◎ 高遠城跡のコヒガンザクラ
高遠城を舞台に武田氏の一族・仁科盛信が織田氏の大軍と戦ったが、壮烈な最期を遂げた。
高遠のコヒガンザクラは彼らの血潮に似た色といわれる。
高遠は、大奥の絵島が歌舞伎俳優の生島との恋が発覚して、遠流されたところでもある。
そのような土地なので、多くの文人・歌人が訪れて、俳句、短歌などを残している。
「 たかとほは 山裾の町古き町 ゆきかふ子等のうつくしき町 」 −− 田山花袋
「 高遠、その地名の高雅さは、たかだかとした一幅の絵を見るようです。 」 −− 司馬遼太郎
「 この町や ひとは幾たびかわれども 花は咲くなり 春くるごとに 」 −− 太田水
「 山峡は ここに極まる兜山 三峰川を前に 城は立ちけむ 」 −− 窪田空穂
「 しなのなる 伊那にはあらじ かいがねの積もれる雪の 解けんほどまで 」 −− 源重之
「 いにしえの 流人の秘話を思ふ眼に 時雨過ぎゆく 高遠の山 」 −− 木俣修
高遠の桜は、中京や近畿圏はもとより、かなり離れている首都圏でも、観光会社のちらしメニューに入っているほど、有名である。
これまでも、何回か行くチャンスはあったが、花より団子の年齢でもあったし、
交通渋滞の言葉に怖れて、行かずに終わっていた。
okanいわく、桜狂いというのなら、批判しないで目で確認してからにしてよとの一言で、Max氏の桜はなんでも知っているというプライドがおおいに傷つき、今年の桜紀行のフィナーレは高遠に決定したのであった。
今年の桜の開花予想は大外れで、あてにならなかった。
昨年が大変早い開花だったので、同じ時期の予想をたてたが、
三月に入って雪が降るなどして、予想がたてられなくなってしまった。
観光協会のホームページをながめ、様子を窺って
いたが、月曜日に開花し、週末には南面で七分咲きの予想がでていた。
午前四時出発。
東名、そして、中央道に入っても、この時間はがらがら、早く着きすぎても、
門が開いていないので、時間調整をしながら走る。
途中、駒ヶ根パーキングで、朝飯を兼ねた休息をとる。
伊奈インターで降り、高遠に向かうと、
少し道を間違えたが、七時半には到着した。
城の周りは交通規制になるのだが、早朝なのでゆるやか。
南側にある駐車場に入れ、一服し、開門を待つ。
八時近く、車をでて、入口に向かう。 すでに多くのひとがでていた。
入ったのは南ゲート、法憧院郭(ほうどういんくるわ)というところらしい。
城南にあたるこの付近は、たしかに、桜が開花している。 七分咲きくらいか?
桜は、紅の色のあでやかさと小ぶりな花が特徴のタカトウコヒガンザクラという品種である。
地元の人達は、いっせいに咲き、ぱっとと散ってしまう、この花のいさぎよさと、血汐のように見える花色に、織田軍と戦い、壮烈な死を遂げた武田の大将・仁科五郎盛信を重ね合わせ、
明治八年、高遠城が壊されて公園になった際、町内の小原より、この桜を移植したのが始めとある。
大事に育て、増やしてきた結果、千五百本もの数になったとある。 まさに努力の賜物である。
途中、河東碧梧桐や広瀬奇壁の歌碑があった。
南郭からは雪をかぶった南アルプスが見えたので、それを入れた桜を撮った。
本丸に入ると太鼓櫓があって、人が登っている。
試しにのぼったが、あまり見晴らしがよいとはいえなかった。
それでも、眼下に桜が目に入ったので、撮ったが、満開になればすごいだろうな!と思った。
ぐ〜ると回って問屋門をくぐると、桜雲橋があった。
その名の通り、桜が覆い、スナップのベストショットポイントで、記念写真のオンパレートである。
橋の下に、写真を撮っている一団がいるので、興味を持ち、降りて見た。
先生らしき人がなにか説明していて、カメラスクールの一行らしい。
池に写っている桜をとっていたので、小生も撮ってみる。
風があって水面がなかなか鏡のようにはならない。
一団が動き出したのを期に退散することにした。
北口ゲートから外にでて、坂を下ってゆく。
まだ九時半を過ぎたばかりだが、駐車場に入れない車が列になり始めていた。
進徳館(旧藩校ー国史跡)を見学する。 教育熱心な殿様だったようである。
駐車場に戻る頃には温度も上がり、桜が急にぱっとひらたような気がした。
今回の撮影は、桜のつぼみが多く、満足のいく写真はとれなかったが、それはそれで楽しかった。
◎ 春日公園
高遠は観光客が多すぎて写真を撮るには不向きと、早くも退散となり、
伊那市に向かい、春日公園へ行った。
この公園は、伊那市の桜の名所として、見付けたもので、どんなところか分からぬまま行くことにしたものである。。
「 市街地の高台にある公園は、春日城址で、市の文化会館に隣接してあった。
春日城は、戦国時代の天文三年(1534)に、伊奈部大和重慶が居城した平城であるが、
武田の佐久、小県地方への侵入により、小笠原氏は破れ、当城もその傘下の春日河内守昌義が城主になった。
天正十年(1583)、織田信忠による木曾路伊奈路侵攻により城は焼かれて廃城になった。 」
桜の名所といってもたいしたことはあるまいと思っていたのだが、びっくり!!
高遠と同じ、コヒガンザクラが二百本もあったのである。
コヒガンザクラは終わりに近かったので、風が吹くと、パーッと散り、
その花吹雪は表現しようもないほど美しかった。
十一時を過ぎに到着したが、花見の宴で盛り上がっていた。
花の絨毯を敷き詰めたような場所で、若い衆が花見をしていた。
公園からは市街地が見下ろせ、川のはるか向こうに南アルプスの雄姿も見ることができた。
公園の残り半分には染井吉野が植えられていたが、樹齢がかなりな経っているので、これもまた、すばらしかった。
そのようなすばらしい環境の中で、持参したコンビニ弁当を食べながら桜を鑑賞した。
食事時を過ぎると沢山いた人が帰っていったのは平日だったからだろうか?
昼を利用して花見に集まり、食事をして仕事場に戻れるなんてなんどすばらしいところと思ったのである。
◎ 栖林寺(せいりんじ)のしだれ桜
東伊那のお寺にしだれ桜があると聞いたので、行ってみることにした。
栖林寺の場所を調べてみると、地名の東伊那は伊那市ではなく、駒ヶ根市であることが分かった。
そこに向かって走る。
農道という農林省が権益を増やすために造った道路は、
国道などと少しも変らない立派なものである。
空いていてよいので利用する。
道脇にある、ガーデンパパは健康食品のショウルーム兼レストランであるが、
ミツバツツジが満開で美しかった。
走って行くと、自然の残る春らしい風景がある。
天竜川を渡ると、水を張った先に、芝桜が植えられた古い家を見て、停まる。
その先にも紅梅か、花桃川からないが、菜の花とマッチした風景を見た。
その度に停まり、また、走った。
栖林寺は少し分かりづらいところにあり、行きすぎて道を教えてもらって到着できた。
駐車できる場所がないので、近くの道脇に止めて登っていった。
すでに数人のひとが三脚を建てて写真を写していた。
花の具合は!!と見ると、残念ながら最盛期は少し過ぎたという状況である。
三日ほど前が良かったと地元のひとがいっていた。
その時使用したのか、寺を囲む塀に、櫓が組れたままになっていて、
寺院を入れて撮るのには具合が悪い。
空に雲が増えてきて桜の花にはまずい状況になってきた。
リバーサルでの撮影はあきらめ、デジカメ一眼でしばし撮影した。
夕日の具合では面白い写真も撮れそうだが、我慢しきれず撮影を終えた。
なお、寺に入る道に石仏が並んで建っていた。
伊那地方や木曾地方にしだれ桜の木を見かけるが、幹周りは細く、花も小さく繊細な感じがする。
暖かいため、桜が長生きできないのか、江戸彼岸桜は当地には生育できないのか分からないが、
数百年も経た桜を聞かない。
訪問日 平成十六年(2008)四月十三日