浜松宿は江戸幕府を開いた徳川家康が築城した浜松城があったところである。
徳川家康は、これまで、「曳馬と」 呼ばれた地名を縁起が悪いからと、「浜松」 に変えた。
浜松宿は、天保十四年の東海道宿村大概帳によると、人口は五千九百六十四人、家数千六百二十二軒、
旅籠が九十四軒もある、遠江国と駿河国で、一番大きな宿場だった。
浜松は、江戸時代から綿織物の産地として栄え、昭和三十年代までは、綿織物の生産地たが、
現在は、自動車と楽器の製造業が主体で、大企業の下請けの多い町である。
今日は、JR浜松駅から、どれだけ古い遺跡が残っているか分からないが、 東海道の浜松宿を歩いてみよう。
浜松駅から、地下道をくぐると、ぽっかり空いた空間があった。
階段を上り、国道152号線に出て、東に向って歩き、馬込橋に着いた。
橋の入口の道路左側に、浜松宿の「外木戸跡」 の木柱があるはずだが、見付けられなかった。
松江交叉点付近に、外木戸の番所が江戸時代には建っていたが、
戦災に遭い、区画整理が行われたことで、今はビルが建ち、当時を思い起こすものは残っていない。
ここが浜松宿の江戸側の入口だったので、ここから西に向かって歩き始めた。
「 浜松宿は、新町から西へ進み、連尺町で左折し、伝馬町、旅籠町を経て、
菅原町で終わる宿場だが、浜松城の城下町でもあった。
安藤広重が描いた、 「東海道浜松宿」 の浮世絵には、 遠くに浜松城が見える構図になっている。 」
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駅前に差し掛かると、左側のビルの間からアクトシティが現れ、これが東海道か?と違和感を感じるほどの変貌振りである。
新町交差点の右側には、夢告地蔵尊が祀られている小さなお堂がある。
「 江戸時代の末期に、コレラで亡くなった人々を祀るために建立された。
明治時代の廃仏毀釈により、夢告地蔵尊は、土中に深く埋められた。
町民の夢枕に出て助けを求めたので、町民達の手で掘り出されて、新たなお堂に安置された、という逸話が残る。 」
板屋町の交差点を過ぎると、遠州鉄道西鹿島線の高架橋がある。
高架の下に万年橋があるが、川は蓋をされて、公園になっている。
高架橋をくぐると、田町交叉点で、東海道には 「ゆりの木通り」 と名付けられ、同名のバス停がある。
商店街には違いないのだが、大きなビルが建ち、ビジネス街の感がした。
そのまま進むと上り坂になり、上りきったところに、連尺交差点がある。
連尺交差点は、国道152号と、257号が接している。
東海道は左折だが、浮世絵にある浜松城へ立ち寄ることにした。
交差点を右折し、市役所前信号交差点を左折すると、浜松城公園前に出られる。
市役所前交差点の左側の浜松市役所は、浜松城の二之丸跡に建てられている。
市役所の左側に入ると、本丸の石垣が残っている。
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(注) 上記は 平成十九年4月二十日(金)の歩きである。
この時、訪問した浜松城に、大河ドラマ「どうする家康」が放送された翌年の令和六年(2024)一月十三日に、再訪問している。
以下の浜松城訪問記は令和六年訪問後に書いたものである。
二の丸は、現在の市役所の北半分と、 「どうする家康」 大河ドラマ館(旧元城小学校跡)の位置に築かれていた。
「 二の丸は三の丸の西、本丸の東側に位置して、
藩主の政務や日常生活を営む二の丸御殿があった。
二の丸御殿の東側に二の丸裏門、南側に本丸表門があった。
二の丸御殿は、廃城後に払い下げされ、解体されてしまった。 」
市役所南バス停の奥に鎧掛松がある。
説明板「鎧掛松」
「 元亀三年(1572) 家康は三方ヶ原合戦から城に帰り、
大きな松の木陰で休んだとされ、
そのときに鎧を脱いでその松に掛けたとの伝承が残ることから、
鎧掛松と呼ばれています。
この松は昭和五十六年(1981)に元城町の人々の手により植樹された三代目であり、
初代は浜松城内の堀のそばにあったとされています。
また、当時鎧掛松近くの清水で合戦より疲れた馬のからだを冷やしたところは、
馬冷と呼ばれ、その地名が今でも松城町内に残っています。 」
鎧掛松の近くから公園に向うと、浜松市役所公用駐車場があり、
その先には天守閣が見えてきた。
駐車場の脇の道を上って行くと、浜松城公園である。
市民の木・プラタナスの説明板がある平地に出た。
ここは天守曲輪の西側に位置し、江戸時代には土塁と土塀で囲まれた
西端城曲輪があったところと思われた。
その先、道なりに上っていくと、 「天守曲輪の石垣」 という説明板がああり、その上に天守曲輪の石垣が見えた。
説明板「天守曲輪の石垣」
「 天守曲輪の石垣の特徴 〜 邪と屏風折 〜
天守曲輪に残る石垣は、傾面上半分だけに石を積んだ「鉢巻石垣」に分類できる。
石垣の平面形には屏風折や出隅が随所に見られる。
こうした複雑な形状は、戦闘時に迫る敵に側面から攻撃を加えるための工夫である。
邪(ひずみ)は輪取りともいい、天守曲輪西側の埋門南側で観察できるが、
国内の現存例は多くない。
さらに南に行くと、一旦鎬隅(しのぎすみ)になった後に屏風折がある。
いずれも横矢掛という防御の技法で、天守曲輪からの死角をなくす事ができ、
防御機能が高くなる。
天守曲輪南東側には出隅があり、
このような部分が大規模になると櫓が建てられる。
一方、本丸北西隅には入隅があり、入隅は多くの城郭で見ることができる。 」
坂が急になった先に、 「搦手筋と埋門」 の説明板があり、 その先には埋門の石垣が見える。
説明板「搦手筋と埋門」
「 浜松城の天守曲輪には、天守門を通る大手筋(表通筋)と埋門を通る搦手筋
(裏通筋)の二つの城内通路がある。
大手筋は、一般的に城主や客人が使用する通路であり、
大手筋の門には格式の高い櫓門などの大規模なものが多い。
一方、搦手筋は、日常管理や有事の際の脱出経路として設定された。
搦手筋に建築される門は、小型で外部から目立たない構造であることが多い。
この看板がある城内通路は搦手筋にあたり、上方の石垣が途切れた部分に
埋門が設けられていた。
埋門は、石垣の間に埋まるような構造をした門である。
門の幅は、石垣の切れ間の幅から約一メートルほどであったと見られる。
絵図からは、天守曲輪に巡らされた土塀が埋門の上部にも連続していた様子が
うかがえる。 」
搦手筋の道から埋門跡の石組を通り中に入ると、「ようこそ出世の街 浜松へ 」
「 出世大名 家康くん 出世法師 直虎さん」 の看板がある。
その奥に「 これは、約四百年前の築城の頃の面影を残す貴重な石垣です。
・・・・・ 」 という看板がある。
「 浜松城は代々譜代大名が城主を務め、
在城中に老中に栄進したものが多いことから、
浜松城はのちに 「出世城」 と呼ばれるようになった。
中でも水野越前守忠邦の名がよく知られている。
明治維新で廃藩になるまで、九家二十二代に引き継がれていき、
歴代の城主によって城域の改変や改修が進められたという。
明治六年(1873)の廃城令により、浜松城の建物や土地の払い下げが行われ、
三 の丸と二の丸の宅地化が進行したが、
天守曲輪と本丸の一部は大きな開発を免れ、
昭和二十五年(1950)に浜松城公園となった。 」
天守台の八幡台の上に、「浜松城の石垣(野面積み)」 の説明板がある。
説明板「浜松城の石垣(野面積み)」
「 浜松城の石垣は見るからに荒々しく、
外観は粗暴で一見崩れやすそうに思えますが、四百年の風雪に耐え、
今なお当時の面影を残している重要な遺構であり、史跡浜松浜松城跡の中で
文化財として価値が高い部分です。
この石垣は、基本的には野面石(自然のあるがままの石)を使い、
接合部(合端)をほとんど加工しないで積む「野面積み」という方式です。
慶長(1596〜1615)以前はこの方法が多く用いられていたと言われています。
各段の積み方は、布積(ぬのづみ)と呼ばれる、
石材を一段ずつ横に並べて据えながら積み上げ、
布の横糸が通ったように積む技法が採用されています。
しかし、石材があまりにも荒々しくて不揃いなことから、
横の通りが乱れた部分が多くあり、布積崩しと呼ばれこともあります。
不整形な石を積むとはいえ、原則的には石の大きな面を表にし、
小さな面を内にして積みます。
隙間に背後から飼石(かいいし)を入れて、石が動かないように固定します。
背後(内側)には多量の栗石(ぐりいし)を詰めて強化します。
栗石は約1〜1.5m程詰めてあり、さらに砂利を入れてあるので水はけが良く、水圧で崩れることはありません。
石垣を正面から見ると、石と石の隙間に小さな石が詰めています。
これを間石(あいいし)と呼びます。
この石は、石垣を成形する効果だけで、石垣を強化する効果は持っていません。
間石が抜け落ちる程度の方が石垣は頑丈だと言えます。
浜松城は、特に天守台と天守門付近の石垣が堅く、
石も大きなものが使われています。 また突角部には、
長方形の石材を、小口と側面が交互になるように配した算木積み法を用いています。
石垣の斜面は直線的で、五十七度〜七十八度の傾斜をしています。
石垣に用いた石材は珪岩(けいがん)と呼ばれる石がほとんどで、
そのほか石灰岩、結晶片岩などが見られます。
珪岩は浜名湖北岸の山々で見られ、現在の庄内地区の大草山や根本山、
対岸の湖西市知波田付近で切り出され、佐鳴湖東岸まで船によって運ばれ、
そして、浜松城まで運ばれたと推定されます。
この石垣がいつの時代に築かれたかについては、
正確な資料がないのでわかりませんが、
浜松城二代目城主堀尾吉晴の頃(1590年頃)という説が有力です。」
その前に、 銀明水の石組井戸がある。
「 浜松城には天守台に一つ、天守曲輪の埋門のそばに一つ、
本丸に一つ、二之丸に三つ、作左曲輪に四つ、計十本の井戸があった。
これは天守曲輪の埋門のそばの井戸で、城内に住む人々の飲料水として、
また戦いの時には籠城になることも想定し、
最後の拠点として天守内部や天守の間近に設けられることが多かった。 」
浜松城の天守台周辺には、本丸とは別に天守曲輪と呼ばれる区画が築かれて
いる。
この天守曲輪の出入口として、東側に大手である天守門、
西に搦手の埋門を配置している。
天守曲輪は東西56m、南北68mで、石垣の折れ曲がる角度が様々で、
複雑な多角形をしている点が特徴である。
これは自然の山の形を反映した結果と考えられ、
石垣造りの曲輪としては古相を留めた形といえる。
また、曲輪の外周には土塁が巡らされていたと考えられる。
説明板「天守台」
「 浜松城の天守台は、一辺21mのややいびつな四角形をしていて、
西側に八幡台と呼ばれる突き出し部分が付いている。
また、東側に付櫓と呼ばれる張出し部分があり、
現在は復興天守閣への入口として利用されている。
浜松城の天守は、第二代城主堀尾吉晴の在城期(1590頃)に築かれた説が有力だが、
十七世紀の絵図には描かれていないことから、
江戸時代前期には天守が失われていたと、考えられている。
昭和33年に作られた現在の復興天守閣は、天守台の大きさと比べると
小さなものである。
かっての浜松城は、築城時期等から大きな屋根を持つ下層部の上に
小さな望楼が載せられる 「望楼型」 であった説が有力である。
規模は天守台の大きさから推測すると現在よりも一回り大きい、
○重階で巨大な天守だったと考えられる。 」
天守台上部は、安政大地震後と、現在の天守閣建築の際、
積み直されたと思うが、創建当時の姿がよく残されている。
なお、堀尾氏が建てた松江城は、創建当時の浜松城天守を参考に設計された
という。
現在の天守は、野面積みの旧天守台の上に、地上3階、
地下1階建ての鉄筋コンクリート造りで、
福井県の丸岡城を参考に建設された模擬城である。
「天守曲輪の石塁と土塀」 という説明板があった。
説明板 「天守曲輪の石塁と土塀」
「 2018(平成30年)の発掘調査で、天守曲輪南側の内面に石垣が存在していることが明らかになった。
堀尾氏在城期(1590〜1600)に構築された高さ2.2mの野面積みの石垣で、
失われた上部を合わせると3.2mの高さに復元できる。
17世紀の絵図にも石塁がみられるが、高さ1m程度であり、
江戸時代には2mほど埋められていたと考えられる。
絵図では、石塁をはじめとした天守曲輪外周部に、土塁も築かれている。
17世紀の浜松城を描いた絵図では、板葺きの土塀が、
幕末の浜松城を描いた絵図では瓦葺きの土塀が表現されている。
これまでの発掘調査による出土品から、瓦葺きの土塀には、
塀専用に製作された瓦が使用されていたと考えられる。 」
天守に入ると、館内は展示館になっている。
地下には穴蔵があり、その中央部に石組井戸がある。
天守台の井戸は復興天守建設の際残され、今は天守閣の地下室にある。
石組井戸は穴のまわりを石を積んで崩れないようにしたもので、
直径3m、深さは現在1mほどなっており、水はない。
天守閣の最上階からは再建された天守門が真下に見えた。
説明板 「天守門」
「 浜松城の第二代城主、堀尾吉晴は城の中枢である天守曲輪に天守を
建築した言われているが、この天守は古図などの資料から、
江戸初期には喪失していたと考えられる。
天守曲輪入口の天守門は幕末まで維持されたが、明治6年(1873)に解体され、
払い下された。
安政元年(1854)の浜松城絵図には、安政地震による浜松城の被害が
記されており、天守門でも櫓の壁の一部が潰されたものの、
深刻な被害を免れた事が記載されている。
絵図には天守門の外周を土塀で囲んでいる様子が描かれている。
天守門は、門の上部に櫓が載る櫓門と呼ばれる形式がとられている。
天守門のように、櫓が両側の石垣上にのびる渡櫓は、
石垣を多用した西日本の城に多く見られる。
天守門(復元)の概要は次の通り
1.構 造 : 木造・櫓門・入母屋造り、本瓦葺き
2.建築面積 : 78.01u 延床面積 56.74u
3.門 部 : 正面柱間 4.09m、冠木(正面梁)上端高 4.12m
4.櫓 部 : 桁行 10.91m(36尺)、梁間 5.00m(16.5尺)
5.高 さ : 10.28m(門下から櫓屋根の大棟上まで)
6.土 塀 : 木造塀瓦葺き 門の両側約9mずつ
日本続100名城のスタンプは天守の1階にあると聞いていたが、
当日あったのは天守門の櫓内にあった(天守・天守門共通券は200円だが、
スタンプを押すだけならば無料である)。
天守門に入ると、右側に「門下の排水溝」と「天守門の礎石」という
説明板がある。
下に降りて行くと、「若き時代の徳川家康」 の銅像が建っている。
「
家康は二十九歳から四十五歳までの十七年間を浜松城で過ごした。
その中で有名なのは元亀三年(157)の三方ヶ原の合戦である。
武田軍三万に対して家康軍はわずか一万足らず、
これでは勝負にならないと家康は家臣に化けて命からがら、
浜松城に逃げ帰り、城門を開けて迎え討つと、
武田軍はなにかの策があると警戒して、
攻めてこなかったたことで、一死を免れたといわれる。
家康は敗戦直後の意気消沈した自分の顔の絵を描かせ、
生涯この絵を大切にし、敗北を自戒したと伝えられている。 」
天守曲輪の東側の一段低いところにあったのは本丸で、
土塁と鉢巻石垣に囲まれていた。
北側に富士見櫓、東側に本丸裏門、南東隅に菱門、南側に鉄門と多聞櫓があった。
「
本丸には江戸時代の初期に徳川将軍専用の御成御殿があったが、
江戸時代中期には姿を消した。
本丸の東部分は昭和の三十年代(1960年代)に、地形を削リ取る形の造成で、
道路と市役所を造ったため、姿を留めていない。
明治時代の廃城後、富士見櫓、本丸裏門、鉄門と多聞櫓などの
全ての施設が取り壊された。
富士見櫓の石垣は遺構として残されている。
本丸西側は浜松城公園広場になっている。 」
清水曲輪は、天守曲輪を南側に細長く囲んだ帯曲輪で、 天守曲輪を守るため、中土手を持つ空掘があり、東側に清水門があった。 北側は浜松城公園であるが、南側は清水門を含め、市街化された。
説明板「本丸南の空掘」
「 この堀は、天守曲輪を含む本丸一帯の防御機能を高めるために
設けられる空掘でした。
この堀の特徴は、空掘の中央部に土手(中土手)を設け、
起伏(高低差)をつくり出すことで、敵の侵攻を鈍らせ、
鉄砲や弓矢での攻撃をしやすくしたつくりであったと考えられています。
さらに、本丸に近い北東部には袋地のような箇所を設け、
堀の奥まで侵攻してきた敵が塀沿いに移動してきたところを三方(前方、左右)
から攻撃できるように工夫されていたと考えられています。
なお、この堀は公園南側の道路の下にあると考えられていますが、
その大きさ(範囲)については、明確になっていません。 」
以上で、浜松城の見学は終了した。
平成十九年4月二十日(金)の歩きの記述に戻る。
連尺交差点まで戻り、旅を再開する。
江戸時代の東海道は、連尺交差点で、直角に左に曲がり、南に向かう。
浜松宿は、宿場でありまた城下町でもあったが、曲がり角は少なく、ここ1ヶ所のみである。
交差点を左に曲がった右側の谷島屋書店前に、「高札場跡」 の説明板がある。
連尺町からこの先の伝馬町までが宿場の中心で、本陣が六軒もあった(脇本陣はない)
道の反対(左側)の彩画堂と、緑屋装室あたりが、佐藤本陣のあったところである。
道の脇に、 「 佐藤本陣は、二百二十五坪(約745u)の敷地だった。 」、という説明板がある。
道の左奥に、五社神社と諏訪神社があった。
「 五社神社は、遠江国主・久野越中守が、曳馬城内に奉斉し、家康は、その子・秀忠が城内で誕生したので産土神として崇敬した。
天正八年、当地に転座され、社殿が建てられた。
。
諏訪神社は、徳川家康が社殿を造営し、家光が現在地に転座した。
五社神社と諏訪神社の社殿は、国宝に指定されていたが、昭和二十年の空襲で燃失、両神社は合祀され、
現在の建物は、昭和五十七年に再建したものである。
街道に戻ると、右側に浜松信金伝馬町支店がある。
ここは杉浦本陣の跡で、歩道に、「 杉浦本陣は二百七十二坪(約900u)の敷地だった 」 、という説明板があり、敷地内に、 「本陣跡」と刻まれた標柱がある。
右側には、三菱東京証券の赤い看板が見え、その先が伝馬町交差点である。
三菱東京証券のビルが川口本陣の跡で、歩道に、 「 川口本陣は百六十三坪(約540u)の敷地だった 」、という説明板がある。
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伝馬町交差点の左に見える大きなビルは、ZAZACITY(ザザシテイ)西館で、
かっての西武百貨店である。
交差点の地下道を通って、対面の道路左側に出る。
ザザシテイの前に、 「梅屋本陣跡」 の説明板があり、 「 梅屋本陣は、百八十坪(600u)の敷地だった。 国学者・歌人として有名な賀茂真淵(本名、庄助)は、梅屋の婿養子だった。 」 とある。
右に緩くカーブする国道257号線を歩く。
その先の、伝馬町 旅籠町交差点を過ぎると、旅籠町になるが、町並は少し雑然とした感じである。
浜松宿には、九十四軒の旅籠があったので、江戸時代の旅籠が並ぶ姿と客引きは、
さぞかし凄かったことだろう、と想像した。
塩町歩道橋のところに、木挽庵というそば屋があった。
昼には少し早かったが、店に入り、千円なりの天もりそばを注文し、小休憩となった。
汁は少し塩からい感じがしたが、蕎麦は更科系の細麺でこしもあり、おいしかった。
四十分ほどいて外にでた。
二百メートル程歩くと、成子交差点で、国道257号は直進、県道62号は右折の表示がある。
交差点の左手前に、 「夢舞台東海道 浜松宿」 の道標があり、 「舞阪宿まで10.9q」
と、表示されていた、。
東海道は、交差点を右折し、国道257号を渡る。
病院の一角には、 「成子坂泣き子地蔵尊跡」 の標柱があった。
道を挟んだ先には浜納豆の店があった。
県道62号(雄踏街道)を二百メートルほど進むと、菅原町交差点に出る。
東海道は左折であるが、東伊場に賀茂神社があるので、寄り道をする。
真っ直ぐ行くと、五百メートルほど先に、京都上賀茂神社の流れをくむ、賀茂神社があった。
「 賀茂真淵は、賀茂神社の神官の子として生まれ、
京都で、荷田春満(かだのあずままろ)に師事して、国学を学ぶ。
浜松に帰郷して、遠州国学の中心となり、神官・町人や地主層の支持を受けた。
その後、江戸に出て、八代将軍徳川吉宗の次男・田安宗武(たやすむねたけ)に仕えた。
傍らの説明に、境内に県居翁の旧蹟があるとあったが、県居は賀茂真淵の号である。 」
菅原町交差点に戻ると、子育地蔵があり、脇に石仏群が祀られていた。
その先の菅原町の家並みが終えると、浜松宿は終わる。
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訪問日 (東海道 浜松宿の歩き)
平成十九年(2007)四月二十日
(浜松城訪問記) 令和六年(2024)一月十三日