飛騨 白川郷の荻町集落は、
平家の落人伝説が残るところであるが、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定され、多くの
合掌造りの家が残っている。
御母衣地区にある御母衣ダムの湖畔には、湖底に沈むはずだった荘川桜が移植されて、
今も花を咲かせている。
◎ 白川郷
早朝に家を出て、飛騨白川郷に向かう。
早朝だったので車はスムースに走り、六時半には白川ICに到着。
坂を下りていくと、左手奥に社殿が見えるたので、
公民館の駐車場に車を停め、神社へ行った。
鳩谷八幡宮という神社で、
神社の由来は分からないが、少し離れた石碑に、
「 御母衣(みぼろ)ダムで沈んだ幾つかの集落の三つの神社を合祀した。 」 とある。
社殿の前に、「神馬の尻もち岩」の説明板と岩がある。
説明板「神馬の尻もち岩」
「 神代の昔、天空を駆けていた神馬がたまたまこの地に飛来し、
風光明媚な様子に見とれて休もうとした際、誤って尻もちをついたのがこの岩である。
岩の左手に馬の頭跡、中央四ヶ所に踏んばった蹄の跡が見られる。 」
白川郷は、
「 寿永二年(1183)、木曽義仲の上洛を阻もうとした平維盛(たいらのこれもり)は倶利伽羅峠(くりからとうげ)で義仲軍に大敗し、
多くの平家武士が落人となって庄川流域の隔絶した場所に逃れた 」
という 平家の落人伝説が残る地である。
神社の左手に、石碑と麝香杉の湧水がある。
石碑の文面
「 飛鳥時代の頃から、神殿の真下から湧き出る清水と、
室町時代の頃に境内麝香杉の伐り株の間から湧き出た。
里人は飲料水や無病息災、長寿の水として親しんできた。
毎年壱月末大祭のさなかに造り込む濁酒(どぶろく)用の真水として、
当神社や近くの神社で広く用いられ、また、真冬三メートル余の豪雪でも、
池面に湯気が漂う温かな水になったり、盛夏に身をきるような冷たくまろやかみのある水は、
岐阜県の名水としての選定を受け、(以下省略) 」
早速柄杓で汲んで飲んでみる。
くせのないマイルドな水なので、持参していた飲用水用のポリタンクに入れて、
自宅で飲むことにした。
鳩谷八幡宮に残る麝香杉跡は以下の歴史を秘めている。
「 白川郷が、史実に登場するのは鎌倉初期の建長五年(1253)、親鸞の弟子・
嘉念坊善俊 (御鳥羽上皇第十二皇子) が庄川沿いに浄土真宗を布教してからである。
この頃の飛騨は、美濃白山神社長滝寺の社領地が大部分で、
白山信仰を中心とする天台系密教の強い影響下にあった。
真宗の布教を始めた善俊は、美濃国では白山長滝寺の勢力に阻まれて失敗、
庄川沿いに飛騨に入り、白川郷のここ鳩ヶ谷に道場を構え、熱心に教えを説いた結果、
農民たちの間に浄土真宗が広まっていった。
これが飛騨浄土真宗の始まりである。
白山長滝寺の勢力が衰えてくる頃、内ヶ島氏が信州から進出し、白川郷を支配した。
この頃、加賀や越中などで興った一向一揆の勢力が白川郷にも及び、
内ヶ島氏との間で武力衝突を頻繁に繰り返した。
文明八年(1476)、内ヶ島為氏が、正蓮寺に籠った僧、明教を焼き討ちする事件を起こしたが、
蓮如上人の仲裁で和解が成立し、以後、両者の険悪な関係は解消した。
永正二年(1505)、善俊から十代目の明心は、内ヶ島為氏の支援のもと、
正蓮寺を再建するにあたり、境内の稀にみる巨木の麝香杉を伐り、牛に曳かせて進めたが、
牛が倒れたので、その場所に正蓮寺を建立することにした、という。
徳川家康の時代になると、飛騨は金森長近の所領になったが、
長近は照蓮寺を高山に移転させ、広大な寺域を与えた。
これが高山別院照蓮寺である。
一方、もとの中野の照蓮寺は、中野御坊と呼ばれて残り、白川郷の信仰の拠り所になったが、
後に御母衣ダム工事で湖底に沈む際、高山市城山へ移転した。
これが中野照蓮寺で、一本の木で建立された真宗本堂では、日本最古の現存する建物である。
従って、高山には二つの照蓮寺がある。 」
庄川に沿って歩き、白川小学校前に出る。
川を渡ると、国道156号が通る三叉路に出る。
白川小学校の桜は満開で、花びらが風にのってひらひらと目の前を通り過ぎていった。
白川郷はまさに春のさなかなのである。
鳩谷八幡宮 | 尻もち岩 | 麝香杉の湧水 | 白川小学校の桜 |
橋を渡り、国道で右折し、その先左側に入る小道を上ると、 民宿大田屋の前の桜は満開だった。
大田屋の脇を上っていくと、国道360号に出る。
少し歩いた右手に 「展望台近道」 とあった。
それを無視してそのまま歩くと、かなりの遠回りである。
途中に民宿の伊三郎とわだやがあり、道の反対側に大きな桜の木がある。
桜の花は白ぽいピンクで、平地に比べ上るのが遅い太陽に照らされて光っていた。
大田屋の前の桜 | 民宿わだやと桜 | 民宿わだやの桜 |
しばらく歩き、右手にある車道を上るとと、頂上に、駐車場と小さな公園がある。
公園には 「萩町城址」 の標柱と説明板が建っている。
説明板「萩町城址」
「 築城年代は未詳ですが、、南北朝の頃、南朝の公家達が隠れ住んだ城といわれています。
その後、内ヶ島上野介為氏が信州より入り帰雲城を築城しました。
その時、白川郷に勢力を張っていた正蓮寺(後の照蓮寺)を攻め、萩の白川郷を掌中にしました。
内ヶ島の家臣・山下大和守氏勝が萩町城を代々の居城としました。
城主・氏勝は力が優れ強弓を引いて七・八丁距てたヤマミズの木に射ちこんだといわれています。
氏勝は内ヶ島氏の滅亡の後、徳川家に仕え、名古屋城の築城に献策しました。 」
城といっても砦のようなものだったのだろうが、その痕跡は残っていなかった。
公園の手前に飲食店の駐車場があり、飲食店に向かうと、展望台があり、萩町集落が一望である。
白く雪をかぶった山々が遠くにあり、眼下には合掌造り民家が道に沿って点在している。
萩町城址 | 展望台からの萩町 | 雪を被った白山が見える |
ここには車で訪れた先客がいて、わいわい言いながら、桜の脇で写真を撮って
いた。
小生も仲間に加わり、しばらくの間、写真撮影に没頭した。
望遠を拡大すると、民家の両脇には田畑が広がっていることに気付いた。
桜を入れての写真も撮ったが、田畑はまだ春のけはいには遠かった。
白川郷の桜 |
萩町城址の下に降りる道を下って行くと、合掌住宅がある。
「
合掌造りの家が誕生したのは、江戸時代中期以降である。
その誕生には養蚕との関わりがある。
白川郷は、もとは寄棟茅葺屋根が主流だったが、江戸時代に入り、
養蚕業が盛んになると、養蚕スペースを設けるために、家の構造を三層や四層にして、
切妻合掌造りが誕生した、といわれる。
化学繊維の出現により、絹産業は打撃を受け、
養蚕業で生計をたてていた白川郷では廃業に追い込まれ、
若い人達は仕事を求めて、村を出て行った。
また、御母衣ダムの建設により、三百戸以上の合掌造り民家を湖底に沈め、過疎化が一気に進んだ。
ダムの建設や村外移住のために無人になった合掌造り民家が
都会の料亭や民家園に売られたのは昭和五十年頃のこの時期である。
合掌造りの家が村外に流失していく姿を見た荻町集落の人達は、
昭和四十六年(1971)、 「 売らない、貸さない、壊さない 」 の三原則を定め、
茅葺屋根の葺き替えに補助金を出したり、民家の外観を壊す改装は行わないようにした。
また、他地区に販売されるのを防ぐため設立されたのが、日本ナショナルトラスト協会である。
その後、国道156号線が改良されたことと連動し、観光を業とするようになったことで、
今日のような多くの合掌造りが残った。 」
右側に日本ナショナルトラスト合掌文化館がある。
旧松井家の建物を財団が買い取り、夏には一般に開放している施設である。
白川郷にはもう一か所、財団が買い取った建物が明善寺の北側にある旧寺口家である。
三叉路を右折し、畑の中の道を歩いていく。
いただいた地図によると、東通りとあった。
右手奥にコケモモと思える赤い花が
びっしり咲いている樹木があり、その前に黄色に黄緑が混ざった花が咲く木があり、
その左側には背が低いが、桜と思える花が咲いている。
春が一気に押し寄せたという感じである。
奥には合掌造りの家が見える。
その先左手の大きな合掌造りの建物は、和田家である。
建物は、国の重要文化財に指定されている。
「 萩町合掌集落で最大規模を誇る合掌造りで、
江戸時代には名主や番所役人を務めるとともに、
白川郷の重要な現金収入源だった焔硝の取引によって栄えたという家柄で、
現在も住居として活用しつつ、一階と二階部分を公開している。
九時から十七時まで見学できるが、300円必要 」
屋敷の前に流れる小川に沿った小道を進むと、川端には黄色い水仙と桜が咲いていた。
小川にかかる小さな橋を二度渡ると、合掌造りの家がある道に出る。
その先、右手の奥まったところにある家は、神田家で、ここも300円の入館料で、公開している。
合掌文化館 | 花が咲いていた | 国の重文・和田家住宅 | 神田家住宅 |
神田家の反対側の奥まったところに、長瀬家があり、道の脇に説明板が建っている。
説明板「長瀬家住宅」
「 当家の合掌づくりは五代目当主民之助により明治二十三年(1870)に建造されました。
白川の自然に育まれた樹齢一五〇〜二〇〇年の天然檜や樹齢三〇〇〜三五〇年という栃・
欅・桂等の巨木が使用されております。
五階建て合掌造づくりは三年の歳月と当時の金で八百円、米百俵、酒十一石八斗と、
白川郷民の結の心で完成したといわれています。
(中略)
先祖が加賀百万石前田家の御典医を勤めていたことから、
前田家から拝領した品も多く伝わっております。 (以下略)
平成十三年からの大屋根の葺き替え工事はNHKで放映された。 」
大屋根の葺き替え工事はその家にとって、一大事業である。
「 茅葺屋根の耐久年数は三十〜五十年で、
葺き替え工事には三千万円以上かかるといわれるから大変である。
それ以上の問題は人手確保である。
葺き替え工事には数百人もの人手が必要なので、
村中が協力して役割を分担し、共同で屋根葺き作業を行うのが 「結」 という組織である。
集落の人口が減ると結が結成できなくなる。 そうして消えていった集落もあるので、深刻な問題のようである。 」
交差点を直進すると、左側に浄土真宗の明善寺がある。
明善寺の庫裏は合掌造りの家で、その先に鐘楼門があり、
その奥の本堂は茅葺き屋根の建物である。
鐘楼門にある石碑
「 鐘楼門は、享和元年の建立されたものだが、
鐘は戦後再建されたもの。
本堂は、文化六年〜文化十年にかけて、高山市の大工により建造された。 」
庫裡前の 「 明善寺 庫裏」 の説明板には、
「 当村一番大きな合掌造りです。
本堂 築270年以上 庫裏 築200年 高さ15m、建物面積100坪・・・ 」
と書かれていた。
本堂・鐘楼門・庫裡ともに、茅葺きである寺は、全国的にも珍しい。
明善寺を過ぎ、交差点を直進すると、白川八幡宮がある。
白川郷の祭で有名なのが、どぶろく祭でこの神社を始め、鳩谷八幡宮などで、
十月中旬に行われて、祭りの日のために仕込まれたどぶろくが祭りの時期だけ飲むことができる。
ここから国道に出て、少し先の交差点を左折すると、
こちら側にも合掌造りの家が多くある。
この道を直進すると、であい橋を経て、駐車場があるせせらぎ公園に出る。
小生は車を置いたところに戻るため、西通りを歩き、向うと、道端に芝桜が植えられ、 畑には水仙が咲いてる風景に出会った。
左側に本覚寺があり、境内に「オオタ桜」 の石碑が建っている。
オオタ桜」石碑
「 この桜の木は昔から塩釜桜といって、
花が咲く始めると、 「 塩釜桜が咲き始めたぞ ササゲを植えようか!! といって、
農作物の播種の目安にしてきました。
五月上旬に咲く県内最後の遅咲きの桜である。
昭和四十四年にこの地を訪れた植物画の大家・太田洋愛画伯がこの桜を写生し、
一枝を持ち帰り、専門家に見てもらったところ、
宮城県の塩釜神社にある天然記念物の塩釜桜と同種ではなく、
九十枚以上の花弁を持ち、メシベの数が十五〜二十本と多いことから新種であることが判明し、
画伯の名をとり、オオタザクラと命名された。 」
樹を見上げたところ、桜はまだ固い蕾のように思えた。
その先で道は国道に合流したので、おみやげものを売る店を見ながら、国道を歩く。
道が左にカーブした左側を少し入ったところに、日帰り温泉「白川郷の湯」 があったので、
温泉に入り、一服し、白川郷の見学は終えた。
長瀬家住宅 | 明善寺の庫裏と本堂 | 芝桜 | オオタザクラ |
◎ 帰雲城趾
十一時半、入浴を済ませ、荻町集落をあとにして、国道156号を走り、荘川IC方面に向かう。
荻町交差点で右折し、庄川を渡るとトンネルがあり、
トンネルをくぐると左手にせせらぎ公園の駐車場がある。
(注)現在は、展望台駐車場は貸切バスのみ、集落内は全て駐車禁止になっていて、
自家用車やレンタカーはこのせせらぎ公園駐車場置かねばならない。
ここには屋外博物館 合掌造り民家園がある。
トンネルをもう一つくぐると、カーブのある上り坂で、右側にピンクと白の桜が咲いていて、
その奥には真っ白な雪を被った山が見えた。
このあたりは大牧で、国道は白川街道と呼ばれている。
道の左側に展開するのは鳩谷ダムであるが、十分も走らないうちにダムは終わる。
左側に荘川生コンのサイロが建っているところに、「帰雲城(かえりくもじょう)埋没地」
の大きな看板がある。
左折して車を止めると、 「帰雲城趾」 の大きな石碑と常夜燈、
それを説明する石碑が建っている。
石碑の文面
「 帰雲城は、寛正の初め(1460年頃) 内ヶ島上野介為氏によって築かれた城である。
四代氏理の時代 天正十三年(1585年)旧十一月二十九日、
東海・北陸・近畿に及ぶ広範な地域を襲った巨大地震により 、帰雲山に大崩壊が起こり 、
帰雲城とその城集落が一瞬にして埋没したと伝えられている。
埋没前の帰雲城の位置は確認されていないが、地勢、堆積土砂等からして、
この周辺地域と推定される。
平成十一年六月 白川村 」
ここは白川村保木脇(ほきわき)というところで、 御母衣ダムからの水が流れる庄川があるが、水はほとんどなかった。
「 内ヶ島氏は、鉱山経営に成功し、
足利氏の金閣寺造営に金を奉納したといわれるが、金森長近の飛騨侵入により、
その地位が危うくなった。
天正十三年(1585)の閏八月、金森軍は、飛騨の領主・三木自綱の本城・松倉城を落とし、
飛騨を平定した。
このとき、白川郷の領主で帰雲城の城主である内ヶ島氏理は、佐々成政側についていたが、
金森長近のもとへ赴き、帰順を願い出た。
飛騨の領主で帰順が許されたのは、内ヶ島氏理だた一人で、その理由に
鉱山経営があったのではと思われる。
内ヶ島氏は帰雲城に帰還したわずか
三ヵ月後に、大地震で城と共に滅亡してしまった。 」
「帰雲城趾」 の石碑の左側に、「 ここから城の横顔が見えます 」 という、
小さな案内板があったが、そこからは帰雲山の崩壊した地形がはっきり見えた。
大きな窪みになった崩壊跡は四百年経った今日でもしっかりした形で残っていた。
石碑の反対側の小高いところに、地元の有志が祀った帰雲神社がある。
帰雲神社の裏に満開の桜があった。
その脇のピンク色は朱木蓮が満開になって、太陽の光線により、
ピンクに輝いて見えたものである。
ピンクと白の桜 | 「帰雲城趾」碑 | 帰雲神社 | 朱木蓮と帰雲神社 |
◎ 御母衣集落と旧遠山家民俗館
国道に戻り、そのまま進むと平瀬で、国道の左側には、 道の駅・飛騨白山がある。
この施設の奥にある、日帰り温泉施設「大白川温泉 しらみずの湯」 で、昼食
と入浴をした。
注文したとろろや野菜の天麩羅や手打ち蕎麦がうまかった。
食事を済ませ、少し休憩してから、お湯に入り、この施設を後にした。
なお、平瀬集落は左手に入ったところにあり、
温泉付きの民宿で生計を立てている家が多いようである。
食事でお腹が一杯になり、温泉でのんびりしたため少し眠いが、それを押さえながら、
国道を進むと、数軒の家があり、左側の高台にある
神社の参道には白く咲いた桜があった。
この御母衣集落は、養老年間(717)には、既に一つの集落を形成していたといわれる。
「 その昔、泰澄大師という高僧が、白山を切り開いてこの地に来られましたが、
故あってまた白山を越えて国元に帰られました。
その折、大切な衣を忘れて行かれましたため、後に大師の母親がこの地に来られ、
衣を持ち帰えられたことから、御母衣と呼ぶようになったと伝えられる。 」
国道156号の両側には、桜が多く植えられている。
「
当時の国鉄バス名金線の車掌が、御母衣ダムに移植された荘川桜が花を咲かせたことに感銘を受けて、「 桜で日本海と太平洋をつなごう> 」 と、
国道156号を含む名金線沿線に桜の木を植え続けたことから、
桜街道と呼ばれるようになった。
それを記念して、毎年、さくら道270キロ ウルトラマラソンが行われる。
小生が萩町に着いた時、その走者の一部が歩くようなペースで走っていた。 」
右側にある合掌造りの家は、国指定重要文化財の旧遠山家民俗館である。
入館料300円を支払い、中に入った。
( 水曜日が休館、但し、祝日の場合は翌日 4月〜11月は8時30分〜17時、
12月〜3月は9時〜16時)
しらみずの湯 | 御母衣地区の桜 | 旧遠山家民俗館 |
旧遠山家合掌造りの家が造られたのは文政十年(1827)頃で、
一階は住居として、一層から三層は主に養蚕用に使用され、
明治中頃まで数十人の大家族が同居し、焔硝・生糸生産を中心に山国のきびしい生活
を送っていた。
遠山家は昭和四十三年まで家族の居住に使用していたが、以後、
村立の旧遠山家民俗館として公開されている。
「
合掌造りの家の居住部分は一階だけである。
入口からどーじ(土間)に入ると、細長いしゃーし(板の間)があり、
その右に客の接待などに用いられるおえ(おもや)がある。
中央に炉が切られた二十一畳の部屋である。
その右側にでい(十八畳)があり、客室あるいは寝室(男性)として使用された。
その奥にあるのは、ないじん(仏間)とおくでい(八畳)がある。
ないじん(仏間)の奥には、飛騨に始めて真宗が入った所なので、立派な仏壇がある。
その隣のおくでいは賓客の間である。
おもやの奥には十八畳のだいどこ(台所)があり、炉には現在も毎日火を焚いている。
その隣のちょうだ(十六畳)は、女性の寝室で、中二階は物置に使用された。
その奥にあるのはおくのちょうだ(五畳)で、これは家長の寝室だった。
しゃーし(板の間)の左側にはまや(八畳)があり、馬や牛が飼われていた。
その奥にうすなが(五畳)があり、ひき臼などが置かれていて、穀物を粉にしたり、
稲の籾摺りを行った作業場である。
その奥にあるのが四〜五畳程のみんじゃ(水屋)、勝手場だが、後で増築した、という。
便所はへんちといい、南側の外の戸から出入りをした。
かっての田舎のトイレはどっぷん便所といわれ、大きな樽の上に板が二本あり、
それに跨ってするというものだったが、懐かしく思い出した。
二階から上は屋根裏部分に相当するが、豪雪に耐えるため、柱は一間毎に太いものを縦、
一層の合掌梁などは九メートル以上の長尺材を使用している。
屋根は、直径三十センチ余の合掌材の根元を杭状に尖らせ、梁上の穴に落し込んで並立させ、
これらを十五メートルもの筋かいでお互いに結束して、約五十度の急勾配の屋根の形に仕上げる。
この上に一万五千束以上の茅を村人総出で葺く。
建築には釘、カスガイの類は一切使わず、クサビの他はネソ(まんさく科)と呼ばれる粘り気のある蔓木と藁縄で緊めて仕上げる。
なお、屋根のところから外部に串のように飛び出しているのがあり、気になっていたが、
これはみずはりと呼ぶものだった。
一層から三層まで(階とはいわない)はツシと称して主に養蚕の場所であるが、
物置や作業場としても使用された。
壁は板壁であるが、一層以上の床は板張とせず、篠竹を編んだスノコを敷き並べている。
見学者用の通路の左側にあるのは黒ずんだスノコである。
このため、炉火の煙が上層まで上り、屋根裏の藁縄や茅にススが真黒に付着し、
防虫と強化に役立っている。
また、炉火の煙は蚕の病気予防にも貢献していたという。
旧遠山家民俗館では、観光客用に農具、漁具などの資料展示が行われているので、
過去の使用方法と異なる。 」
でいとないじん | やなか(ネソや藁縄で結合) | (左側)黒ずんだスノコ |
◎ 御母衣ダムと荘川桜
国道は左右にカーブする道になり、坂道を上って行くと、 左手に岩で造り上げられた御母衣ダムが見えてくる。
「 昭和三十六年(1961)に運転を開始した御母衣ダムは、
土と岩を盛り立てて造った体積795万立方mにおよぶ世界有数のロックフィルダムである。
当初はコンクリートダムが計画されていたが、地盤が脆いことから、ロックフィルダムが採用された。
発電所はダム左岸直下210mの地下にあり、ダムの真下に見える施設は送電用施設で、
ここから主に関西方面へ送電される。 」
国道の右手には、このダムを完成させた電源開発のPR施設・
MIBOROダムサイドパーク 御母衣電力館 がある。
立ち寄り、建設反対運動のビデオを見た。 また、ダムの真下の送電用施設近くまで
足を運び、ダムを見上げた。
その途中に、満開の白い桜があった。
「 明治八年(1868)、白川郷は、庄川の上流側
が荘川村、下流が白川村に分かれた。
昭和二十七年、この地にダムが建設されることになり、
白川村と荘川村の五つの集落が水没予定地になることが公表された。
百七十四世帯、二百四十軒の家が、ダムの底に沈むことになったため、
御母衣ダム絶対反対期成同盟死守会を結成し、郷土を失うまいと、
反対運動が繰り広げられたのである。
電源開発の一万田総裁の説得などにより、
最終的には妥結し、照蓮寺があった中野集落などの村が湖底に沈んだ。
このダム建設の際、荘川村の方が多く沈むのに対し、
ダムが建設される白川村の方に多くの利害をもたらすことになったため、
荘川村の反対運動に拍車がかかった、という。
平成の合併で、他の町村が合併したのに白川村が合併しなかったのは、
このダムと庄川にある関西電力の発電所に対する固定資産税などが全て白川村のものであることによると思うが、間違いだろうか? 」
国道に戻り、進むと御母衣湖に出た。
道の左側に、白川村が建てた「文化街道」という意味不明の石碑がある。
御母衣ダム | 満開の白い桜 | 文化街道碑 |
その先、ダムにかかる尾神橋を渡ると、旧荘川村に入った。 現在は高山市荘川町海上である。
湖岸に沿って少し走ると、左側に駐車場があり、人が
群がっているので、入った。
そこにはピンク色の桜が咲いていた。
荘川桜はこの先にあるようなので歩いて行くと、二本の貧弱な桜があった。
照蓮寺桜と光輪寺桜で、日本の総称が荘川桜である。
これが庄川桜と命名された樹齢450年のエドヒガンの古木である。
「 昭和三十五年、水没する予定の照蓮寺、光輪寺の庭にあった二本の巨桜を
見た電源開発の初代総裁・高碕達之助は、
「 なんとかこの桜だけでも救えないものか 」 と、桜研究の権威で桜男と称された
笹部新太郎に桜の移植を依頼、御母衣湖湖畔に苦労の上、移植に成功させた。
移植後、桜のあった荘川村に因んで荘川桜と名付けられた。
樹高は約20m、幹回目通り約6m。
花の時期は四月下旬から五月上旬、ごく淡いピンクの花弁とごつごつした幹が特徴とある。
なお、光輪寺は、ダムの建設に伴い、昭和35年に岐阜県関市に移転、総川桜の子桜が境内に植えられている。
照蓮寺は、昭和36年に、高山市堀端町へ移転。
永正元年(1504)建立の本堂や、天正二年(1574)建立の中門が移築されている。」
訪れた時期が早く、一部の枝には花が咲き始めていたが、大部分は蕾と状態だった。
機会があれば、満開の桜の時に再度訪れたいと思った。
以上で、桜の旅は終了し、時間は早いが、総川ICから帰宅の途に着いた。
ピンク色の桜 | 照蓮寺桜 | 照蓮寺桜と光輪寺の桜 |
訪問日 平成二十一年(2009)四月十九日