トキ鉄・妙高はねうまラインの春日山駅から、バスに乗り、林泉寺入口東で降りた。
そこから、林泉寺までは約150mの距離である。
春日山駅から徒歩で1.3km、約20分である。
入口に、「林泉寺」の説明板があった。
説明板「林泉寺」
「 明応六年(1497)、上杉謙信公の祖父・越後守護代長尾能景公が、
父重景公の十七回忌にあたり、越後鎮護の古寺址を浄め、
長尾氏の菩提所として建立された、曹洞宗の名刹。
開山は、名僧・曇英応禅師。 以来、その法嗣が代々相続して行き、
謙信公は六代六代天室光育、七代益翁宗謙に学んで、
府内守護上杉氏の菩提所至徳寺(臨済宗)と並んで、帰依あつく、
隆盛を極めました。
春日山は、越府の要害として、長尾氏が居館を構えて守り、
山下のここ林泉寺は、府内守護上杉氏の菩提所至徳寺(臨済宗)と並んで、共に栄えたが、
林泉寺は法灯絶えることなく、今にその歴史を語りかけています。 」
林泉寺は正面に小さな惣門があり、その先に山門、山門の先に本堂、右側に宝物館、 左手が墓地という配置になっている。
「 惣門は春日山城の搦手門を移築したものであると言われるものである。
建築形式から、室町時代から江戸初期に造られた門と推定され、
市内最古の建造物といわれている。
山門は、鎌倉時代の様式を取り入れたもので、大正十四年(1925)に建立された。
山門の扁額「第一義」は、上杉謙信の直筆である。
直江津の彫刻家・滝川美堂が、山門の仁王像を制作。
台座を含めると、高さが四メートル近くある。
その奥にある本堂は、創建五百年を記念し、平成十年(1997)に建立された。 」
左に「川中島合戦戦死者供養塔入口」の石柱、右に「上杉謙信公御墓所入口」の 石柱が建つところから登っていくと、 謙信公や堀家三代の墓などと、川中島合戦の死者の供養塔がある。
「 上杉景勝が会津へ国替になったとき、寺は一時衰退するが、
上杉氏に代わって、藩主になった堀氏がこの寺を再興し、
その後の藩主、松平氏や榊原氏の菩提寺となった。
墓地の左奥に榊原氏の墓、手前に、松平土佐と松平綱賢公の墓、
中央奥に川中島合戦戦死者供養塔・上杉謙信公・歴代住職の墓があり、
手前に、堀秀治公と堀秀重公と堀秀政公の墓がある。
右側には、長尾為景公と長尾能景公の墓がある。 」
御参りを済ませ、御朱印をいただき、寺の訪問は終えた。
(ご参考) (山形県米沢市) の 春日山林泉寺
「 上杉景勝が会津へ国替になったとき、
米沢に移った直江直続が、上杉景勝の母(謙信の姉)・仙洞院を開基とし、
元和三年(1617)、当寺十四代万安大悦を招聘して、米沢市に、同じ名前の春日山林泉寺を建立した。
また、上杉氏の米沢転封に伴い、上杉謙信の遺骸・上杉氏の文書・重宝の大半は、
米沢に移された。
上杉謙信の遺骸は、米沢城内本丸に設けられた、お堂に安置され、
歴代藩主の墓は、廟所が別個に造営されたため、
同寺内に設けられてこなかったが、藩主の正室や子女の墓が安置されるとともに、上杉氏代々の菩提寺となった。 」
林泉寺の南に、日本100名城の春日山城のスタンプが置かれている、
「春日山城史跡広場ものがたり館」 がある。
ここに訪れ、館内を見た後、春日山城のスタンプを押した。
春日山城史跡広場は、春日山城から伸びた堀と土塁からなる総構が、
見つかったところである。
監物堀が復元されていた。
「 春日山城は山城であるだけでなく、
屋敷や空掘などが連続して、東裾野まで至っていた。
それを囲むように、堀と土塁からなる総構が、春日山城から上越埋蔵文化財センターまで 約千二百メートル続いていた。
総構えの堀が監物堀と呼ばれ、慶長三年(1598)、 上杉景勝に替わり、
春日山城に入城した堀氏の家老・堀監物直政により築かれたという説がある。
しかし、堀氏は、二年後に福島城築城に着手したとされることから、
春日山城に大規模な普請をするのは考え難いとみられている。
土塁の基底部に焼けた土と炭のまじった土の層が確認されたことから、
調査地の総構は、天正六〜七年(1578〜79) の 御館の乱 の後に築かれたと考えられている。
監物堀の深さは約170cmで、堀の底にはたくさんの板きれが腐らずたまっていて、
水堀であったことがわかった。 」
春日山城には100名城のスタンプが置かれていないため、史跡広場ものがたり館まで 捺印に出向くことになるので、林泉寺はセットで見学に組み込まれることになるなあ、 と思った。
林泉寺:上越市中門前1−1−1 年中無休 9時〜17時
トキ鉄・妙高はねうまラインの春日山駅から、バスに乗り、林泉寺入口東バス停で降車。
そこから、林泉寺までは約150mの距離である。
春日山駅から歩くと、1.3km、約20分である。
訪問日 平成二十七年(2015)十月二十七日