江戸時代、東海道の島田宿から金谷宿への途中に、大井川川越場があった。
大井川には、橋が架けられなかったので、川越人夫の手を借りて、川を渡った。
有名な馬子唄(まごうた)「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」とあるが、
川が増水して渡れなくなった旅人は、幾晩も島田宿と金谷宿に足止めをくらったのである。
JR島田駅から大井川川越遺跡までは、二キロはない。<br>
島田駅前を北に向かい、大通り1丁目交差点を左折すると、三百メートルの右側に、大井神社の鳥居がある。
大井神社は、島田宿の鎮守社で、安産祈願と関わりを持つ、 帯祭が有名である。
その先、大善寺交叉点があり、道の右側には大善寺という古い寺がある。
交叉点を越えると、向島町で、
道を進むに比例し、前面のもくもくと煙を吐く煙突が大きくなる。
この大きな煙突の主は、東海パルプ製紙工場である。
製紙工場は、何故、もくもくと煙りを出さないと、駄目なのだろうか??
以前に比べるとかなり少なくなったが、今も煙を吐き続けていた。
工場の前の信号交叉点で、東海道は、「川越遺跡」 の表示がある、左の細い道に入っていく。
工場に沿った道を進むと、河原町2丁目で、狭い道を直進すると、古い家並みが現れる。
ここが川越遺跡である。
「 川越遺跡は川越人夫が居住していた住宅である。
遺跡といっても、これらの建物の多くは人が住み、
住居として使用されている。
その中の一部の建物は一般に公開されていて、自由に見学ができる。 」
島田宿から金谷宿は、およそ四キロの距離であるが、その半分近くが大井川越えに費やされた。
「 島田宿のはずれを流れる大井川は、水の量が常に変動し、
流れもしばしば変わった。
江戸幕府は、軍事上の理由から、東海道の主要河川に橋を架けなかった。
舟渡しも認めず、すべて、人足による渡しとした。
流水量が多くなると、川止めといって、渡しを禁止したので、旅人は何日も、
大井川の両岸の宿場に逗留をよぎなくされた。
ひどい時には、島田や金谷の旅籠が満員で、その手前の藤枝・岡部、或は日坂・掛川で足止めをくったこともあった、 」
川越えの様子は、 浮世絵 島田宿大井川越 にあるが、 民謡の 「 箱根八里は馬でも越すが 越すに越されぬ大井川 」 と、あるのは、 この様子を物語っている。
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道の右側に、海野晃弘版画記念館、左側に、口取宿 がある。
その先の、○番宿と表示された家が並んで建っているが、これらは川越え人足の詰所である。
「
島田宿が、最初に抱えていた川越人足の数は三百五十人、 幕末には六百五十人もいたという。
それらの人足は、十の組に分けられ、各組にひとつの番宿があり、ここで待機していた。
人足の定年は四十五歳だったが、その後も仕事を続けたい者は、口取宿に詰めて、
人や荷物の各組への割り当てなどの仕事をした。 」
今回訪れると、番宿の多くは、民家として使用されていた。
右側の奥まったところにある建物は、安政三年(1856)に建てられた、 川会所 である。
「 川会所は、川越しの料金を決めたり、川札を売っていたところである。
明治維新で宿場制度が廃止されると、学校になって、場所も移転していたが、
元の場所に近いところに戻して、復元保存されている。 」
境内には、「 馬方は しらじ時雨の 大井川 」 という芭蕉の句碑が建っている。
道の対面には、人足が客から受け取った川札を現金に換える札場があった。
その他に、立会宿や荷縄屋などがあった。
立会宿は、旅人を番宿まで案内する立会人の詰め所で、
荷縄屋は荷縄を売ったり、荷物を積み直したりしたところである。
川会所の隣にある堤は、 島田大堤 といわれるものである。
「 慶長の大洪水で、島田宿が押し流され全滅になったのを受けて建設されたものである。
正保元年(1644)には完成していただろう、といわれる。
高さは、二間(約3.6m)、長さは三千百五十間(約5.7km)という大堤で、向谷水門下から道悦島村境まであった。 」
川会所と島田大堤を通り過ぎると、石垣があり、「せぎ」 と書かれた施設がある。
せぎは、洪水が起きたときに板を挟んで、水をせきとめるものである。
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江戸時代には、ここから先が、川越し場ということになる。
現在は、右側に島田市博物館があり、入館は有料である。
「
一階常設展示場に、大井川越に関するものが展示されている。
渡し賃は水の量や渡し方によって違ったこと、川越人夫は渡し賃以外に酒手ももらったので、
日銭が入り、景気はよかったことなどがわかった。 」
博物館の庭には、芭蕉の句碑が複数ある。
また、道の角に、「夢舞台東海道 島田宿」 の道標があり、「 左宿境 右藤枝宿二里二十二町 」 と記されている。
博物館の反対側にある公園には、 朝顔の松 がある。
これは、盲目の美女・朝顔が、 川止め間に、目が見えるようになった、という芝居にちなんだものである。
その他、家並みの中間あたりに、八重枠稲荷神社がある。
「
八重枠稲荷神社は、宝暦十年(1760)に川越しの事故で亡くなった人々を供養するため建立された。
社殿は、文化九年(1812)と明治三十四年に修繕されたが、礎石は建立当時のままで、
大井川の川石を亀甲形に加工して積み上げたものである。
八重枠の名の由来は、昔ここに大井川の出し堤防があり、増水時には、蛇籠に石を詰めて、杭で固定して、
幾重にも並べ、激流から堤防を守ったことから来ている。 」
ここから少し戻ると、左側の細い道を少しは入ったところに、 八百屋お七の恋人・吉三郎の墓がある関川庵がある。
「
街道から路地を二百メートル入った右側に、小さな建物があり、墓地が見えたのが、関川庵だった。
建物の左側に、「吉三郎の墓」 と表示される墓や石仏があった。
お寺小姓だった吉三郎は、お七処刑後、お七を供養するため全国行脚に出たが、
ここで亡くなったと、伝えられる。 」
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一通り見学が終えたところで、旅を再開する。
博物館の坂を上り、堤防に出ると、越すに越されぬといわれた、大河の大井川 が、
やっと目の前に現れた。
川の流れは、はるか彼方で、下流にはJRの鉄橋が見えた。
上流には、県道の橋などが架かっている。
河川敷は、公園になっているようで、走っている人がいる。
江戸時代には、この先の渡し場から対岸に渡っていった訳だが、現在は、ここから渡ることはできない。
車が走る堤防の道を歩いて、約一キロも上流にある県道の大井川橋まで行く。
橋の手前の少し高い場所に、「水神景迹」 と刻まれた大きな石碑が建っている。
その近くに、 「夢舞台東海道 島田宿」 の道標があった。
いよいよ大井川を渡る。
といっても半端ではない。 橋の長さが約一キロもあるのである。
左側に歩道橋がある。
車と分離した道になっているのはありがたいが、自転車が多いので気がぬけない。
彼等は自分の方が優先すると思っているから、始末が悪い。)
自転車がくる度にこちらが小さくなって避けることになる。
振り返ると、製紙工場からの白っぽい煙りが不気味に出ていた。
川の水は少なかった。
のんびり歩いたこともあるが、橋を渡り終えるのに十五分ほどかかった。
「 越すに越されぬ ・・・ 」 、といわれた、大井川の大きさが実感できた。
「 江戸時代、架橋が禁じられていた大井川に、
明治九年(1876)、川の一部に全長二百三十四メートル、
幅二メートル七十センチ の 有料の木橋が、架かけられた。
その後、明治十六年(1883)に、千三百メートルの木橋が架けられたが、
明治二十九年(1896)の洪水で流された。
その後、船渡しで対応していたが、昭和三年に、三年以上の歳月を経て完成したのが、現在の橋である。 」
渡り終えた左側堤防に、大井川橋碑が建っている。
碑には、 「 昭和三年に完成したトラス橋で、全長1026mなど、土木工学として意義がある。 」
という趣旨が記されていたが、建てて八十年にもなるのに現役なのはすばらしいことである。
大井川は、駿河国と遠江国の国境であった。
橋を渡ると、駿河国から遠江国に入国である。
江戸時代には、川越えを終えた旅人がここから西に向かって歩き始めた。
そんなことを空想しながら、大井川川越遺跡の見学は終了した。
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訪問日 平成十九年(2007)五月二十二日