春日山城は、越後守護・上杉氏が戦時のために築いた山城で、
守護所(直江津駅南にあった)から約四キロの位置にあり、
関東・信濃・北陸への往来が一目で監視でき、
守護代長尾家が守護所と連携して守っていた。
長尾為景とその子・長尾景虎(上杉謙信)は、城を整備強化し、
戦国時代有数の難攻不落の城に仕上げた。
日本100名城の第32番に選定されている。
北陸自動車道上越ICから五キロで春日山城跡の下にある春日山神社下駐車場に到着。
大きな、「春日山城跡案内図」 があった。
石段を上っていくと、春日山神社の鳥居があり、その奥に社殿が建っている。
「 春日山の名称は、奈良春日大社から分霊を勧請(かんじょう)して誕生した春日神社に由来する。
春日神社の創建は、天徳二年(958)する説や、守護上杉氏の築城の時とする説、
文明年間(1469〜1486)という説など、諸説ある。
越後守護上杉氏の氏神で、春日山城築城のとき、鬼門神として山頂から遷座されたと伝えられるが、
上杉景勝が会津へ移った後は、春日山城が廃城になったので、神社も途絶えた。
現在の春日山神社は、明治三十四年(1901)、旧高田藩士・小川澄春が浄財を募り、
祭主となって創建したものである。
日本近代童話の父といわれる小川未明は、澄春の長男である。
本殿に祀られている主祭神は、上杉謙信公、併せて祀られているのは、菅原道真と
岩屋大黒天である。
社殿(本殿と拝殿)は、宮大工・江崎長三郎の作である。 」
神社の左の方に向って歩くと、馬場跡で、公衆トイレと茶屋がある。
その右手に、石組の小高いところに、上杉謙信公の銅像が建っている。
その下にある、説明板「春日山城」
「 上杉謙信公の居城として知られる春日山城は、
今から約六〇〇年程前の南北朝時代に築かれたといわれており、
越後府中(直江津)を守る拠点であった。
その後、謙信公の父、為景 ・ 謙信 ・ 景勝 の三代にわたり、普請に努め、
現在見られる大城郭になったと考えられている。
春日山城の特徴は、標高一八〇メートルの本丸跡から、
山裾まで連続する、屋敷跡群と、
裾野に巡らされた総延長一二〇〇メートルの総構え(通称監物堀)である。
関東管領として、関東・北陸に覇を唱えた戦国大名の居城にふさわしい大城郭といえる。
謙信公像
上越市内を見下ろす謙信公の銅像は、昭和四十四年に、
滝川美一によって創作された。
像高は三〇五センチメートル、重量約八〇〇キログラム。 」
上杉謙信公の銅像脇の道を道なりに歩いていくと、
左にカーブするところに右に入る小道がある。
その先には空掘と虎口がある。
左の車道を行くと、右手に上る小道があり、 春日山城案内図のプレートには「200m → 二の丸 330m → 本丸」 の表示がああり、 「甘粕近江守宅址」の石柱が建っている。
登っていくと、「三の丸址」の石柱と、「三の丸」 の説明板が建つ、空地にでる。
奥には土塁が残っている。
説明板「三の丸」
「 謙信公の養子・三郎景虎屋敷跡や、米蔵跡などを総称して、
三の丸屋敷と呼ぶ。
それぞれの屋敷は、段違いに造られて区分され、景虎屋敷跡の東端に、入口が設けられ、今も道が残っている。
三郎景虎公は、小田原の北条氏康の七男であり、上杉氏と北条氏の同盟締結の際に、
養子となった武将、 謙信公が自らの名を与えるなど、破格の待遇を受けていたが、
謙信公の死後、跡目を争った 「御館の乱」 で敗れ、悲運の死を遂げた。
米蔵跡の名が示すように、城機能の中核施設が置かれた場所として考えられており、
春日山城跡で、最も良好な状態で残っている土塁は、
この三の丸の防御の役割を果たしていた。
当時はこのような土塁が、各郭に築かれ、
春日山城の守備をいっそう強固にしていたと、想像される。 」
その左手には、「上杉三郎宅址」 の石柱があり、礎石と思われる石群 が地面にあった。
右手には「米蔵址」 の石柱と、礎石、奥には土塁が残っていた。
三の丸を跡にして登って行くと、道は左右に分かれているが、 二の丸へは、左折である。
三叉路を左折し、坂道を上っていくと、「二の丸跡」 の石柱と説明板がある、 空地がある。
説明板「二の丸」
「 本丸から毘沙門堂を経てお花畑に至る実城と呼ばれる郭群の東裾を取り巻くように造られた郭で、
実城と共に春日山城の中心地区を成している。
本丸の直下にあって、本丸を帯状にかこむ様子は本丸の警護として造作されてことを示すものと考えられている。
古絵図には、「御二階」、「台所」 と、記されているものもあり、
現在も、笹井戸といわれる井戸跡が残っていることも、
当時の二の丸における生活を知る手掛かりとなっている。 」
更に上って行くと、「春日山城案内図」 があり、「← 250m 柿崎屋敷 本丸 100m →(右上) 」の表示板が付いている。
「春日山城案内図」の右手は、二の丸の上部に位置する郭跡である。
「春日山城案内図」 で、休憩所と表示されている、ところである。
その郭と二の丸の間には、空掘跡か?と思った、へこみがあった。
更に上って行くと、「史跡 春日山城址」の大きな石碑と、「史蹟春日山城址」 の説明板が建っている。
説明板「史蹟春日山城址」
「 頚城平野(くびきへいや)の西北に位置する春日山にあって、上杉輝虎(謙信)の居城地であった。
この山上に本丸が聳え、二の丸・三の丸をその下に配して、
(以下文字が読めない) ○○○重ねて比隣に勢威を示した。
頂上は峰ヶ峰と称し、眺望に富み、 付近の属城を充分に監視することが出来た。
本丸址の後方、一段低い所に、大井戸 があって、
夏でも水の枯れなく、その北方に毘沙門丸、及び ○○があった。
また、西方には鐘楼堂や直勝屋敷址等があって、
南方の二の丸・三の丸方面には、家臣の屋敷が在った。
規模は極めて雄大である。
文部省 」
「史跡 春日山城址」の石碑の右手に、「本丸址」の石柱が建っていて、 その奥に、「本丸」の説明板がある。
説明板「本丸」
「 南隣の天守台とともに、春日山城の」お天上」 と呼ばれたところ。
標高一八〇メートルの本丸からは、かっての越後府中(直江津)と周辺の山々の支城跡や、
日本海が一望できる。
関川右岸に広がる、林に囲まれた村落が点在する風景は、
慶長二年(1597)の「越後国絵図」に描かれた中世の景観とほとんど変わらない。 」
しばらく日本海に目をやり、本丸跡を後にした。
「天守台跡」の石碑がある空地に出た。
本丸・天守台跡を後にして、坂を下だると、空地があり、「護摩堂跡」の石柱と、
「護摩堂」の説明板がある。
説明板「護摩堂」
「 謙信公が、出陣前に毘沙門堂に籠ったことはよく知られているが、
護摩を焚いて戦勝や息災を祈祷したのが、この護摩堂である。
護摩の修法は、毘沙門天の信仰とともに、謙信公が真言密教を深く信仰していたことを
如実に物語っている。 」
その奥の道を上ると、「諏訪社跡」 の石碑が建っている。
その先の少し盛り上がった土地に、「毘沙門堂址」 の石柱が建っているが、 毘沙門堂とその説明板は、その先少し下がったところにある。
説明板「毘沙門堂」
「 この御堂には、謙信公が信仰された毘沙門天の尊像(青銅製、
約五〇センチ)が祀られている。
尊像は、景勝公のとき、会津を経て米沢へ移ったが、嘉永二年(1849)の火災で、
被害を受けた。
明治三年(1926)、名匠高村光雲氏が修理した。
そのさい、ご分身が作られ、尊像の欠け損じたのをその体内に収め、
同五年三月に完成し、その後、当市(当時春日村)に寄進され、この祠堂に奉安した。
毘沙門天は、悪魔を降ろす神であり、謙信公は、自らの軍を降魔の軍とみなし、
「毘」 の旗を陣頭にかざし、また事あるときはこの堂前で、
諸将に誓いを立てさせた。
毘沙門天は、四天王のうち、北方を守る多聞天である。
この尊像は、多聞天の姿であり、城の北方を守る意気をもっていたものと、
思われる。 」
現在の建物は、昭和六年(1931)に復原されたものである。
お堂の中に、上記の毘沙門天が祀られている。
その先の下には、「お花畑」の石碑が建っている。
その先の木立の中に、「直江山城守宅址」 の石柱が建ち、 「直江屋敷」 の説明板がある。
説明板「直江屋敷」
「 上杉家の重臣直江家の屋敷跡と伝えられ、お花畑から千貫門までの間に、
上下三段の郭が造られている。
現在は遊歩道があって使われなくなっているが、郭と郭を繋ぐ古道が残っている。
直江家は、上杉謙信公の父為景の代から重臣として仕え、
山城守兼続は、謙信公の跡目を継いだ景勝の家老として、
活躍したことがよく知られている。
景勝が会津に国替えになった時に同行しし、米沢藩三〇万石の城主になったことでも、
その活躍が偲ばれる。 」
下って行くと、「虎口」 の説明板がある。
説明板 「虎口」
「 城に入る玄関にあたるところを 「虎口」 という。
この虎口は、敵が城内に直進できなくするため、図のような、
食い違いになるよう工夫されている。
春日山城は、謙信公の頃に拡大され、壮大な城郭になったと考えられている。
かってはここまでが、城の範囲であった、と推測される。 」
その先の下には空堀が見え、近くに「空堀(からぼり)」 の説明板が建っている。
説明板 「空堀」
「 千貫門と土塁があったところである。
「 ここは、通称、搦手(からめて)、あるいは附内口で、
春日山神社の郭をへて、謙信公の銅像の裏から登る道がここに通じています。
それをたち切るのが、この空掘で、平素は橋がかかっていました。 」
春日山城案内図では、二つの空掘があり、その右手に千貫門と土塁が描かれいる。
下に降り、空掘に近つくと、別の「空掘」の説明板がある。。
説明板 「空堀」
「 千貫門(せんがんもん)の内側に連続する二本の掘が造られており、
門の位置から道のように見える。
空掘は、通常、屋敷を文壇するように造られるが、
ここでは堀の形に見せながらも、門から侵入した敵を沢に落すように、
巧妙に仕組まれた道のように思われる。 」
階段を降りると、 その先に、「千貫門」の説明板がある。
説明板 「千貫門」
「 春日山城の古地図に、必ず描かれている門が千貫門である。
それは、この門が古くから知られていたことを物語っている。
今でも建っていたと思われる部分のみ、土塁が分断されていて、
春日山神社からクランク状の道が、ここに通じている。
三方が土塁と土手に囲まれ、左に二本、一見道と思われる切り通しがある。
じつはこれは空掘の底で、侵入者を空掘から急な崖下に落そうとしたものであろう。
周到に計画された普請は、本丸と千貫門の外とを区画する重要な地点であったことを
うかがわせる。 」
「御屋敷」の説明板がある。
説明板 「御屋敷」
「 この下方に、「御屋敷」 と、名付ける大きな郭(六〇X一一〇メートル)があり、
城主の館跡とされている。
御屋敷の上下に、右近屋敷、その他、大小の郭があって、
「根小屋」 を形づくっている。
その下に、黒金門や蓮池があり、この口が府内口で、
春日神社のある郭への道が通じている。 」
近くに、「上杉少弼入道宅址」 の石柱が建っている。
ここに、上杉謙信の館があったのだろうか?
そこを過ぎると春日山神社の左横に出た。
以上で、春日山城の探訪は終了である。
JR直江津駅から、春日山荘前経由中央病院行きで、春日山荘バス停で下車(20分)、
そこから本丸まで約1時間。
トキ鉄・妙高はねうまラインの
春日山駅から本丸まで、徒歩約1時間30分。
(注) 日本100名城のスタンプは、ここになく、
林泉寺の南の「春日山城史跡広場ものがたり館」に置かれている。
春日山城とは離れた場所なので、注意する。
訪問日 平成二十七年(2015)十月二十七日