天保十四年の島田宿は、総家数千四百六十一軒、宿内人口六千七百二十七人で、
三島宿より大きかった。
島田宿が盛況を極めたのは他でもない。
大井川の渡しがあったためで、宿内に、男三千四百人、女三千三百二十七人がいたが、
男子は川渡人足、女子は島田女郎で代表される稼業に従事していた。
有名な馬子唄(まごうた)「 箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川 」 のように、
川が増水して渡れなくなった旅人は、幾晩もこの宿場で足止めされた。
今日は、東海道の島田宿を歩く。
県道381号が通る栃山橋は、大津谷川に架かる橋である。
橋の南の民家の前に、 「栃山土橋」 の説明板がある
説明板「栃山土橋」
「 江戸時代には、この橋が道悦島村と島田宿の境だった。
この川は、島田川とも呼ばれていた。
享保三年(1803)の 「道説島田宿書上書」 によると、
長さ十七間(36.6m)、横幅三間(5.4m)の土橋で、橋杭には三本立て七組で、支えていた。
土橋とは、板橋の上に、柴(しば)を敷き、その上に土を盛ったものである。 」
街道(県道)を西に向かうと、横断歩道橋がある。
その下に、小さな川が流れている。
「
寛永十二年(1635)、島田宿は、田中藩の預り所となった。
田中藩主・水野監物忠善は、 栃山川以東の水不足に対応するため、 灌漑用水路を造ることを計画し、 島田宿南(横井)に、水門を設けて、大井川の水を取り込み、栃山川まで水路を開削して、
流すようにした。
この水路を感謝の気持を込め、農民は監物川(けんもつがわ)と呼び、
東海道に架かる幅三間、長さ二間の土橋を監物橋と呼んだ。 」
少し歩くと、三叉路の御仮屋信号交差点。
左側の直進の道が、東海道なので、ここで県道とはお別れである。
三叉路の手前、左側のの草むらの中に、「夢舞台東海道 島田市島田宿 」 の道標が建っていて、
「金谷宿境まで三十三町(3.6km)」 と、あった。
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島田市は、区画整理や道路拡張が行われたため、古い建物は、ほとんど残っていない様子である。
御仮屋バス停を過ぎる。 この辺りは御仮屋で、新しい住宅が建ち並ぶ。
三叉路は直進、その先で道は狭くなると、島田商業高校前バス停がある。
このあたりは本通り七丁目で、島田商業高校は右側奥の祇園町にある。
本通り7丁目交差点を越えた左側に、島田掛川信金七丁目支店がある。
その前に、「夢舞台東海道 島田市島田宿 」 の二つ目の道標があり、
「 藤枝宿 宿境まで一里三十四町 金谷宿 宿境まで二十四町 」 とあった。
従って、御仮屋交差点から一キロほど歩いたことになる。
商店街を進んで行くと、本通り6丁目の右側歩道に、 「島田宿一里塚趾」 の石柱が建っていた。
道路側には、説明板があり、
「 川会所まで2.4km、 栃山土橋まで1.3km
「 天和年間(1681〜1684)に描かれた最古の東海道絵図の中で、江戸から五十里と記され、
北側の塚しか描かれていない。
幕末の島田宿並井両裏通家別取調帳に、巾五間二尺で、北側のみ、榎の木が植えられていた、とある。 」
と記されていた。
左側に大きな建物は閉店になったジャスコで、 その前に、刀の刃先をイメージした、「刀匠島田顕彰碑」 があった。
「 室町時代初期、助宗や義助という刀鍛冶がいて、この一門は、代々同じ名前を踏襲して、 明治に至るまで高い評価を得ていた。 ここは義助屋敷跡のあたりである。 」
その先には、「問屋場跡」 の石碑があった。
「
問屋場の建物は間口五間半(約10m)奥行五間(9.1m)で、常備人足を百三十六人、
伝馬百匹を常備したが、その内、人足三十人と馬二十匹は特別に備えた予備だった。
また、飛脚(御継飛脚)が十人常駐し、昼夜交代で、御状箱を継ぎ送っていた。 」
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本通五丁目の交差点を越えたお店の前の小さな庭に、 日本最初の私設天文台のあったところという、モダンな形をした石碑が建っていた。
このあたりは、都市整備事業で、すっかり様相を変えている。
少し先の右側に入ったところに、帯祭りの奴が踊り出す、 からくり時計塔がある。
ここは、下本陣の置塩藤四郎家があったところである。
「
島田宿には、本陣が三軒あり、京側から、上本陣の村松九郎治、中本陣の大久保新右衛門、
そして、ここに下本陣があった。
なお、島田宿には脇本陣はなく、旅籠は四十八軒あった。 」
時計塔の通り(おび通り?)を奥に向って歩いて行く。
その先に車道が現れるが、それを横断すると、「御陣屋」 の説明板があり、その先には神社がある。
「
島田宿は、天領(幕府領)で、一時期、田中藩の預かり地などになったことはあるが、
大部分は、幕府から派遣された代官により、管理されていた。
府中城主・徳川頼宣の代官・長谷川藤兵衛長親が、
元和弐年(1616)に建てた屋敷が始まりで、その子・藤兵衛長勝が、
寛永十九年(1642)に、幕府の代官職に任命され、屋敷が御陣屋となり、明治まで続いた。
陣屋の北西(いぬい)の堤上にあったのが、御陣屋稲生神社である。
陣屋の屋敷神として祀られ、年一回の祭礼には、宿民にも開放され賑わった。 」
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先程の街道まで戻り、西に向かって歩くと、信号交差点を越えた右側の天野屋の角に、
「本陣跡」 の石柱が建っている。
中本陣の大久保新右衛門宅の跡である。
道の左側の静岡銀行の前には、「俳聖芭蕉翁遺跡、塚本如舟邸趾 」 の碑がある。
「
塚本如舟は、通称孫兵衛といい、文禄頃、島田で庄屋を務めた名家で、俳人でもあった。
松尾芭蕉は、元禄四年十月、如舟の家を初めて訪れ、次の句を詠んだ。
「 宿かりて 名を名のらする 時雨かな 」
「 馬方は しらじ時雨の 大井川 」
更に、元禄七年五月、彼が最後の旅になる旅の途中、如舟邸に立ち寄り、大井川の
川止めで四日間逗留した。
この時は、
「 さみだれの 雲吹きおとせ 大井川 」
「 ちさはまだ 青葉ながらに なすび汁 」
などを詠んだ。
また、塚本如舟と芭蕉の合作の句もある。
「 やはらかに たけよ今年の 手作麦 (如舟) 田植とともに 旅の朝起 (芭蕉) 」
道の右側のホテル三布袋の前に、「本陣跡」 の石柱があるが、 ここが上本陣の村松九郎治邸跡だろう。
その先の本通り2丁目交差点を左に行くと、JR島田駅である。
交差点手前、右側の島田信金の角に、芭蕉の句碑がある。
「 するがぢや はなたち花も ちゃのにほい 」
島田信金と島田茶組合などが建てたものである。
藤枝から島田、そして、金谷には、多くの茶屋(茶製造業)がある。
2丁目交差点を越えて、更に進むと、本通り1丁目交差点に出る。
左側の角に、石柱の道標があるが、風化していて、よく読めない。
道標文面
「 東 六合村境まで十八町十六間 青島町に至る
西 大井川渡船場迄二十四町六間 川根に通ず
南 島田駅迄一町 第一街青年会 」
渡船場や島田駅が出てくるから、明治以降のものであろう。
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交差点を越えて、西に向かうと、右側に、大井神社の鳥居と社叢が見えてきた。
江戸時代には、大井神社が島田宿のはずれであった。
鳥居の前の燈籠は、飛脚たちが、道中の無事を祈って奉納した、 道中飛脚燈籠 である。
鳥居前から続く石垣は、川越人足たちが、毎日仕事後に、河原から一つずつ石を持ち帰って、
積み上げたものである。
薄暗くなった境内を歩くと、二百八十年前の正徳三年に、
神輿が渡るために造られた石の太鼓橋や、使用した帯を供養して納める帯塚などがある。
その先には、帯祭りの姿をした写真撮影用のボードがあった 。
「 帯祭り(島田大祭)は、元禄八年から始まった大井神社の神事で、
三年に一度、十月中旬の三日間行われる。
島田へ嫁いだ女性が氏子になったという報告と、安産祈願で、 大井神社に詣でるときに、晴れ着で町内を披露して歩いたのが始まりで、
やがて、男たちが代理で、嫁入り道具の帯を飾って練り歩くようになった、と伝えられる。 」
境内の燈籠に明かりが点ると、周りを薄暗く照らし、幻想的であった。
燈籠のともる回廊を歩くと、「大井明神」 と大きく書かれた額がある拝殿に出た。
大井神社の由来
「 大井神社は、三代実録に 「貞観七年、授駿河国正六位上大井神」 と、記載がある古社である。
昔、大井川が乱流し、度重なる災害に悩まされた里民は、
子孫の繁栄と郷土の発展の為に、御守護を祈るべく、大井神社を創建した。
幾たびかの御遷座の後、島田宿が、東海道五十三次の要衝として、宿場の固まった元禄初年、
当地に正式に遷座し、元禄八年より、御しんこいの神事が始まり、
下島(現御仮屋)の旧社地は御旅所と称せられ、日本三奇祭、帯祭と讃えられるようになった。
明治に入ると、政府の命令で、この地区の全ての神社が合祀された。 」、
大井神社は、島田宿の氏神として尊崇された他、大井川川越の公家、大名、一般人が、
大井川渡渉の安全を祈願する為に立ち寄り、深く信仰されたのである。
拝殿の奥の本殿は、文久三年(1863)の造営で、名彫物師といわれた立川昌敬の彫刻が、
各所に刻まれている、とあったが、暗くなっていたので、覗きこんでも見えなかった。
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拝殿を後にすると、清水祓いの神井戸があり、その左には、 大奴像 があった。
夕日が沈みかけていたので、あわてて駅に向かった。
島田駅前の公衆トイレの前に、 宗長庵趾碑 と、三つの句碑があった。
「
元禄年間(1688〜1704)に、島田宿の俳人・塚本如舟が、宗長の昔を慕い、宗長庵を営み、
雅人たちと諷詠を楽しんでいたところで、元禄七年に、松尾芭蕉も訪れている。
連歌師宗長は、文安五年(1448)島田に生まれ、 宗祇(全国に連歌を広めた室町時代後期の人)
に師事し、連歌を学び、宗祇没後は、連歌界の第一人者として活躍した。 」
右側は、宗長歌碑である。
「 遠江国、 国の山 ちかき所の 千句に こゑ(声)やけふ はつ蔵山(初倉山)の
ほととぎす 」 、
真中と左の石碑は、芭蕉に関するもので、真中は、芭蕉翁を慕う 漢文碑である。
その左は、芭蕉さみだれ古碑である。
「 (さみ−欠)たれの (雲ー欠)吹きおとせ 大井川 」 と上の部分が欠落していた。
以上で島田宿の歩きは終わった。
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訪問日 平成十九年(2007)七月三十一日