慶長三年(1598)、溝口秀勝が六万石の所領を得て、加賀大聖寺から新発田に入封し、
戦国時代、新発田重家が本拠地とした旧新発田城跡に、
築城を開始し、承応三年(1654)、三代宣直の時に、完成した。
周囲を沼沢地に囲まれ、会津方面に張り出す瓢箪形をした特異の縄張となる。
寛文八年(1668)と、享保四年(1719)に焼失したが、その度に再建された。
日本100名城の第31番に選定されている。
新発田城跡は、自衛隊の基地と公園になっていて、
立ち入ることが出来るのは公園部分のみである。
新発田城の本丸と二の丸の間は、水堀で囲まれている。
水堀に架かる土橋を渡ると本丸表門があり、その前に、
「重要文化財 新発田城表門二ノ丸隅櫓」 の石柱が建っている。
「 表門は、桁行九間(約16、3m)、梁間三間(約5、4m)の二階建の櫓門で、 腰回りは瓦張りの海鼠壁で仕上げている。
二階に、格子窓を設け、門の真上の床を外して、石落としとする構造となっている。
創建の時期は特定されていないが、
現在の門は、享保十七年(1732)に再建されたと、伝えられる。
昭和三十二年(1957)に、国の重要文化財に指定され、
昭和三十四年〜三十五年に、解体修理が行われている。 」
表門の受付に、日本100名城のスタンプがあるので、捺印した。
門の裏側に、しゃちが置かれている。
また、「新発田城跡」 の説明板が建っている。
説明板「新発田城跡」
「 新発田城は、戦国時代には、佐々木氏の一族・新発田因幡守重家の居城であり、
近世は、慶長三年(1598)に入封した、新発田藩主・溝口秀勝が築城を開始し、
以降、溝口氏十二代の居城となりました。
廃藩置県後、歩兵第十六連隊の兵営となり、
現在は、新発田城址公園と陸上自衛隊駐屯地となっています。
石垣延長約三五〇m。
新発田市教育委員会 」
その隣に、「本丸跡」 の標柱があり、下記の説明文が書かれている。
説明文
「 本丸は城主の居住地であるが、攻防戦の際には最後の根城となる。
新発田城の本丸には、出入口として表門と裏門があり、
櫓としては、鉄砲櫓・三階櫓・折掛櫓・辰巳櫓があった。
居館である本丸御殿は、柿葺(こけらぶき)の二階建てで、室数は百三十に及んだ。
毎月一日などのほか、年始、七夕、重陽の節供の日には藩士が総登城して藩主にあいさつすることになっていた。
平成五年 新発田市教育委員会 」
本丸跡には、 新発田藩初代藩主・溝口伯耆守秀勝の銅像が建っている。
「 新発田に入封した溝口秀勝は、五十公野に仮の住居を構えたが、 新発田氏の城跡(江戸時代には古丸と呼ばれていた)に、築城を始め、 縄張りは、家臣の軍学者・長井清佐衛門と葛西外記が行い、 入封から、五十六年後の承応三年(1654)、三代藩主・宣直(のぶなお)の時代に、完成させた。 」
城郭図
「 新発田城は、城の北部を流れる加治川を外堀に利用した平城である。
城の構えは本丸を中心に北の古丸と南の二の丸で囲い、
その南方に三の丸がつき出した変形の輪郭・梯郭式併用型の城である。
南以外の三方面が湿地であったこと、
また、会津方面の守りを重視したことによると考えられる。
本丸の辰巳の隅に、外部の各層を白漆塗りで仕上げている辰巳櫓が建っている。
説明板「辰巳櫓」
「 辰巳櫓は、表門に向って、正面右手、本丸から見て、辰巳(南東)の位置にあり、
木造の二層二階櫓で、入母屋造、本瓦葺きです。
かって、赤穂義士・堀部安兵衛の父(中山弥次衛門)が管理責任者で、
櫓の焼失の責任をとって浪人となりました。
安兵衛は、 (新発田の旧外ヶ輪に生まれたが、十八歳の時)
家名再興のため、江戸に出て、高田の馬場の敵討(かたきうち)によって、名を挙げました。
平成十六年六月に復元しました。
新発田市教育委員会 」
辰巳櫓の中に入ると、新発田城三階櫓のミニチュアが展示されていた。
辰巳櫓の反対側の隅にあるのは、移築されてきた旧二の丸隅櫓である。
説明板 国指定重要文化財「旧二の丸隅櫓」
「 旧二の丸隅櫓は、桁行五間半(約9.9m) 、梁間四間半(約8.1m)、
入母屋造の二層二階櫓、 寛文八年(1668)の大火後、再建されたものです。
二の丸北部にあったものを、昭和三十四年(1959)から、翌三十五年にかけて、
解体修理を行い、 本丸鉄砲櫓跡の現在地に移築したもので、
腰回りは瓦張りの海鼠壁に仕上げられています。
新発田市教育委員会 」
表門を出て、右折して堀に沿って進むと、右手に旧二の丸隅櫓が見えてきた。
城の見取り図を見ると、以前には、手前の左のあたりに、土橋門があった。
、
二の丸からの入口で、敵の侵入に備えていた。
表門を出て右に歩いてくると、帯曲輪跡にでる。
堀の対面は本丸で、現在は旧二の丸隅櫓が建っているが、当時は鉄砲櫓が建っていた。
「 帯曲輪は本丸の堀を隔てた南部にあり、
本丸と二の丸との間にあった。
今は埋め立てられてないが、左側には外堀があった。
帯櫓の左端には土橋門と番所が建っていた。 」
番所跡に、「新発田城」 の説明板が建っている。
また、その先に、 「新発田城 土橋門・帯曲輪跡」 の説明板が建っている。
説明板「土橋門・帯曲輪跡」
「土橋門」
土橋門は、二の丸から土橋を渡った帯曲輪の手前(左側土塁間の道路)に配置された門で、
形式は薬医門です。
本丸と二の丸の間に、帯曲輪という防衛線を設け、その入口を固める門です。
土橋の手前は、御下馬と呼ばれており、騎馬の侍はここで馬を下りて歩いて登城しました。
土橋門は、新政府の命令で取り壊されましたが、
取り壊し前の古写真や絵などが残っているほか、
同様の形式の家老の門が、清水園に移築保存されており、
当時の姿を再現することが可能です。
「帯曲輪」
城は本丸、二の丸など幾つかの曲輪(郭)から、構成されています。
帯曲輪は、帯状の形からこう呼ばれます。
新発田城の帯曲輪は、本丸表門の守りを固めるため、
本丸と二の丸の間に配置し、防御に工夫を凝らしていました。
看板左側の土塁が、その名残で、看板が立っている所が堀跡です。
土橋門に近づいた敵が土橋門の左右の土塀のほか、
左側の本丸鉄砲櫓から一斉射撃を受けます。
仮に、土橋門が破られても、帯曲輪内で本丸石垣上の土塀や鉄砲櫓から、
十分敵を攻撃でき、
(鉄砲櫓は攻撃の死角が無いように30度ほど表門側に向いているため、
表門に近づく敵も斜めから攻撃できる)、
本丸表門の橋は、以前は木橋で、いざというときに切り落とすことができました。 」
左側にある石垣と土塁は、土橋門の跡であろう。
土橋門の復原想像画があった。
その先が二の丸跡で、「新発田城」と書かれた、大きな石柱が建っている。
江戸時代にはその先に西の門があった。
二の丸跡は、新発田城公園として整備されている。
内堀の先に見えるのは、本丸の三階櫓である。
「 本丸には、実質上の天守として、
北西隅に、丁字型をした三重櫓が築かれた。
「三階櫓」 と呼んで、幕府に遠慮し、 天守 を公称しなかったが、
三階櫓は新発田城における実質的な天守である。
承応三年(1654)に創建されたものは、寛文八年(1668)の火災により焼失し、
延宝七年(1679)に再建された。
明治初期に撮影された写真によると、続櫓(付櫓)を伴った、
複合式層塔型三重三階で、
一重目の西面と南面に、切妻破風を持った石落としを兼ねる出窓があり、
三重目屋根の棟は、丁字型に造られ、棟上には三匹の鯱が載せられている。
明治七年(1874に破却されたが、明治の写真などを基に、平成十六年に再建された。 」
新発田城へは、JR羽越本線「新発田駅」から徒歩20分
新発田城のスタンプは、新発田城表門受付(9.00〜17.00)にて
但し、冬季(12月〜3月)は非公開
訪問日 平成二十七年(2015)十月二十六日