横須賀城は、徳川家康が武田勝頼が占拠した高天神城を奪還するため、
天正六年(1578)、大須賀康高に命じ、天正八年(1580)に完成した平城である。
城は、武田方が守る高天神城の西方約九キロに位置し、南は海に面していた。
遠江の陸運と海運を抑える重要拠点として
本丸、それと地続きの西の丸を中心に、
松尾山を背景とした北の丸、東に牛池をはさんで、三の丸、
西には二の丸と倉庫、西櫓、馬屋などの曲輪があり、
これらを外堀が囲む構造になっていた。
高天神城を訪れた後、横須賀城跡を訪れた。
当時は海に面した城とあるが、訪れると、海からは三キロ位離れた内陸部にある。
江戸時代に入り、発生した宝永地震で、湊が隆起してしまい、用水路を作って凌いだという。
今は海がはるかに遠くなっている。 」
駐車場には、作業用の車が二台駐車していたが、その間に、説明板があった。
「 ここは本丸南下門跡である。
この区域は、天守台方面に至る玄関のような部分にあたり、
自然の尾根や谷を巧みに利用して、門や塀などの施設により、
厳重に固められていた。
この北側に、横須賀城で最も規模の大きかったと考えられる楼門があったと推定される。
発掘調査で、門が乗る石垣の基礎の石の列や、スロープ跡が出土した。
本丸へ上がる東西の上り路は、発掘調査では検出されなかったが、
検証して位置を決め、上り路を設置した。 」
現在の城跡は、発掘調査を基に、平成七年から平成八年にかけて復元整備したものである。
復元した石垣は、大井川から採取した自然石を使用しているが、
東側角隅の灰茶色の石は、発掘調査で出土した石である。
上り路を上がると、右手に広い空間が広がっている。
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奥に、「横須賀城址」 の石標があるが、ここが、 「本丸跡」である。
石柱の手前に、赤褐色のものがあり、 その前に、 「本丸跡土坑群(昭和63年発掘調査)」 のプレートがある。
プレート文面
「 土坑とは、色々な用途のために、地面に掘られた穴のことである。
この土坑からは、十七世紀から十八世紀初頭にかけての陶磁器類などが出土している。 」
「横須賀城址」 の標石の手前に、 「天守台跡」 の木柱がある。
その右手奥には、一段高く石垣で囲まれた土地がある。
、
その上には、礎石群があり、かって、ここに建物があったことを示している。
その奥には、更に一段高く土塁が築かれている。
「天守台跡」 の木柱の下に、 「土塁(昭和63年発掘調査)」 というプレートがあった。
プレート文面
「 土塁とは、外敵の進入を防ぐために小高く築かれた土手のことである。
この土塁の上には白壁の塀があったようである。 」
かつて、ここには三層四階の天守があった。
ここはその天守台跡で、
二段の玉石垣と礎石群が再現されているのだろう。
その南に横須賀城の立体図があった。
本丸の西は、「西の丸跡」である。
空地には桜の苗木が植えられていて、句碑もあった。
「 西の丸の西には、江戸時代には二の丸などがあったが、
今は住宅と田畑になっている。
徳川家康は、この城を本陣にし、周囲の三井山・山王山・宗兵衛山などに、 六つの砦を築き、
高天神城に籠る武田勢の兵糧弾薬の搬入を遮断したため、
天正九年(1531)三月(1581)、 高天神城は落城した。
家康は、山城の高天神城を廃城にし、
横須賀城を遠江東部から駿河への進出の拠点として整備した。
江戸時代に入ると、横須賀藩が立藩し、 大須賀氏・能見松平氏・井上氏・
本多氏と、 城主が変わったが、
西尾氏が城主に任じられてからは、八代続き、 明治維新を迎えている。 」
明治まで残っていたという横須賀城であるが、
今残っているのは、本丸と西の丸・北の丸の石垣、堀、土塁等の一部だけである。
その区域が、公園として整備され、国の史跡に指定されている。
本丸南下門跡から、東(右)に向うと、道路に面したところに、池がある。
このあたりに大手門があったようである。
大手門付近は、完全に住宅地化している。
池は三日月池である。
説明板「三日月池北側中段の遺構」
「 当時の絵図には、本丸東端部から三日月池方面に下るスロープ状部分と石垣が描かれている。
この一帯は平成五年から八年にかけて行われた発掘調査で、
東西七・七メートル、南北は西側で三・三メートル、
東側で二・六メートルの範囲一面に、
直径四センチほどの黒色の玉砂利が敷き詰められていた。
その玉砂利を縁取りするように、
長径十センチから二十センチの灰茶色の丸石が二列に据えられていた。
この二列に並んだ石列は、建物の壁となる基礎の地覆石と考えられる。
玉砂利敷は建物内の土間ではないかと考えられる。
また、北側の本丸斜面下からは、
長径六十センチほどの玉石を据えた全長六メートルの石垣の基礎となる、
石の列が発見された。
玉砂利の遺構は地下に埋めて保存した。 」
北側の本丸斜面の石垣は、本丸の上面まで八メートルの高さの高い石垣として、
復元されたものである。
本丸の裏側(北)に向うと、 北の丸跡があり、今は広場になっている。
本丸の背後にあったのは、北の丸と松尾山である。
「 松尾山には、池があったらしく、水の手であったと同時に、
本丸背後の防御に重要な役割を果たしたようである。
当時の絵図を見ると、北の丸には、倉庫を考えられる建物が四棟描かれている。 」
北の丸跡は広い空地になっている。
説明板
「 建物跡の遺構と考えられるのが、 北の丸建物跡石列遺構 である。
これは、 建物の仕切壁が乗る地覆の石列と考えられる。 」
、「溝状石列遺構」 の説明板には、
「 北の丸平坦部の北端に造られていることから、一帯の排水溝と考えられる。 」
とある。
横須賀は、今は、浜岡発電所も近い静かなところだが、
戦国時代には多くの兵士がひしめいていたと思うと、
不思議な気がした。
以上で、横須賀城跡の見学は終了である。
所在地: 静岡県掛川市松尾町
横須賀城へは袋井駅からバスで20分
掛川駅からバスで55分
東名袋井ICから車で20分、掛川ICからは車で30分
訪問日 平成三十一年(2019)三月一日