再現したものである。
「 江戸時代には、関所のすぐ東が浜名湖で、関所の構内に、渡船場があった。
舞阪から新居までは一里半(約6km)の距離だが、
舞阪宿と新居宿間は、船渡しで、約二時間の船旅であった。
これを今切(いまぎり)の渡しという。
昭和七年に浜名橋が完成したことで、今切の渡しは廃止になった。
そのため、現在の東海道の歩きでは、この区間は電車に乗るか、弁天島経由で、
橋を渡るかの方法をとらなければならない。
明治以降の埋め立てにより、関所にあった渡船場などが無くなったが、
平成十四年(2002)、古絵図などに基づき、護岸石垣・渡船場・面番所への通路などを、復元された。 」
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安藤広重は、今切の渡しの様子をを、 「東海道 荒井(新居)宿」 として描いている。
説明板
「 舞阪宿の渡船場(雁木)で、渡船に乗ると、新居宿の入口は新居関所だった。
新居の関が創設された当初は、浜名湖の今切口に近い、現在、大元屋敷 と呼ばれるところにあった。
その場所は、地震や津波などの災害で、移転が強いられ、さらに移転し、その後、
現在の場所に移った。
今切にあったことから、今切関所といい、今切の渡しという。 」
新居関所は、正式には今切関所といい、慶長五年(1600)に設置され、幕府が管理した。
元禄十五年(1702)、三河国吉田藩に管理が移された。
面番所・書院・下改勝手¥・足軽勝手の建物は、 嘉永七年(1854)の大地震で大破したが、
翌安政弐年に建替えられた。
手形を改める面番所では、番頭を筆頭に、給人、下改などの役人が勤めていた。
当時の様子を人形で再現していた。
「
新居の関は、箱根の関所と同じように、 「入り鉄砲に出女」 の取り締まりが厳しかった所である。
船囲い場跡内に、 女改長屋 があり、関所勤務の足軽の母親が住み、関所を通る女性を調べていた。
女人はこの関所を通るのを嫌がり、浜名湖の北部を通る、姫街道を利用するものがいた。 」
資料館には、長崎勤番の大名の家来が、長崎の女を秘かに郷里に連れ帰ろうとして、 関係者の多くに、重罪が執行された事件が紹介されていて、そんなに厳しかったのか、と思った。、
関所手形に、女・鉄砲の他、乱心・囚人・首・死骸 というのもあり、 船の出入りに出船手形、入船手形があることを知った。
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◎ 新居宿
江戸時代、関所を出ると、東海道で、その先に新居宿があった。
「 新居宿の家数七百九十七軒、人口は三千四百七十四人である。
本陣は三軒あったが、脇本陣はなかった。 旅籠は二十六軒(時代により変動がある) 」
関所の手前を左に入った空地に、 「船囲い場跡」 の石柱が建っている。
「 ここは、舞阪宿からの渡船用の船を係留したところである。
常時百二十艘が配置されたが、大名通行などで足りなくなると、寄せ船制度で、近郷から集められた。 」
街道を少し歩くと、関所の反対(左)側に、無人島漂流の碑がある。
「 江戸時代の享保四年から元文四年までの二十一年間、 無人島の鳥島で生き、なんとか生還できた新居出身の船乗りの石碑である。 」
新居宿は、面番所でお調べを受けた後、大御門から出ると、西に向かった並んでいた。
街道の左側に、旅籠の一軒であった、紀伊国屋 の建物がある。
建物は、旅籠風な造りで、庭は広く、手入れされていた。
「 紀伊国屋の創業の時期は不明であるが、元禄十六年(1703)には、
徳川御三家の一つ、 紀州藩の御用宿になっていた、という。
江戸時代には、この家の前後左右に、旅籠が林立していたが、その中でも大きかった。
紀伊国屋の屋号は、正徳六年(1716)からだが、昭和三十年頃に廃業するまで、
約二百五十年の長きにわたり、旅館業を続けてきた。
建物は、明治七年(1874)の大火で燃失、二階建てに建替えられ、一部増築もされたが、
江戸後期の旅籠建築様式が、随所に残されている。 」
主人が紀伊の出であったことから、紀州藩の御用を勤めるようになったと思うが、 敷地内に紀州藩七里飛脚の役所が置かれたこともあり、また、帯刀、五人扶持を認められるなど、 他の旅籠とは違うなあ、と思った。
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街道を少し歩くと、T字路に突き当たり、泉町交差点である。
正面の屋根の上に、「浜名湖競艇」 の道案内が乗る家は、 飯田武兵衛本陣の跡である。
「 小浜・桑名・岸和田など、七十を数える大名が利用し、明治天皇も、 明治元年の巡幸、還巡幸など、合わせて、四回利用している。 建物は当時のものではなく、家の前に、それを示す石碑と案内板があるだけである。 」
東海道は、ここで左折するが、江戸時代には武兵衛本陣の左隣は、伊勢屋という旅籠で、その隣に、
疋田八郎兵衛本陣があった。
この場所は空き地になり、それを示す石碑が建っていた。
「 疋田八郎兵衛本陣は、門構えと玄関のある建坪百九十三坪の屋敷だった。
疋田八郎兵衛は、庄屋や年寄役を務め、
本陣には、吉田藩の他、御三家など、百二十の大名が利用した、という。 」
幕末の絵図では、八郎兵衛本陣の隣に、医者・高須弥久が住んでいた。
もう一軒の疋田弥五郎本陣は、道が突き当たる手前右側にある、疋田医院のところにあった。
その先には、「寄馬跡」 と書かれた石碑がある。
「
宿場には公用の荷物や公用の旅人のため、人馬を提供する義務があり、
東海道の場合、人足百人、馬百疋、と決められ、それだけの数の人馬を用意していた。
しかし、それでは不足する場合は、助郷制度により、近隣の村々から集められた。
とり寄せた人馬のたまり場が、 寄馬 である。 」
その先の少し入ったところに、諏訪神社があった。
「
諏訪神社は、遠州新居の手筒花火として有名である。
江戸時代の享保年間頃(今から約二百八十年前)、新居関所を管理していた、三河の吉田藩から伝えられた、と言われる。
愛知県の三河地方では、二十歳への誓いなど、祈願の色濃い花火であるが、
ここ新居の花火は、お囃子に合わせて、花火を抱えて踊るような、奔放(ほんぽう)な手筒花火である。
毎年7月下旬の金、土曜日の2日間行われ、古くから東海道の奇祭として知られている。 」
照明の脇に仲町発展会と記され、この町で一番賑わうところと思えるが、人の姿はない。
その先の左側にあるのが、池田神社である。
「 小牧長久手の戦いで、戦死した池田信輝の首を、 徳川方の武将・長田伝八郎が、首実検ののち、ここに首塚を築いたもので、 享保二十年(1735)に池田神社となった。 」
右側の若宮八幡宮の先に、西町公民館がある。
その向かいの民家の一角に、 「一里塚跡」の説明板があり、
「 左(ひがし)に榎(えのき)、右(西)に松の木が植えられていた。 」 とある。
道はその先で、二又になるが、東海道は右の方である。
右にカーブし、その先で更に左にカーブし、そのまま進むと、国道1号線に合流する。
この左カーブの手前に、「棒鼻跡」 の石標がある。
「 棒鼻とは駕籠の棒先の意味。
大名行列が宿場に入るとき、先頭(棒先)を整えたので、そう呼ぶようになった、といわれる。
ここは、新居宿の西の入口で、一度に多くの人が通行できないように、
土塁が突き出て、枡形をなしていたところである。
今は土塁は崩されて跡形もなく、また、道も増やされているので、「枡形」 といわれても、
ピンとこなかった。 」
ここで、新居宿は終わりになる。
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訪問日 平成十九年(2007)一月三十日