静岡市中心部は、明治維新までは駿河国の国府であったことから、
「府中」 と呼ばれた。
中世には、海道のおさえとして足利氏の支族の今川氏が支配した。
江戸時代の府中は、東海道の宿場町であると同時に、駿府城の城下町として、
駿河国では最大規模の賑わいを見せた。
天保十四年の宿場の人口は、一万四千七十一人で、家数は三千六百七十三軒を数えている。
東海道の道筋を辿り、府中宿を歩く。
春日町駅前の五叉路で、国道1号と別れ、右の道に入る。
このあたりは横田町で、道脇に、 「横田町」 の道標と、歴史が書かれている。
「 横田はかなり古い時代から交通の要衝だった。
江戸時代の元禄五年(1692)、東境に、道の両側を挟んで石垣が築かれ、
枡形の府中宿の東入口の見附が設置された。
府中は、徳川家康が、今川氏の人質として、幼少の頃をこの地で過ごした地である。
また、晩年、将軍職を秀忠に譲り、駿府城に移り、
大御所として権勢を振るった所でもある。
従って、府中は単なる城下町とか宿場ということでなく、
徳川家にとって、由緒の深い所ところと重要視されてきたのである。
当時の下横田町の家数は四十七軒、二百十四人の人口だった。 」
その先の交差点は横田東で、左右の通りは、 きよみずさん通り である。
右折すると、静岡鉄道音羽駅があり、その先にある清水寺は、永禄弐年(1559)の創建で、
家康が建立した観音堂がある。
そのまま進むと、交差点の先は、江戸時代の猿屋町である。
左側の酒屋の二階に、ビールジョッキ片手の人形が下を見下ろしていた。
愛嬌があり、おもしろい。
その先は、旧院内町になる。
右側の奥に西宮神社が祀られている。
その先の横田町西交差点を越えた先の左側に、 「久能山東照宮道」 の標柱がある。
この道は久能山に通ずる道で、江戸時代には、参勤交代の大名たちが久能山詣でをした、
という。
その先の道の右側に、「華陽院門前町」 の道標がある。
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華陽院は、右側の道を入ったところにある。
「
華陽院は、家康が今川氏の人質になっていた時代に勉学に通った寺である。
家康は三歳で母と生き別れ、祖母の源応尼が静岡まで付き添ってきて、面倒をみた。
源応尼が亡くなると、家康はこの寺で法要を営み、源応尼の法名から、
寺の名をこれまでの智源院を、 玉桂山華陽院府中寺 と改めた。
寺には、源応尼墓の他、 市姫(家康と側室との娘) や、 側室お久の方など、
徳川家にゆかりの深い墓がある。
街道に戻ると、伝馬町通りに入る。
右側に、「伝馬小路」 と表示があるが、道を挟んだ左側の まつ本 という店の方を見ると、手前の歩道に、「本陣脇本陣跡」の石碑が見えた。
下伝馬町本陣と脇本陣の跡である (右写真)
下本陣と呼ばれたのは、小倉家で、脇本陣は平尾家である。
その先の右側に、上伝馬町の本陣望月家、脇本陣松崎家があったのだが、
それを示す石碑などは見付けられなかった。
歩くに比例して大きな建物が増えてきた。
スルガ銀行の先の交差点を渡る。
前方に見えるのは高いビルばかりで、昔の面影を 感じさせる建物は残っていない。
左側のFIVE−Jというビルの奥には、丸井、松坂屋などのデパートが並んでいる。
その先が静岡駅である。
栄町交差点近くのビルの一角に、珠賀美神社が祀られている。
珠賀美(たまがみ)神社は、怪力鬼彦の伝説が伝わる神社である。
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歩道に「上下伝馬町」の石碑があり、傍らに説明があった。
また、人形像の脇に伝馬町由来碑が建てられていた。
道路のタイルに、「府中の宿 散歩道」と書かれ、飛脚の絵が表示されていた。
右にカーブする道の右側に、ホテルシティオ静岡がある。
ホテルの外壁に、「西郷と山岡の歴史会見」 の説明板があった。
「 慶応四年(1868)二月十二日、 最後の将軍・徳川慶喜が江戸城を出て、
上野寛永寺で謹慎した直後に、追討軍が江戸に到着。
官軍の江戸城総攻撃が目前に迫った。
幕府軍事取扱の勝海舟は、 慶喜の処刑と江戸会戦を避けるため、
山岡鉄太郎(鉄舟)を静岡にいる官軍参謀西郷隆盛のところへと派遣した。
山岡は、江戸から駿府にかけて居並ぶ官軍の中を 「 朝敵徳川慶喜の家来・山岡鉄太郎。
大総督府へ参る。 」 と大声で叫びながら馬を駆り、
呆然と見送る兵士たちの間を走り抜けた。
駿府まで進出してきていた西郷は、定宿の松崎源兵衛方で山岡と会見する。
両者は初対面だったが、山岡の人柄にすっかり惚れ込んだ西郷は、
勝との話し合いに応じることを約し、これにより江戸無血開城への道が
開けたのである。 」
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ホテルシティオは、安田屋太郎兵衛宅跡である。
西郷と山岡が会見した場所は、安田屋の三軒隣の松崎屋源兵衛宅だったが、
今は、「ペガサート」 というビルになっている。
ビルの前に、静岡市史跡の石柱と、 二人の顔入りの会見の碑が建っている。
道を進むと、五叉路の江川町交差点に出る。
右手に歩いていくと、奥に静岡市役所のビルが見えるが、駿河城の水堀と石垣がある。
「
今川館と呼ばれた駿府城は、永禄十一年の武田信玄の駿河侵攻と、
天正十年の徳川家康の侵攻により灰燼と帰した。
徳川家康は、今川館があったところに城を築き、
天正十七年、居住地を浜松からここに移転した。
家康は大御所になった後、再びこの城に入り、
天守閣を設けるなど城の大修復を行い、慶長十三年に完成させた。
家康の没後、駿河(府中)藩として、徳川頼宣と徳川忠長が藩主になった。
その後は、江戸幕府の天領になり、五千石格の旗本による駿府城代が置かれた。
天守閣は、焼失後は、再建されなかった。
幕末、徳川慶喜が江戸城からここに監禁された後、徳川家達が藩主になり、版籍奉還となった。
その後、建物は壊され、堀と城壁の一部だけが残った。 」
城跡は駿府公園となっていて、予想よりも広大な面積である。
東御門は復元された櫓門である。
城を示すものは家康の銅像と本丸跡を示す水溜まりだけで、
その他は紅葉山庭園位しか見るものはなかった。
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江川町交差点に戻り、西に向かう。
交差点には横断歩道が無いので、地下道を通って斜めに出るのである。
地下道はけっこう複雑なので、町名から出口を探して表に出た。
このあたりは、城下町特有の曲がりくねた道である。
ワタベウエデングの前に出たので、南に向かい、呉服町交差点まで来たら、右折する。
呉服町商店街は、レトロな雰囲気を演出しようとしているようで、鋳物製の街燈やモダンなデザインのベンチが置かれていた。
そうした通りを自転車がすいすい通り過ぎていく。
静岡市は平らな土地からか、自転車の利用者が多く、このような町の中心にも平気で乗り入れてきていたのには驚いた。
駿河区役所に通じる緑道の脇に、ライオン像があり、子供が口に手をいれようとして、母親に叱られていた。
少し歩くと、伊勢丹前の交差点に出た。
交差点の右側に、府中宿の浮世絵タイルを大理石に嵌めこんだ時計付きのポールが建っている。
また、少し離れたところに、「里程元標址」 の石碑がある。
道を渡ると、右側に、「姉妹都市友好の碑」 もある。
道の向こう側の伊勢丹前に、「札の辻址」 の碑が建っている。
説明板
「 江戸時代には、ここに高札場が設けられていたので、札の辻と呼ばれ、
昭和二十年まで札の辻町という町名が残っていた。
初期の東海道は本通りを通り、この先の呉服町一丁目から四丁目(現在の呉服町一丁目)を経て、
ここに至り、呉服町五丁目から八丁目(現在の呉服町二丁目)を経て、伝馬町に至っていた。
その後、東海道が新通りを経由するようになると、ここで左折し、七間町通りを進む道に変わった。 」
七間町にも商店街があった。
周りが山と海に囲まれていることから、大型スーパーが郊外に立地する場所に制約があるのかも知れないが、これだけの商店街が残る都市は珍しいなあ、と思った。
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そのまま歩くと、右側に静岡東宝とファミリーマートがあり、七間町交差点に出た。
国道362号線を渡ると、
道の左側にファミリーマートがあり、
交差点の向こうには最近造られたと思える赤茶色のビルがあった。
東海道はこの交差点を右折する。
入った先は先程までの商店街と違い、中心を外れていく感じで、取り残された商店街に変る。
道の脇にあった、「府中宿人宿町」 と刻まれた石碑には、
静岡姉様人形や駿河竹千筋細工など、江戸時代の名物が紹介されていて、
東海道であったことが感じられた。
人宿町は縦七間通りと呼ばれていたこともあるようで、江戸時代には、庶民が泊まる木賃宿が多く、旅籠町として栄えたところのようである。
人通りが少なくなった道を歩くと、右側に梅屋町キリスト教会がある。
東海道は、キリスト教会の次の交差点を左折して、狭い道に入る。
これが新通りで、東海道はこの先、安倍川の渡しまで、まっすぐな道が続く。
そのまま歩くと1、左右の道はときわ通りで、信号交差点である。
交叉点の前後が新通1丁目である。
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この道を横断した、右側に、「駿河名物元祖わさび漬 宝暦三年創業」、看板を掲げた店がある。
その上の壁には、「田尻屋本店」とあり、「八代目」とある。
「
宝暦の頃、東海道の新通りで味噌屋を営んでいた田尻屋和助が、山に出かけ、立ち寄った農家で出されたお茶受けが、山葵の茎と葉を糠味噌に漬けたものだった。
食べてみると、捨て難い風味があったので、茎と葉を持ち帰り、
色々と工夫をして加工している中に、酒粕に漬けるのが一番よいことを発見した。
それがわさび漬の始まりという。
小生が新幹線でよく買ったのは田丸屋の製品である。
田丸屋は明治に入ってからの創業で、桶にわさび漬を詰め、
開通した東海道の駅で売ったところ有名になり、
わさび漬は全国に広がった、という。
元祖は田尻屋で、普及させたのは田丸屋ということになろう。 」
新通1丁目バス停を過ぎると、信号交差点の左側に、秋葉神社が祀られている。
府中一里塚は、江戸時代初期の道につくられたので、新通りではなく本通りにある。
折角なので、立ち寄ることにした。
右側の東海電工舎を右折すると、本通り8丁目の交差点に出た。
道の反対側に渡り、左折し、道に沿って歩くと、ラペック静岡の案内標示の先に、「府中一里塚址」 の石碑が建っている。
先程の交差点まで戻ると、あとは安倍川橋まで真っ直ぐである。
その先には郵便局と静岡銀行がある。
新通り2丁目バス停を過ぎ、しやわせ通りを横断すると
信号交差点の先から、町名が川越町に変った。
江戸時代には川越町に西見附があり、府中宿はここで終わりだった。
西見附のあったところを探ろうとしたが、
どこにあったのかは確認できないまま終わった。
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府中宿の京側の入口があった川越町を過ぎると、弥勒町に入る。
信号交差点を越えた右側に、交番がある。
ここは、江戸時代の 「安倍川川会所」 の跡で、
それを示す説明板が脇の歩道に建っている。
説明板
「 安倍川は、東海道のなかで、架橋が禁じられた橋の一つで、
川越人夫により川を越えていた。
川会所は、安倍川の両岸にあり、町奉行所から、川場係同心二人が出張して、
警備監督に当り、川役人が勤務して、川越人夫を指示したり、
川越賃銭の取り扱いをしていた。
この川会所は、間口六間、奥行四間半で、五人位の裃を着た役人が詰めていた。 」
交番の先に、長三角形の小公園・ 「みろく公園」 がある。
交番の裏に、明治七年の架橋記念碑が建っている。
安倍川橋の建設の顛末を記したもので、明治四十一年に建てられたものである。
建設の顛末
「 安倍川に最初に橋が架かったのは、明治七年(1874)のことで、
宮崎総五という人が、多額の私財を投じて架けた木橋の有料(賃取)橋で、
安永橋 という名だった。 」
みろく公園の中央部に、「由井正雪公之墓趾」 と書かれた、大きな石碑がある。
「
由井正雪は、三代将軍・家光の逝去に伴う混乱に乗じて、
幕府転覆を図ろうとしたという容疑で、
慶安四年(1651)七月二十六日、駿府の府中宿梅屋町年寄・梅屋太郎右衛門方に、
宿泊していたところを、 駿府町奉行・落合小平治の部下に囲まれ、
同志と共に自刃した、という事件で、 「慶安の変」 と呼ばれる。
安倍川畔にさらし首になったが、誰かの手で、その首を寺町の菩提樹院に埋めた、といわれる。
正雪の首塚とされる石塔が菩提樹院にあるようだが、
菩提樹院は、その後、沓谷霊園に移転した際、首塚も一緒に移転している。 」
その先、新通りに面して、「東海道夢舞台 静岡市弥勒」 の道標が建っていて、「府中宿の境から二町(0.2km)、 丸子宿境まで十六町(1.8km)」 と、表示されている。
弥勒町という町名は、慶長年中に、安倍川左岸に山伏が還俗し開いた、
弥勒院 という名の寺に由来する。 」
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その右側に、「明治天皇御小休止趾」 の石碑がある。
江戸時代には、ここに立場があったので、明治天皇もそこで休憩されたのだろう。
公園の先に、安倍川橋前バス停がある。 その前に、冠木門があった。
説明板「冠木門(かぶきもん)」
「 冠木門は、静岡市制百十周年記念事業として開催された、
静岡葵博 会場に建てられたもので、
東海道宿駅制度四百年を記念して、府中宿の西の見附に近いこの場所に移築した。 」
バス停のところで、東海道は、本通りの道に合流する。
江戸時代は、この辺りは、安倍川の河原だったところである。
安倍川に臨んで、道の両側には茶屋が並んでいた。
ここの名物が、安倍川餅であった。
道の左側に、石部屋(せきべや)という、江戸時代から続く安倍川餅の店がある。
「 江戸時代初期、徳川家康が立ち寄った茶店で、
店主が、きな粉を安倍川上流で取れた砂金に見立てて、つきたての餅にまぶし、
献上したところ、家康は大いに喜び、安倍川もちと名付けた、という伝承がある。
家康の話の真偽のほどは分らぬが、江戸時代中期には、すでに茶屋の名物として、
有名になっていたようである。 」
十返舎一九の 「東海道中膝栗毛」 にも、 「、ほどなく弥勒といへるにいたる ここは名におふ 安べ川もちの名物にて 両側の茶屋いづれも奇麗に花やかなり 」 と、記されている。
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石部屋の隣に、安倍川川渡り人足にかかわる美談を記した 「安倍川義夫」 の石碑がある。
「 江戸時代の安倍川は、川渡り人足の手で渡るのが普通だったが、
自分の足で渡る人もいたようである。
さて、その話だが、 紀州の漁夫が、仲間とこつこつためた百五十両を懐に入れ、
川を渡ろうとした途中で、落としてしまう。
それを拾った川越人夫の喜兵衛は、財布をもって旅人を追いかけ、宇津ノ谷峠でようやく追いつき、財布を返した。
漁夫は礼金を申し出たが、喜兵衛は当然のことをしただけと受けとらなかったので、
奉行所に預けて立ち去った。
奉行は、礼金を喜兵衛に渡そうとしたが、固辞したので、礼金は漁夫に返して、
その代わりにご褒美として、代わりのお金を与えた。 」
というものである。
その先にも、あべ川もちやが二〜三軒あった。
その先で、東海道(国道298号)の車線は狭まる。
道の両側は、川渡り人足が活躍した安倍川川岸である。
そのすぐに、安倍川橋に出た。
「 橋は、大正十二年(1923)に、英国の鋼材を使用して造られたもので、
三代目。
全長四百九十メートル、全幅七メートルの橋であるが、歩道は左側にしかなく、
歩いているのは私だけ。
すれ違う自転車は、自分の方が優先する態度なので、こちらが避けなければならない。
橋の途中で安倍川を見ると、水が少なかったが、昨日降った雨のせいか、濁っていた。
昔、川の上流で砂金がとれたとは思えない感じである。
けっこう長い橋だったが、歩道帯があったので、安心して渡り終えることができた。
以上で、東海道を辿って、静岡(旧府中宿)の旅は終了である。
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訪問日 平成十九年(2007)七月三十一日