丸子宿は、鞠子とも麻利子とも書かれたようで、
最初は丸子川の向こうの山側にあったが、東海道のルート変更により、手前に移された。
この宿場の名物はとろろ汁で、東海道中膝栗毛にも登場する。 」
JR静岡駅からバスで丸子に向かい、佐渡(さわたり)バス停で降りた。
東海道(県道208号線)の右側に、道路に突き出した建物がある。
「駿河一国百地蔵第十番」の看板があり、子授地蔵尊を祀る地蔵堂である。
道の反対には、 「夢舞台東海道 丸子宿」 の道標があり、 「 府中宿境から 二十一町(2.3km)、岡部宿境まで 二里九町(9km)」 と、 書かれている。
その奥に入ると、左側に歌碑、中央奥には佐渡公民館がある。
左側にある歌碑は、万葉仮名で刻まれた、
「さわたりの手児(てご)万葉歌碑」 である。
「 江戸時代には佐渡村だった地区の人達が、
丸子1丁目に変ることを惜み、碑を建設したものである。
碑の上部には、万葉集巻第十四あずま歌から、佐渡にかかわる歌を、万葉仮名で書き、
下部には、「 さわたりのてごに い行き逢い 赤駒が あがぎを速み こと問はず来ぬ 」 と記され、
( 佐渡の美しい少女と道で行きあったが、私が乗っていた赤馬の足が早いので、
ろくに言葉も交わさず来てしまった。 」
という、解説が書かれていた。
県道を丸子の中心部に向って、しばらく歩くと、道は右にカーブしていく。
左側に静岡銀行やバスの営業所と車庫があり、両側は商店街になっている。
このあたりは丸子二丁目である。
「
丸子宿は、鞠子とも麻利子とも書かれたようで、
文治五年(1189)に、源頼朝が、奥州平定で功があった、 手越(てごし)平太家継に、丸子一帯を与え、宿駅を設けたのが始め、といわれる。
当時の宿駅は、この先にある丸子川を越えたところにあった。
江戸幕府は、慶長六年(1601)の東海道開設の際、丸子宿を丸子川の東側(丸子川の手前)に移動させた。
変更は、元宿の地が狭いことや安倍川を渡ることを考えてのことだろう。 」
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江戸時代の丸子宿の長さが東西七町だったとあるが、江戸側の入口は、どこにあったのだろうか??
七町とは、七百七十メートルであるので、現在の丸子の中心の商店街である、丸子四丁目付近にあったとは考えづらいのである。
商店街を通り過ぎると、左側に、長田西小学校がある。
学校の前に、東海道の名残りの松と思えるものがあった。
その先の右側の道脇に、小さな石柱があり、道路に向って、「いちりづかあと」
、と刻まれていた。
少し行くと、左側の菓子屋徳栄堂の前で、道幅が半分になる。
丸子宿の江戸側の見付は、枡形になっていた、とあるので、このあたりが、
そうではないだろうか、というのが、小生の推理であるが・・・
少し歩くと、右側にかなり古い家があった。
その対面の小高いところに、水神社があった。
水神社の隣の家の先は、道に沿って石垣になっていて、
上り口に、馬頭観音が祀られていた。
このあたりは、古い家も残っているのだが、道幅はせまいのに車が多いので、
ゆっくり見ていられないのは残念である。
道が右にカーブすると、左側の民家の一角に、「明治天皇御小休止趾」 の碑が
建っている。
明治天皇が、明治元年の東京遷都の折りに立ち寄った脇本陣の跡である。
。
「 丸子宿は、日本橋から二十番目、府中宿から一里十六町(約5.7km)、西は宇津ノ谷(うつのや)峠を越えた、岡部宿まで二里(約8km)のところに出来た宿場である。
東海道宿村大概帳によると、宿内の家数二百十一軒、宿内人口は七百九十五名だった、とある。
山越えや川越えを控える場所なので、かなりの需要が望めそうに思えるのだが、
旅籠は二十四軒と多くない。
府中が、東海道屈指の大都会なため、そちらに泊まる人は多かったからである。 」
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脇本陣から五十メートル程歩くと、右側の民家前に、「史跡丸子宿本陣跡」 の石碑が建っていた。
ここは、横田本陣の跡で、右隣の二軒の古い家のあたりに、問屋場があったようである。
五十メートル歩くと、右側に、 「明治天皇御小休所阯」 の碑がある。
藤波脇本陣の跡で、明治弐年、明治天皇が立ち寄られたところである。
その先右側のお茶製造業の家前に、 「お七里役所」 という石柱が建っている。
紀州藩が設けた、 お七里役所 という、藩専用の飛脚が駐在した場所である。
少し歩くと、左側に茶屋松福園、右側には駐車場があり、御土産屋がある。
店の左側の植栽の中に、「清酒 千寿白拍子」 の説明板がある。
「 白拍子だったといわれる千寿の前は、重衡処刑後は尼となり、
磐田に住んで重衡の菩提を弔った。
その故事にちなんで名付けられた酒の宣伝である。
一生懸命読んだ後で宣伝だと分った。 」
看板裏にある芭蕉句碑には、
「 梅わかな 丸子の宿の とろろ汁 」
と刻まれていた。
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その先には、「駿府築城時に切り出された石の残り」 という辰石や、馬頭観音があり、その右手に、十返舎一九の碑がある。
「 十返舎一九の東海道中膝栗毛では、
弥次喜多がここに立ち寄り、夫婦喧嘩のどたばた騒ぎに巻き込まれ、
「 けんく(喧嘩)する 夫婦は口をとがらして 鳶(とんび)とろろに すべりこそすれ 」
という狂歌を詠んでいる。 」
となりの茅葺き屋根の家は、広重の東海道五十三次の浮世絵に、「丸子、名物茶屋」 として登場する、とろろ汁の丁子屋である。
「 慶長元年(1596)の創業から四百年以上にわたり、
とろろ汁をだしてきた老舗で、現在の店主は十三代目という。
営業時間(11時から19時ー木曜日は休み)まで三十分も待たないといけない。 」
半自動の戸を開けると、土間で椅子席になっている。
畳の方がよいというと案内されたのは大広間。
鴨居には、東海道五十三次の浮世絵が架けられていた。
メニューからマグロの角煮が付いたとろろ定食を頼んだ。 千五百円なり。
七月末の平日とあって、団体客もなく、思ったより早く出てきた。
「
とろろ汁は、自家栽培された自然薯をすりつぶして、出汁で薄めたものだが、
他と違うのは白味噌を隠し味にしていることという。
それを麦飯の上にたっぷりかけていただくのだが、
付いてきたあさつきのきざんだものをかけて食べたのが、一番うまかった。
お櫃の飯と、出されたとろろを平らげて、終了した。 」
丁子屋の前に流れる丸子川の縁に、「夢舞台東海道 静岡市丸子宿」 の道標が建っている。
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その先の二股で、右側の道を行くと、十メートル先に、
松の木などが植えられているポケットパークがある。
ここに、細川幽斎の歌碑が建っている。
「 人数には たれをするかの 丸子川 けわたす波は 音はかりして 」
「 細川幽斎(藤孝)は、戦国時代の武将で、
肥後細川藩の始祖・細川忠興の父である。
古今伝授を授けられた有名な歌人でもあった。
天正十八年(1590)三月八日、豊臣秀吉の小田原攻略の先陣として、
うつの山路を越えて、ここに差し掛かった時、地元の人が「 まりこ川 」 と、
いうのを聞いて、詠んだ歌といわれる。 」
細川幽斎の歌碑を過ぎると、国道1号に出る。
国道を西に進み、左にカーブしていくところ、「駿府匠宿入口」交叉点で、右折する。
国道1号バイパスの道路が見えると、「駿府匠宿」 という建物がある。
カーブを曲がった左側の建物の間に、「丸子城入口」 と書かれた看板があった。
そのまま直進すると、とろろ汁の看板をかけている店が多くあった。
川に沿った道を進むと、右側に駐車場があり、吐月峰柴屋寺 に到着した。
柴屋寺の山門のあたりはじめじめとして薄暗い。
傍らの案内文
「 吐月峰の名で知られる連歌師・柴屋軒宗長(さいおくけんそうちょう)は、 駿河で生まれ、連歌師の宗祇に学び、上京して大徳寺の一休に師事した。
その後、應仁の乱の頃に、この地に戻り、今川氏親に仕え、連歌師として有名をはせた。
天柱山 吐月峰芝屋寺(とげつほうしなおくじ)は、連歌師宗長が、
永正元年(1504)、草庵を結び余生を送った所である。
山門をくぐり、寺の玄関で入場料を払おうとしたが、人がいないので、大声でお願いします、と叫んだ。
出てこられた僧に三百円を払い、本堂に上がった。
寺というより別荘という雰囲気で、茶室もある。
現在は、寺といっても、仏事は行なわず、歌会や俳句等の集いの場となっているようである。
庭の外の山は、京都嵯峨から移植した竹林に囲まれており、ここで作られた竹細工は、
吐月峰(はいふき)のいう名が付けられ、名品として販売されている。
宗長は、京都銀閣寺を模した庭園を築いた。
本堂の開けられたガラス窓の外には、庭園が広がっていた。
無人の縁側で、しばし物思いにふけてから、この寺を後にした。
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(ご参考)柴屋寺の誕生
「
連歌師宗長が、若い頃は、応仁の乱により、京都だけではなく、地方でも、
下克上のきざしが強くなっていた。
駿府においても、今川の内訌が起きていたが、今川氏親は、難を避けるため、
駿府の外城である丸山城に寄り、十余年を過ごした。
芝屋寺は、当時の丸山城内で、若き宗長は、氏親と共にこの城内にあった、という。
氏親は、伊勢新九郎(後の北条早雲)の働きで、長享元年(1487)、駿府城に戻り、国守になる。
その後も、宗長が住む柴屋軒を訪ね、堂宇を建てたのが柴屋寺である。
家康も朱印状を与え、修復したという。
庭園は、宗長自ら築いたものといわれ、本堂の西に小池を造り、東北方から、
湧出する岩清水を引き込み、西方に聳え立つ天柱山を採りいれた借景庭園で、
国の名勝に指定されている。 」
国道の「駿府匠宿入口」交叉点に戻り、国道を西に向かい、二軒家交叉点で、
右折して狭い道に入る。
右側に大きな看板があり、「ようこそ大鈩!!」 と、書かれていた。
右側の小高いところが、丸子城のあった山である。
大鈩に架かる橋を渡って、五百メートルほど行ったところに、誓願禅寺がある。
「
永禄十年(1567)、連歌師の里村紹巴(じょうは)が、柴屋寺への道を間違えて訪れた寺である。
境内には、大阪落城直後に駿府で没し、この地に葬られた片桐且元夫妻の墓がある。 」
二軒家交叉点に戻り、国道1号線を進み、舟川交差点の「長源寺入口」 の矢印がある所で、 左側の細い道に入る。
少し歩くと、道の左側に、長源寺の案内と、「起樹天満宮」の石柱が建っている。
中に入っていくと、鳥居の奥に、源頼朝ゆかりの 起木天神 が祀られていた。
「
菅原道真を祭神とすることから、古来、神域に紅梅が多く、 赤梅ヶ谷といわれたのが、
赤目ヶ谷に変ったといわれるところで、赤茶色の大きな石で造られた、「丸子赤目ヶ谷起木天神」の
碑がある。
それには、 「 風は松声をとどめて静かに、山はそう馬を含んで渕<(ふか)し 」 、
と漢文で書かれた詩が刻まれている。
その隣に、「 日本近代茶業之先駆者 多田元吉翁」の石碑が建っている。
碑の前の茶の木には、静岡県知事、静岡市長、インドアッサム州の三本の木が植えられていた。
。
「 幕臣だった多田元吉は、明治維新後、この地を開墾して茶を植え、更に茶の研究のため、 中国やインドに渡り、紅茶の製造技術を習得し、その時、 インドから紅茶用の茶の木を持ち帰ったのが日本の紅茶の始まりである。 」
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ここから、東海道開設以前の丸子宿跡に訪れた後、先程のとろろ汁の丁子屋まで、戻り、
今日の旅は終わる。
長源寺前の道(東海道)を国道に沿って東に向かうと、二軒家交叉点で、右側の狭い道が東海道である。
その道を進むと、二軒屋公民館の隣に、観音堂があり、境内には庚申塔が建っている。
さらに進むと、右側に、「元宿山大日如来登山口」、と書れた狭い道がある。
東海道(県道208号)は、直進であるが、川沿いには、昭和の遺物のモーテルが並ぶ。
道は右にカーブする。
左手の国道1号線の向こう側に見える山は、先程訪れた芝屋寺なごがあた丸子城跡である。
右手に、段々になっている茶畑が拡がり、丸子集落には、古い家が多く残っている。
「 ここは、文治五年(1189)、地元の豪族・手越(てごし)平太家継が、源頼朝から、奥州平定で功があったとして、丸子一帯を与えられ、丸子宿を設けたところで、このことは吾妻鏡源に記述がある。
室町時代の連歌師の宗長は、「 丸子という里は、家五、六十軒、京鎌倉旅宿なるべし 。 」
と、書いているので、ここに宿場があったことは間違いない。
しかし、東海道が変更され、川向こうに、
丸子宿が移ったことから、「元宿」 と呼ばれるようになった。 」
集落の終わりノ左側に、「丸子元宿高札場緑地」 という標柱があり、高札が沢山建っていた。
その先に、丸子川に架かる丸子橋がある。
二軒屋交差点から、ここまで、一キロメートルくらいだろうか??
橋を渡ると、江戸時代の丸子宿の京側入口で、
「夢舞台東海道 静岡市丸子宿」 の道標が建っている。
この後、バス停に向かい、今日の旅は終った。
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訪問日 平成十九年(2007)七月三十一日