名所訪問

「 続日本100名城 村上城 」

かうんたぁ。


村上城は明応末期(1500年頃)越後小泉領主・本庄時長によって築かれた城である。
別名を舞鶴城といい、村上市街地東端にそびえる標高百三十五メートルの臥牛山の頂に築城された平山城である。 
平成二十九年四月六日、日本100名城の第131番に選定された。 


村上城は山城なので、駐車場がないと困るので、とりあえず村上市大町に向かった。
大町交叉点近くにある、益甚の塀に「大町」の説明板が張られている。 

説明板「大町」
「 村上城の大手門(追手門)前の町。 
上町との境は、安良町への丁字路となり、高札場があって、 「札の辻」 と呼ばれた。 
寛永十年(1633)、元羽黒にあった羽黒神社の現地への遷宮の折、 当町が車に載せた太鼓を打って、町を練り歩いたのが、村上大祭の初めとされる。
同十二年(1635) の 「村上惣町並銘々軒付之帳」 には、家数三十七軒とあり、 寛文五年(1665)の文書には、 造り酒屋が十一軒が見える。
大町の由来は、城下の中心的な繁華な町の意を込めたもの。
   平成十九年  神無月   村上商工会議所           」

益甚は、かっては蔵元だったようで、当時使用していた、 酒を絞る酒槽(さかぶね)や、「貧乏徳利」と呼ばれる通い徳利などを展示していて、 大洋盛などの村上の銘酒など、販売していた。

村上といえば、鮭の塩引きや鮭の珍味「酒びたし」が、有名である。 

「 村上の人々は、市内に流れる三面川で獲れる鮭のことを  「イヨボヤ」 と呼ぶ。 
シベリアからの季節風がもたらす雪が豊かな水資源となり、卵から孵った鮭を育む。 
鮭たちはやがて大海原へと出て行き、回遊後にまたふるさとに帰ってくる。 
この鮭の回帰性を世界に先駆けて発見したのは、 村上藩の下級武士の青砥武平治である。 
江戸時代、藩の重要な財源であった鮭を研究し、回帰性を発見し、  三面川の本流に、バイパスする流れを作り、 海から帰ってきた鮭が安心して産卵できるように孵化を助ける為のシステムを考案し、鮭を増やした。 
村上では、鮭の腹を割き、はらわたをとりだした後、寒風に晒し、 二年程保存したものをいろいろ加工して販売している。 」

味匠喜の川はそうした店の一つで、建物は百三十年程経つという。
現在の店名は、村上の千年鮭 きっかわ である。
店内と工場には千匹の鮭がぶらさげられて、壮観であった。 

益甚
     味匠喜の川      ぶらさげられた鮭
益 甚
味匠喜の川(現 千年鮭 きっかわ)
ぶらさげられた鮭


三之町に、おしゃきり会館がある。
おしゃきりとは、村上大祭で曳き回される山車のことである。

屋台(シャギリ)の由来
「 県内三大祭りの一つで、豪華な夏祭りとして知られる村上大祭は、 例年七月六日(宵宮)、七日(本祭り)、八日(ハンバキヌギ)にかけて行われる。
この祭礼は、三基の神輿が町内を御巡行になる。
この御巡行には、少年が奉仕する荒馬十四騎がこれを先導し、十九台の華麗な屋台 (シャギリ)が供奉して曳回される。。
これは、村上の工匠たちが、腕を競って作った彫刻と漆の粋をあつめたものである。
また、屋台の車の直径が一七〇センチもあり、全国でも数多く見られない。
現在ある屋台のうち、一番古く作られたものは、宝暦十年(1760)であり、 これらの屋台は当市の貴重な文化財である。 」

おしゃきり会館は、その山車が展示されているので、 そう呼ばれるが、正式名は村上市郷土資料館である。
続日本100名城の村上城のスタンプはここに置かれている。

村上城は、村上市街の東方に位置する。
二之町の村上法務合同庁舎の前を直進すると、 狭い道の行き止まりにある公園前に出た。

「村上城跡」の石柱と、「七曲道」の道標がある。

本丸へ向かって、くねくねした七曲がりの道を上っていく。 

山車(しゃきり)
     「村上城跡」の石柱と道標      七曲道
山車(しゃきり)
「村上城跡」の石柱と道標
七曲道


登っていくと、右側に石垣が現れた。
そこに着くと、「四ッ門跡」の標柱があり、 両側の石垣は門を支える石垣である。

「国指定史跡 村上城跡」 の説明板が建っている。

説明板「国指定史跡 村上城跡」
「 村上城跡は、標高135メートルの臥牛山を中心に広がり、築城年代は 16世紀初頭と推定される。
城主は、国人領主の本庄時長であり、以降、房長・繁長と戦国期三代にわたる居城となる。
江戸期の元和四年(1618)には、徳川譜代の堀直寄(なおより)が10万石で入封し、 縄張りを行い、山上の曲輪を拡張し、石垣を築くなど、 それまでの中世的な城を近代城郭へと、変貌させた。
総構えの規模は、南北1.4km、東西2.3km。  山上は本丸・二の丸及び三の丸から成り、西側山麓には城主居館が配され、 東側には大小の曲輪が設けられていた。
慶安2年(1649)、譜代の松平直矩(なおのり)が、15万石で入封すると、 家臣数の増加に伴い、再び、城と城下の改築に着手する。
現存する石垣の多くが、このとき、積み替えられたものと、推定される。
村上城跡は、地形を巧みに利用した戦国期の遺構と、 新潟県下最大規模の江戸期の石垣とが、共存していることが、 他に類を見ない最大の特徴であり、中世と近世の両方の遺構を散策することができる。  」

江戸期の石垣
     四ッ門跡      「村上城跡」の説明板
江戸期の石垣
四ッ門跡
「村上城跡」の説明板


更に登っていくと、石垣が右手に見えてきた。
手前の土には、田の形のようなくぼみがあり、それは何か気になった。
この石垣は、御鐘門の石垣と思った。

この先に、「朝日・飯豊名峰の眺望」という看板がある。
看板の先に見えたのは、大平山を中心とした峰々である。
更に進むと、石垣が見えてきて、下に「出櫓跡」の標柱が建っている。
出櫓の石垣の上にあるのは、本丸の石垣である。

御鐘門の石垣
     「朝日・飯豊名峰の眺望」の看板      出櫓跡
御鐘門の石垣
「朝日・飯豊名峰の眺望」の看板
出櫓跡


その先には、「冠木門跡」の標柱があり、両側に石垣が残っている。
石段を見ると、門の礎石と思われる、四角の穴がある石があった。

頂上付近にある本丸跡に到着。
奥に、鳥居が二つ建っている。

その奥に石段があり、石段を上ると、本丸より少し高い土地に、 「天守跡」の標柱があり、その奥に「臥牛山 135m」の道標と百葉箱、 その奥に「舞鶴城跡」 と彫られた、大きな石碑が建っている。 

「 舞鶴城は、村上城の別名である。
村上城は、寛文七年(1667)の落雷で、天守は焼失し、その後、再建はされなかった。 
慶応四年(1868)の戊辰戦争で、村上藩は親幕府派と新政府派とに分かれて分裂状態となり、官軍の攻撃を受けた村上藩兵が、山麓の居館に火を放って庄内方面へ脱出した。 
明治三年(1870)、元藩主・内藤信美が焼け残っていた城郭の破却を政府に届出。
城下の諸門や石垣は、明治八年までに解体し、売却された。
村上城の遺跡は解体後、最近修復された石垣のみである。  」

以上で、村上の旅は終わった。

冠木門跡
     本丸跡      天守跡
冠木門跡
本丸跡
天守跡


村上城へは、JR羽越本線村上駅から車で約5分  
村上城のスタンプは村上市立郷土資料館(9時〜16時 12/29-1/4休み)にある 

訪問日    平成二十七年(2015)十月二十六日



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