舞阪宿は、弘化弐年(1845)の記録によると、家数二百六十五軒、人口千二百六十四人、
本陣二軒、脇本陣一軒、旅籠が二十八軒だった。
舞阪町は、今回の町村合併で浜松市に吸収され、浜松市西区舞阪町になった。
JR東海道本線、高塚駅で降り、駅南の国道257線に出る。
駅の東方に可美小学校があり、そこから西の現在の地名は浜松市中央区増楽町である。
そこから西に向かってあるくと、右側に、モンテカルロという名の自動車用品店がある。
駐車場の植栽の中に、 「従是東濱松領」 と、書かれた領界石がある。
「 江戸時代には、ここが浜松藩の松平家と、堀江藩の大沢家の領地の境だった。
領界石は浜松藩が建てたものである。 」
その少し先の右側の民家の前に、 「堀江領境界石」 の標木があったので、
境界石を探したが見からなかった。
(注)上記の堀江藩の記載について
「 江戸時代には藩ではなかったので、正しいのは堀江領である。
明治に誕生した幻の堀江藩について、記す。
大沢氏は、堀江領五千六百石を領し、陣屋を構えた高家旗本であった。
ところが、大沢基寿が、明治維新のどたばたに便乗し、石高を一万六石と、虚偽申告し、大名に昇格し、
堀江藩が誕生した。
堀江藩は、その後の廃藩置県で消滅するので、明治初期の三年間だけの藩だった。
大沢基寿は、その後、成立した堀江県知事になり、華族に列せられたが、
虚偽が発覚し、知事を解任され、士族に落とされた。 」
右側におおこうち眼科の看板が出ているが、その先の家の前にある駐車場に、
「高札場跡」と、「秋葉山常夜燈跡」 の標柱があった。
そこから少し歩くと、赤い鳥居の熊野神社があった。
境内の常夜燈の脇に、「高札場跡」 の標木がある。
そこから一キロ歩くと、先程出発した、高塚駅入口交差点である。
更に歩くと、高塚西バス停の先で、道が左にカーブし、二又に分かれる。
道路の表示は、「右 舞阪駅、篠原、 左 豊橋、国道1号線」 である。
東海道は右の狭い方の道(県道316号)を行く。 角に、理髪店があった。
ここから舞阪宿の入口の新町まで、約四キロである。
国道とは違うので、交通量はかなり減った。
少し歩くと、立場バス停があり、左側には、数軒だが、古い家が残っていた。
江戸時代には、このあたりに、立場茶屋があったのだろう。
今は、普通の住宅地になっていた。
なお、国道と別れたところから、高塚町から篠原町に、浜松市南区から西区に変っている。
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右手に、神明宮があり、そこを過ぎると、家がたて込んできた。
右側の住宅の中に、「篠原一里塚跡」 の標札があった。
東海道宿村大概帳には、 「 壱里塚木立 左松右榎 左右の塚共篠原村地 」 と、記されている、
一里塚である。
進むにつれて、車の通行が多くなったのは、国道257号が、篠原ICで、国道1号になり、
この道と平行して走っている影響かもしれない。
札木バス停付近の民家は、大きな家が多く、道路に面して蔵が建っている家もあった。
東海道本線が、右から急接近してくる。
右側に、秋葉山常夜燈の祠がある。
その先にも、秋葉山常夜燈は点々と続く。
左側の篠原小学校の前に、大きな松があり、小さな橋を渡ったところにも、松の木が残っていた。
市の原交番の隣の愛宕神社の境内にも、秋葉山常夜燈が建っていた。
坪井町北交差点を過ぎると、右手に稲荷神社がある。
「
永享十二年(1440)、伏見稲荷より勧請した、と伝えられる。
拝殿は、天正十六年(1588)に再建された、という記録はあるようだが、
現在の建物は、大正十一年の建立である。
赤い鳥居の先にある石鳥居は、文化十三年(1616)のものである。 」
再び歩き始めると、右側の奥に入ったところの空地に、 「史跡 引佐山大悲院観音堂聖跡」
の石碑が建っている。
傍らの説明文
「 霊験新たかな観音像が祀られていた。 東海道名所図会にも、記述がある。
観音像は、如意寺(坪井町5815)に安置されている。 」
近くにまた、木造の秋葉山常夜燈が祀られている。
常夜燈は、集落毎にあるのだろうか?
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街道に戻ると、馬郡観音堂バス停があった。
ここは馬郡町で、蔵を持った家が現れた。
右手の東本徳寺を過ぎると、現在建て替え工事中の西本徳寺があらわれた。
両方とも日蓮宗の寺院である。
馬郡跨線橋南交差点の先から、道の名は、県道49号になった。
右側のこんもりした森には、応永弐年(1395)に奈良春日大社から勧請した春日神社がある。
春日神社の社殿前には、狛犬ではなく、二頭の鹿が、鎮座していた。
舞阪駅南入口交差点を越えると、松並木が見えてくる。
「 旧東海道の松並木は、徳川家康の命令で、慶長九年(1604)に、黒松が植えられたのが始めである。
正徳弐年(1712)には、馬郡村の境から、舞阪宿の東のはずれの見付石垣まで、
八町四十間(約920m)の間に、千四百二十本植えられた。
それから四百年経過しようとする今日でも、道の両側に、ずらりと立派な松が並び、
見付石垣までの七百メートル間に、三百三十本が並んで立っている。 」
道の右側には、十二支の彫り物、左側には、東海道の宿場のレリーフが置かれていた。
東海道の松並木を歩いて行くと、新町交差点の手前に、ポケットパークがあり、
「浪乗り小僧」 のかわいい置物があり、その言い伝えが書かれていた。
新町交差点で、斜めに交差する国道1号線を渡った。
東海道は狭い道になり、二百メートルほど行くと、道の両側に小さな石垣が現れる。
舞阪宿の入口を示す見付石垣である。
江戸時代には六尺棒を持った番人がここに立ち、宿場に出入りするものを見張っていた。
「 舞阪宿は、弘化弐年(1845)の記録によると、家数二百六十五軒、人口千二百六十四人、本陣二軒、脇本陣一軒、旅籠が二十八軒だったが、舞阪町は、今回の町村合併で、浜松市に吸収され、 浜松市西区舞阪町になった。 」
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二十メートル程歩いた左側に、江戸から六十七番目の 「舞阪一里塚跡」 の石碑がある。
その手前に、石灯籠が建っている。
「
石灯籠の正面に、 秋葉大権現、西面に、 津島牛頭天王、南面には、 両皇大神宮、そして、
東面には、文化十二年乙亥正月吉日 と、刻まれている。
文化六年(1809)に、舞阪宿の大半を焼く大火事があり、 火防せの秋葉山信仰から、
この常夜燈が設置された。
秋葉山だけなら普通だが、その他に、海の安全を願って、伊勢神宮や厄病退散の津島神社も加えているのは珍しい。
住民の安全と宿場を火災から守るという気持が、この地区に多い木造秋葉山常夜燈ではなく、
多くの神々に願う石製の燈籠になったのだろう。 」
しらす干しとのりを売る店が数軒あり、その他に電気屋や八百屋、米屋など数軒ある。
その他は商売をしている様子がない。
両脇に建つ家は、全て、切妻造りの二階建てある。
食堂を見つけたが、看板はカレー。
舞阪のうなぎは有名なのに、うなぎ屋はない(?)
更に行くと、宝珠院の前にも、両皇太神宮常夜燈があった。
左側の小道の入口には、「岐佐神社」への矢印があった。
そのまま道を進むと、右手の民家の駐車場の一角に、「本陣跡」 の石柱が建っている。
舞阪宿には、宮崎伝左右衛門と源馬徳右衛門の二軒の本陣があった。
ここは、源馬本陣の跡のようである。
道の反対にある立派な建物は、舞阪宿脇本陣 の 茗荷屋堀江清兵衛宅 である。
「 主屋、繋ぎ棟と書院の三棟からなっていたが、
現在残る建物は、天保九年(1838)に建てられた書院部分のみである。
脇本陣は大名や公家、公用の幕府役人らが使用したが、利用がない時は旅籠として営業した。
その時は、主屋の二階が客室になったという。
書院の庭に面した一番奥は、大名の上段の間である( 内部を無料公開している )
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脇本陣から五十メートルほど歩くと、目の前に、浜名湖が現れた。
手前の左側には、 「夢舞台東海道 舞阪宿」 の道標があり、西町常夜燈が建っている。
「 西町常夜燈は、文化十年(1807)二月、西町の住民が建立したものである。
正面には、 両皇大神宮、西面は、 秋葉大権現、東面は、 津島牛頭天王、
南面には、 文化十年二月吉日願主西町中、 と刻まれている。 」
道の反対に、木製の常夜燈がある。
ここは、今切(いまぎり)の渡しがあったところである。
「
江戸時代に開設された東海道は、ここから新居宿までは船渡しであった。
新居に向かう船は、季節により変るが、関所の関係から朝一番は午前四時、
夕方の最終は午後四時だった、という。
舞阪側の渡船場を、 雁木(がんげ) といい、往還より海面まで、
東西15間、南北二十間の石畳になっていて、階段状の船着き場になっていた。 」
渡船場だったところは、スロープになり、海岸にはふぐ採りの漁船が係船されていた。
その奥に魚市場があったが、堤防の先には国道1号のバイパスの浜名大橋が見える。
「
浜名湖は遠江と書かれたように淡水湖で、太古の東海道は陸続きで、歩けた。
明応七年(1498)の大地震と津波により、陸地部分が決壊した結果、浜名湖と遠州灘がつながってしまった。 これを今切と呼ぶ。
橋の海面部分が、地震で沈下し、海につながったのである。 」
舞阪の渡し口は、三ヶ所あり、この船着場はまん中の、旅人が一番利用する本雁木で、
南側に、荷物を積みおろす渡荷場があった。
少し北に行くと、大名や幕府公用役人が利用した北雁木があり、それを示す石柱の木製常夜燈が建っている。
「
北雁木は、明暦三年(1657)から寛文元年(1661)にかけて、造られた。
往還(東海道)から、巾十間(約8m)の石畳が水際まで、敷き詰められていた。
船着場にある木製の常夜燈は、渡し口が夜でもわかるようにしたものである。 」
ここで舞阪宿は終わりになる。
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訪問日 平成十九年(2007)四月二十日