高田城は、トキ鉄妙高はねうまライン高田駅の南東約二キロのところにある。
高田城は、平成二十九年四月六日、日本100名城の第132番に選定された。
「 上越市(旧直江津市と高田市)は、江戸時代の始め、
外様大名の加賀前田氏と、出羽上杉氏の間にあったので、
誕生した江戸幕府は、監視上からも、防衛上も、重要な要衝に位置付けた。
徳川家康は、慶長十五年(1610)、
六男の松平忠輝を信濃川中島から、堀秀治が築いた福島城に、
六十万石で入国させた。
更に、大坂冬の陣を前にした慶長十九年(1614)、福島城を廃して、
高田平野の菩提ヶ原に、新たに、高田城の築城を進めた。
天下普請(幕府の命令による工事)として、
加賀の前田利常や、出羽の上杉景勝ら、十三名の大名に築城に参加するよう、
命令が出された。
舅の伊達政宗(政宗の娘が忠輝の正室)が、 城地の縄張りと工事の総監督を担当し、
わずか四ヶ月という短さで、城を完成させた。 」
訪れた日は、小雨まじりで、水掘の先には紅葉の樹木と三重櫓が霞んで見えた。
水掘に架かる橋は極楽橋とあり、説明板が建っている。
説明板「極楽橋」
「 極楽橋は、徳川家康の六男・松平忠輝が、慶長十九年(1614)、
高田城を築城した際に、二の丸から本丸に通じる木橋として、設けられました・
明治四十一年(1908)、高田城へ入城した、陸軍第十三師団によって、
土塁が切り開かれ、堀を埋め立てて、陸続きとなった結果、極楽橋を姿を消しました。
現在の橋は、高田公園開園50周年及び市制30周年を記念し、
平成十四年に復元されたものです。
復元にあたっては、古文献、史料及び発掘調査等により、可能な限り、
旧形状を再現するよう努め、設計を行いましたが、すべてを木造として、
旧形状を忠実に復元することは、安全性、構造耐力、法規制、維持管理等の面から、
さまざまな問題が発生するため、目の見えない構造の根本となる部分は、
鉄筋コンクリートやPHCパイルを使用した、近代的な工法を採用し、
直接目に見えたり、手に触れる部分は木材や石などを使用した、伝統的な工法を採用し、
復元を行いました。
復元を行う前に行った発掘調査では、3列に整然とならんだ極楽橋の橋脚が見つかっています。 」
橋を渡ると、 「本丸の構造と三か所の門」 の説明板がある。
説明板「本丸の構造と三か所の門」
「 高田城の本丸郭(城の)中心部で、
城主の生活したところ)は、静真郭御殿と呼ばれました。
現在の広さは東西215メートル、東北228メートルあります。
形状は、鬼門除けや、内桝形門などの関係で複雑でしたが、
土塁の入隅・出隅・屈曲などを活用して、御殿配置がなされました。
枡形土塁のなくなった現状よりも、御殿用地はかなり狭かったと思われます。
鬼門とは、鬼の出入りする方角とされる北東の称で、不吉とされ、
城の場合は、角を潰して変形にしました。
高田城は大がかりな鬼門除け工事を行いました。
本丸虎口(出入口)は、本城御門(南門)・東不明門(東門)・北不明門(北門) の三か所
ありました。
南門と東門は内桝形式で、北門はカギ形門でした。
現在の西側からの入口は、明治以降に切り開かれたものです。
枡形とは、出入口になる所を塁で四角に囲って区画し、防備を固めた施設です。
高田城の本丸御殿は、江戸幕府の天下普請にふさわしい立派なものでした。 」
その先の空地に、 「本丸跡」の石柱と、説明板が建っている。
説明板「高田城 本丸」
「 高田城は、慶長19年(1614)、高田の菩提が原の地を主郭に、
徳川家康の六男・松平忠輝が築城した75万石(諸説あり)の大規模な近世城郭でした。
本丸は内掘(薬研堀)と塁に囲まれ、現状では堀幅40〜50m、平均水深6m程あり、
塁は高さ10m程度で、総延長約1000mありました。
意思を用いず、2ヵ所の内桝形門と、1ヵ所の内カギ形門を挟んだ囲み土塁でした。
現在の本丸内郭跡は東西215m、南北228mの広さで、
この中に城主の御殿や多くの建物が存在していました。
天守を造らず、塁上には南西隅の三階矢倉を「御三階」と呼んで、城のシンボルとし、
他に多聞櫓2棟、矢倉台1ヵ所、御茶屋台1ヵ所、などが設けられていました。
この高田城も、寛文5年(1665)の地震、宝暦地震(1751)、善光寺地震(1841)、及び、
享和2年(1802)の火災等にあい、その都度、規模を縮小されましたが、
明治3年(1870)の火災によって、再び、焼失し、以後再建されませんでした。
高田城は、慶長19年(1614)から、8家18代の城主が交替し、257年間続きましたが、明治4年(1871)に、その幕を閉じました。
明治41年(1908)の陸軍第十三師団入城の際に、土塁が切りくずされ、
城郭は変形しましたが、基本的な原型は保存されており、
新潟県の史跡に指定されています。 」
高田城は、すべての曲輪に土塁が採用され、石垣は築かれなかった。
「 石垣が建設されなかった理由は不詳だが、
良い建材に恵まれなかったという説や、短期工事によるという説や、
地盤が弱かったという説などがあるが、
どれも当たっているような気がする。
また、低湿地に築城されたため、排水設備が重視され、
城地には暗渠が張り巡らされていた。 」
その先に進むと、左側の石段の上に復元された三重櫓がある。
「 高田城には天守は建てられず、三重三階の櫓を建てて、
天守の代用とした。
三重櫓は、寛文五年(1665)の高田地震で倒壊、その後も、三重櫓は再建されたが、
明治三年(1870)に焼失した。
現在の三重櫓は、平成五年(1993)、外観を松平光長時代の本丸御殿図絵を基に、
大きさは稲葉正通時代の高田城図間尺を基にして、復興したものである。 」
再建された三重櫓の中は、高田藩の歴史などの展示があった。
丸い窓(?)から、外の紅葉が見え、額縁の絵のようになっていた。
三階櫓の下の右側に、高田城三重櫓管理棟があり、 続日本100名城のスタンプはここに置かれている。
高田城は、明治三年(1870)、本丸御殿、三重櫓などを焼失し、
明治六年(1873)の廃城令により、焼失しなかった建物も、取り壊された。
その後、旧陸軍第十三師団の駐屯地司令部として使用するために、
大規模な土塁の撤去、堀の埋め立てが行われ、旧城地の東半分は、旧状をとどめていない。
本丸を含めた西半分には、堀、土塁の一部が遺跡として残され、
高田公園として整備されている。
高田公園のご案内
「 高田公園は、徳川家康の六男・松平忠輝が築城した高田城の跡に造られた公園で、
全体が新潟県の史跡に指定されています。
現在の公園の地形は、陸軍第十三師団が入城する際、明治40年(1907)に、
土塁の大半を崩して、堀を埋める工事が行われたことによって、出来たものとされています。
公園の面積は約50ヘクタールあり、市街地に位置する公園としては、
全国的にも有数の規模を誇っています。
園内には、復元された高田城三重櫓や総合博物館・小林古径記念美術館・
高田図書館・小川未明文学館などの文化施設、陸上競技場・野球場などのスポーツ施設・
ブロンズ像を配置した遊歩道などがあります。
また、日本画の大家・小林古径の邸宅や、本丸と二の丸を結ぶ極楽橋も復元されています。
高田公園で毎年四月に開かれるのが高田城百万人観桜会で、
高田城は日本三大夜桜のひとつに数えられる夜桜の名所になっている。
陸軍第十三師団が設置された時、三千本を超すソメイヨシノが植栽されたもので、
本丸の周囲にもあるが、その外のさくらロードを中心にシダレ桜など並木道になっている。 」
松平忠直の長男・光長時代の 「高田城絵図」 が描かれていた。
「 高田城は、東に流れる関川を外堀として、
支流の青田川などを西側の外堀とし、
その中央に、約二百三十メートル四方の本丸を配置し、それをを取り巻くように二ノ丸、
南に三ノ丸、北に北の丸を配している。
城の西側に、家臣団の屋敷を置き、町人は青田川の西に住ませ、北国街道を迂回させ、
更に西側を寺院で囲む城下町になっていた。 」
高田駅近くの本町通りは高田城の城下町だった時代からあるものである。
「 城下町の特色はお城を囲むように凹字型に囲むように町が配置され、並行する南北二キロの通りが五本もあり、 そのメイン道路は北国街道で、問屋や商店、旅籠が軒を連ねて、それぞれの職業に応じて、 奥行きが長く大きな吹き抜けがある町屋に集住していた。 」
その家々の軒先を伸ばし、公共の通路に提供する雁木通りが造られているのが雪国ならではの光景である。
以上で、高田城の見学は終えた。
高田城へは、トキ鉄妙高はねうまライン高田駅から徒歩約25分
高田駅からくびき野バスで、大手町十字路下車、徒歩約2分
訪問日 平成二十七年(2015)十月二十八日