高天神城は、標高百三十二メートルの山頂に築かれた山城である。
海がある駿河国進出を目指す武田氏と、駿河が欲しい徳川氏により、
攻防が繰り広げられた戦国時代の山城である。
続日本100名城の第147番に選定されている。
高天神城の概要
「
高天神城の築城の時期は定かではないが、
明応から文亀年間、駿河の守護・今川氏の家臣・福島氏が、遠江の斯波氏へ対抗するため、
築城したとされる。
福島氏は天文五年(1536)の花倉の乱により没落し、
その後は、今川氏に服属した、国衆・小笠原長忠が、城代となった。
永禄三年(1560)の桶狭間の戦いで、今川義元が討死すると、
永禄十一年(1568)、甲相駿三国同盟を破棄した武田信玄は、
三河の徳川家康と同盟して、駿河侵攻を開始し、
今川氏真を遠州掛川城に追いやり、今川氏は滅亡する。
その際、西から進出してきた徳川家康が高天神城を占領し、
今川方の属将・小笠原長忠をそのまま城将として置いた。
まもなく、武田・徳川両氏は敵対関係に入る。
駿河と遠江の国境近くの高天神城は、両者の争奪戦の舞台となる。
信玄は元亀二年(1571)、遠江に侵攻し、高天神城を攻めたが、
城の守りが堅いのを察し、兵を引く。
信玄が没すると、その子・武田勝頼は、天正元年(1573)、遠州へ進出を開始する。
天正二年(1574)、徳川の属将・小笠原長忠が守備する高天神城を二万の大軍で囲んだ。
小笠原長忠は、匂坂牛之助を浜松城に派遣し、徳川家康に援軍を要請した。
家康は、単独での軍事行動は無理と判断し、同盟する織田信長に援軍を求めた。
しかし、信長は援軍を出さないため、一ヶ月あまりの包囲された後、
小笠原長忠は、穴山信君の講和に応じて開城し、長忠は武田側に降りた。
高天神城の守備に当たっていた大須賀康高らは、徳川勢に残り、
浜松城を目指して落ち延びた。
これにより、徳川家康は、東遠江の支配権を失う。
余勢を駆った武田勝頼は、翌天正三年(1575)、長篠設楽ヶ原で、徳川織田連合軍と決戦するが、、
勝頼軍は徳川織田連合軍に大敗を喫する。
家康は高天神奪還の行動を開始し、馬伏塚城を本陣にて高天神城を監視し、
天正六年(1578)には横須賀城を築城して本陣とし、
周囲の三井山、山王山、宗兵衛山などに付城として六砦を築いて、
武田勢の兵糧や弾薬の搬入を遮断した。
この兵糧攻めの効果は大きい。
天正八年(1580)秋、城将・岡部真幸は、躑躅ヶ先館の武田勝頼に、援兵を求める密使を派遣したが、
受け入れられず、
翌、天正九年(1581)三月、援兵を断念した岡部真幸は、
早暁に城門を開け放ち討って出るが、城兵七百余人が討ち死に、真幸も戦死した。
家康は武田氏への前線基地を横須賀城に移し、高天神城を廃城にした。 」
高天神城は、公共交通手段は弱いので、レンタカーで、訪問した。
最初に、続日本100名城のスタンプが置かれている、大東北公民館(掛川市下土方267-1)に立ち寄った。
スタンプを押して、十分程車を走らせると、城跡北側の駐車場に到着した。
ここは高天神社の駐車場でもある。
「 高天神城へは北口駐車場の搦手門側と、南駐車場の大手門からの登城道がある。
それぞれの登城道は整備されていて、
どちらから登っても、本丸をはじめ、全ての曲輪を見て回ることができる。 」
北口駐車場にある鳥居近くに、 「搦手門跡」 の表示板がある。
「 搦手は城の裏口にあたり、元亀年間から天正二年(1574)まで、 渡辺金太夫が、城兵二百十余人を率いて守っていた。 」
山道を登っていくと、山を切り開いた切り通しの道で、この城には石垣はなく、 すべて土塁で造られていた。
「 高天神城は、掛川駅の南南東へ、約八キロの菊川下流域の平地部から、
やや離れた北西部に位置する、標高百三十二メートルの鶴翁山の山頂に築かれた山城である。
急斜面と絶壁に囲まれた天然の要害で、城郭全体の面積もそれほど多くないが、
山自体が急斜面で、かつ、効果的な曲輪の配置が施されたことで、
堅固な城郭を形成し、石垣はなく、多くの土塁が曲輪の周囲を取り囲み、
掘割も設けられていた。
また、急斜面の山であるために、通路以外からよじ登ることは困難だった。 」
搦手門跡 から少し上ると、左側に、三ヶ月井戸 がある。
「 天正二年(1574)七月より籠城した武田軍が飲料水を得られるように、
水乞いの祈願を込めて、井戸を造ったと、いわれる。
武田氏が風水から作ったといわれ、今もわずかだが、岩壁からしみ出す水が絶えない。 」
登りきったところは、東峰と西峰との尾根で、ここには井戸曲輪が、築かれていた。
「 高天神城は、標高百三十一メートルの東峰と、百二十八メートル西峰が独立していて、
尾根の井戸曲輪でつながる構造であった。
これは、 一城別郭式 と呼ばれるもので、中心となる曲輪群が二つあり、東峰と西峰、
それぞれの曲輪が独立した主曲輪を構成していた。
もともとは、東峰だけの城郭だったものを武田氏が拡張し、
西峰に城を拡張したが、山が険しく、面積の広い曲輪が作れず、
その地形ゆえに、大掛かりな普請が行われた形跡はなく、
戦国末期まで使用された城としてはシンプルな構造である。 」
井戸曲輪では、かな井戸で、飲料水を得ていたようである。
「
かな井戸は、鉄分を多く含んでいたことが名の由来か?
武田軍が城攻めの際、井戸の水脈を切ったともいわれ、
そのためか今は水がでない。 」
鳥居の下に、小さな社(やしろ)の 「尾白稲荷」 が祀られている。
「 尾白稲荷の祭神は、正一位尾白稲荷大神で、
今から千六百年前、この地に、 護国長寿の神 として来臨。
その後、当山での修験者、藤原仙翁の下僕として、付近一帯を守ってきた。
戦乱の世、尾の白い狐の姿を見せたため、
三の丸の大将・小笠原よ左衛門が、射止められた。
その後、四百年を経て、昭和六十二年、 ここに、尾白稲荷大神として祭祀された。 」
鳥居の下に、 「道標」 があり、右手の細い道を上っていくと、 西峰の北方にあるのが、 「二の丸跡」 である。
井戸曲輪跡 | 尾白稲荷 | 二の丸跡 |
その先には、「袖曲輪跡」 の表示板があった。
引き返したところに、 「丸尾兄弟の墓」 は下に と表示された道標があるが、
北に突き出していたのは、「堂の尾曲輪」で、丸尾兄弟の墓がある。
「 ここには、堀切・横掘・竪堀(堀切)が造られていて、
その先に、 井楼曲輪 があった。
横堀は尾根筋に沿って、横方向に続く掘で、
緩斜面からの敵の侵入を遮断するものである。 」
鳥居の先の石段は急で、石段を登って、先の左に 「西の丸跡」 の標柱があり、 社務所が建っている。
更に石段を登ると、高天神社の社殿がある。
「 高天神社は、 高天神城の守護を担う神社として創建された。
、
江戸時代に入ると、高天神城は廃城となったが、
高天神社は、高天神山に残され、地域の住民の信仰を集めることとなった。
祭神は、高皇産霊尊、天菩毘命、菅原道真の三神で、
社名の天神も、 天神である菅原に由来する、と考えられる。 」
「西の丸跡」 の標柱の左に、「堀切」 の標柱があある。
そちらにいくと、堀切 になっていて、
堀切に下って、対岸に行くようになっている。
堀切は、雑木が生えているため、当時の様相を変えているが、
木がなければ迫力がすごいだろう、と思った。
堀切にある、「切割」 の標柱には、
「 尾根伝いに攻めよせる敵兵を防ぐために作ったもの。 」 とある。
「 切割は、尾根上を進攻してくる敵軍を遮断するために、
尾根をV字状に切り開いて、通行を不可能にする施設である。
平時は、丸太等の簡素な橋を架けて通行し、いざ戦いになると丸太を落し、
通行を遮断する。 」
高天神城では、石垣は築かれず、多くの土塁で曲輪の周囲を取り囲み、
掘割も設けられていた。
この場所では、尾根続きの道を分断するために、高低差のある切割を作ったのである。
高天神社 |
堀切の先は空地nなっている。
海が見渡せられるところに、「馬場平」 の標柱と「御前崎方面」 の看板がある。
「 三方が断崖絶壁で、ここから先は城外で、 ここに見張番所が置かれていたという説があり、 番場が馬場に転じた可能性があるという。 」
その先には鬱蒼とした林が続く。
その中に、小道があるが、
これは、甚五郎抜け道と呼ばれる尾根続きの険しい道である。
「 天正九年の落城時、軍監・横田甚五郎尹松が、 武田勝頼に高天神落城を伝えるため、 城からの脱出に用いた、 「犬戻り猿戻り」 といわれる、峻険な尾根道である。 」
鏡曲輪まで戻り、今度は東峰を登る。
「左上る 大河内石窟 御前曲輪」 の標柱がある。
当時はここに門や柵を作り、木戸があったといわれる。
林のようなところに入ると、「的場曲輪跡」 の標柱が建っている。
「 この場所は、弓矢の練習をしていたところといわれる。
発掘調査で、砂利が敷きつめられていたことが確認された。
これは重いものを置いても沈まないようにするため、
あるいは、鉄砲の弾薬を置いた場所で、湿気防止ではないかと、思われている。 」
少し歩くと明るいところに出る
ここには、 「大河内政局石室道入口」 の標柱がある。
「 天正二年(1574)、高天神城は、武田勝頼により、攻め落とされ、
城主の小笠原長忠は武田方に降り、
城兵は、南西に分散して退去し、武田方武将・横田尹松が、城番として入城した。
小笠原長忠の家臣・大河内政局(まさちか)は、降伏せずにいたので、
本丸下の石牢に閉じ込められた。
天正九年(1581)、家康腹心の榊原康政・
本多忠勝らが、 武田軍が守る高天神城を猛攻撃し、
城の弱点である西の丸を破って城内に突入、 ついに高天神城を奪い返した。
この時、城内の石牢には、小笠原長忠の家臣・大河内政局(まさちか)が、
天正二年に落城後も、一人、 武田方に属せず、
八年間幽閉されていた。
家康は、政局の忠節に感銘を受け、恩賞を与え、家臣にしたという。 」
道標 (木戸跡) | 的場曲輪跡 | 大河内政局石室への入口 |
右に行くと、「土塁跡」 の標柱があり、
「 曲輪の入口を虎口(小口)といい、その残部である。 」 と書かれていた。
ここは北方の土塁で、南西にも土塁が残っている。
これらの土塁で囲まれていたのが、 本丸 である。
「本丸跡」 の標柱には 「 天正二年、勝頼が高天神城を攻めた時は東曲輪と呼ばれていたと思われる。 」
と書かれていた。
東峰の一番高い所にあったのが本丸で、城内で一番広いスペースをなしていた。
本丸南の土塁の上に、「元天神社」が祀られている。
廃城になった後の、 江戸時代中期に、 村人により、慰霊碑が建立されたが、
その頃、ここに勧請されたものと思われる。
「 高天神山は、平安時代から修験道の修行の場として神域だった。
天神の名も、天神社によるもので、もともと、ここに、 高天神社が鎮座していた。
八代将軍吉宗の時代に、 現在地の西峰に遷座されたので、 元宮と呼ばれている。 」
その南にあったのが、 御前曲輪である。
城主・小笠原与八郎長忠夫婦のイラストが、愛嬌のように、置かれている。
「 小笠原長忠は、 今川 → 徳川 → 武田 と、 領主が代わる度に、
降伏して、臣従してきたが、最後の判断を失敗して、歴史から姿を消した。
攻める側に立つと、それだけ高天神城が重要であったといえる。 」
東峰は、周囲をほぼ絶壁で守られ、曲輪を雛壇状に配置していた。
急斜面の山であるため、通路以外から、よじ登ることは困難だった。
御前曲輪の南下にあったのが、 三の丸跡である。
元天神社の鳥居から下ったところにある、「道標」 には、「トイレ(三の丸跡)」 とあり、
トイレの案内に沿って進むと、結構広い土地に出る。
屋根を無くした小屋があり、「土塁跡」 の標柱が建っている。
「 三の丸は城の南端に突き出した曲輪で、
樹木が繁茂し、視野は狭いが、 遠州灘が見通せる見晴しである。
小笠原与左衛門清有が大将だったことから、 左衛門平 とも呼ばれる。 」
展望すると、手前に小さな小山があるが、
その先は平地で、その先に海があり、遠州の塩の産地でもあった。
海のない甲斐国の武田氏にとって、海運業や製塩業を手中に
納める重要な拠点であったことはよくわかった。
高天神城の探訪は以上で、終了した。
高天神城へはJR東海道新幹線・東海道本線掛川駅から、 しずてつジャストライン「掛川大東浜岡線浜岡営業所行きまたは大東行き」に乗り、 土方バス停で下車、徒歩約15分で、追手門口に到着する
訪問日 平成三十一年(2019)三月一日