今日は、清水駅から、東海道の江尻(えじり)宿 を見学後、清水港周囲に訪れる予定である。
江尻というとなじみが薄いが、次郎長の住む清水港(しみずみなと)は有名で、
江尻宿は、駿河国では、府中宿に次いで、大きな宿場だったのである。
「 江戸幕府は、慶長六年(1601)、東海道を開設した際、江尻の町の中に、
東海道を通して、宿場町とした。
その後、慶長十二年(1607)に、宿場の西端に近い巴川に、橋を架けたことで、
東の辻村の木戸から西の入江町の木戸までの二キロの宿場町になったのである。
江尻宿の家数は千二百四十軒、住民は六千四百九十八人で、駿河国では府中宿に次ぐ、二番目の大きな宿場であった。
本陣が二軒、脇本陣が三軒、旅籠が五十軒である。 」
◎ 江尻宿
JR清水駅の西口から西に進むと、江尻東交差点がある。
交叉点を北・南に横断する道が江戸時代の東海道である。
交叉点を右折して、北に向かい、辻町交叉点に出た。
三叉路の中央に、「無縁さん」 の碑と、 「夢舞台東海道 細井の松原、」 の道標があった。
「 元禄十六年(1703)には、ここから江尻宿の入口、
現在の矢倉町通り交差点までの全長百九十九間二尺(約360m)の間に、
二百六本の松の木があり、細井(ほそい)の松原 と呼ばれ、
松原では松原せんべいを出す茶屋があった、という。
第二次世界大戦の時、飛行機の燃料にするための松根油をとるため、
伐採されて、一本もなくなってしまった。
ここにある一本は、平成になって植えられたものである。 」
旧東海道は国道1号線と別れて、右側の道に入る。
「 このあたりは、江戸時代には辻村で、百十戸の家があった、とされるところである。
現在は、辻町三丁目になっているが、古い家は一軒も残っていなかった。 」
矢倉町通りの交差点を過ぎると、数は少ないが古い家が残る。
その一軒の連子格子のすばらしい家の屋根から、SEIYUのネオンが見えた。
その先の信号交差点が、江尻東交叉点である。
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江尻東交差点付近は、江尻東商店街で、江戸時代には傳馬町と呼ばれた。
江尻東商店街には、古い家は一軒も残っていなかった。
南下すると、銀座商店街となり、前方に、東海道本線の緑色の鉄橋が見えてくる。
東海道は、それより手前で曲がるが、そのまま行くと大正橋がある。
右側に水神社があり、神社隣の公園には、昔の稚児橋の親柱が残されている。
街道に戻る。
江尻宿も宿場特有の鉤型になっていた。 今は」その形は残っていないが、
銀座町の交叉点手前の右側に、高級英国生地・テーラー雀荘(ジャクソウが)がある。
麻雀屋と勘違いするが、れっきとしたオーダーメイドの洋服屋さんで、その角を右に曲がる。
「 江戸時代には、ここが鉤型になっていたようである。
その先に、志茂町・仲町・魚町などの町があり、
本陣が二軒、脇本陣が三軒、旅籠が五十軒が軒を並べていた。
今は、宿場町時代の面影はまったく残っていない。 」
左側の洋菓子喫茶富士と、駐車場の前には、 「夢舞台東海道 江尻宿」 の道標が建っている。
「 その先の交差点の左側あたりに、江戸時代には羽根本陣があったように思われる。
羽根本陣の先には大竹屋脇本陣があり、その反対の手前には田中屋脇本陣があった。
江戸時代には、ここには現在のような道は存在しなかったので、
本陣の跡に道が作られたという前提での話だが・・ 」
寺尾本陣は、五年ほど前には、 銀座ガレージ寺尾 という駐車場になっていたが、 今回訪れるとその表示がなく、その場所は確認できなかった。
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道の左側にあるおもちゃ屋・富岡屋の前に、「江尻宿」の説明板が建っている。
図面でみると、手前の駐車場あたりが、寺尾本陣があったところに思えるが・・・
左側の履き物屋、西村屋あたりが、江戸時代には鉤型になっていたところで、
ここを左折するのが、東海道である。
そのまま直進すると、魚町稲荷神社があった。
神社の由来
「 江尻の歴史は、今川が支配していた頃に始まり、最初は三日市場として栄えていたが、
永禄十二年(1569)、武田信玄が進出し、その翌年、現在の江尻小学校の敷地に、
江尻城を築いたことから、城下町が形成され、職人の町として発展して行った。
天正六年(1578)、当時の城将・穴山梅雪が、城を大改築して、本格的な城にした。
そのとき、城内に祀ったのが、この神社である。 」
街道に戻り、東海道を歩くと、巴川に架けられた、稚児橋がある。
「 慶長十二年(1607)に架けられたときは、江尻橋と言ったが、
渡り初めの日に、人が川を渡ろうとすると、 川の中から童子が現れ、
橋脚を登ると入江方向に消え去ったことから、 稚児橋に変わった、と伝えられる。
現在の橋は、昭和六十一年に、架け替えられたものである。
橋の親柱四隅に、河童の像がのっているのは、童子は巴川に住む河童だったといわれることから、
である。 」
橋の中間にあるレリーフは、河童が蕗の葉を雨よけにして歩いている姿だが、大変愛嬌があった 。br>
橋を渡ったところには、江戸時代には高札場があり、
船の難破や破損時などの取り決めごとなどを書いた、 船高札 が立てられていた、という。
稚児橋を渡ると、江尻宿は終わる。
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◎ 清水港
清水港は 近そうに思えたので歩いていったが、 思ったより遠かった(駅前からバスで行った方が時間短縮できるし、 料金も百円と安いのでお得のようである)
日の出埠頭は、小生が期待したような大きな港湾施設ではなく、
県警の船が係留される程度の小さなものだった。
でも、フェルケール博物館に寄れたのはよかった。
「
フェルケール博物館は、人と海の交流のステージともいえる港に、
スポットを当てたミュージアムである。
こうしたものをテーマした博物館はあまりない。
清水港に限定しているので、インターナショナルでないため、
展示物が限定され、スケールが小さいのが惜しいが・・・
小生のように物流の仕事を経験したものには面白い博物館だが、一般向けするテーマではないので、入場者は限定されるだろう。
なお、フェルケールはドイツ語で交通、交際を意味する言葉である。
(入場料400円、9時30分〜16時30分、月曜日は休館) 」
港橋のところに、清水港船宿記念館があった。
清水次郎長が、明治十九年に営業を開始した船宿 ・ 末廣を再現した建物である。
(無料、10時〜18時、月休)
室内では、次郎長が清水港の振興に尽力した晩年の姿を紹介していた。
橋を渡り、左側の通りに入ると、股旅姿のイラストの次郎長通り商店街があった。
商店街を歩くと、左側に、 次郎長の生家があった。
「
戦後、広沢虎造の浪曲で有名になった清水次郎長の本名は、山本長五郎といい、
伯父の米問屋山本次郎八の養子になった。
二十歳の頃から遊侠の世界に身を投じ、次郎八の長五郎から、通称、
次郎長となり、やがて東海道一の大親分となった。
明治維新後は、山岡鉄舟・榎本武揚らの知遇を受け、
明治政府から、清水の治安を任されると共に、英語塾を開設したりして、清水港の振興に尽力した。
また、三保の開発や富士山麓の開墾など、人のために、身命をささげ、
明治二十四年、七十四歳で亡くなっている。 」
少し歩いた先にある梅陰禅寺には、子分や妻のお蝶らの墓に取り囲まれた、次郎長の墓がある。
「
大政小政の墓には、 「 壊さないでください。 」 と注意書きがあった。
賭け事にこの墓石や遠州森町の石松の墓石のかけらが幸運をもたらすと、信じられているようである。 」
以上で、清水港の見学もは終わった。
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訪問日 平成十九年(2007)六月二日