JR須原駅から須原宿・野尻宿・三留野宿を見て、南木曽駅まで歩いた。
◎ 須原宿
JR中央本線の須原駅で下車すると、西側に県道265号があろ。 これが中山道である。
中山道の須原宿の江戸側入口はこの道を右に下ると国道19号に合流するが、
ここに、「須原宿」 の看板があり、このあたりにあったと思われる。
江戸時代には江戸方の枡形入口であった。
「 須原宿は、慶長七年(1602)の江戸幕府の街道の開設により、
中山道の宿場に制定された。
宿場の長さは四町三十五間(450m)という短さで、
天保十四年(1843)の中山道宿村大概帳によると、家数は104軒、人数は748人、本陣一、
脇本陣一、旅籠24軒で、中山道では中規模の宿場であった。 」
駅前広場の江戸寄りに、 幸田露伴の文学碑と説明板がある。
説明板「幸田露伴と須原宿」
「 文豪幸田露伴は、明治二十二年冬の頃、木曽路を旅して須原に泊まる。
彼は此の地を訪れた縁を基に、その出世作、小説風流佛を著す。 時二十二歳。
ここに文中の一部を抜粋して記念碑として文豪幸田露伴を偲ぶ。
「名物に甘きものありて空腹に須原のとろろ汁、殊の外妙なるに飯数杯か滑り込ませる(以下略)。
平成五年十月吉日 大桑村観光協会 」
道を挟んだ向かいに須原名物桜の花漬を商う大和家がある。
私達からは遠い存在の幸田露伴であるが、
かれが書いた、出世作・小説風流佛 に登場するのが、 「花漬け」
である。
「 江戸時代、須原宿の名物は花漬けだった。
駅前の大和屋という小さな店では宿場時代からの須原名物・花漬を売っている。
現在の花漬けは桜の塩漬けだが、むかしは梅肉を小桶に詰め、
梅・桜・桃の小枝をさし並べた美しいものだった、という。
湯呑に漬けられた桜の花房を一、ニ輪入れ、
煮え湯をそそげば桜の香りのする風味ある塩味が出る。
煮え湯という表現に、一日中囲炉裏の上に吊るされた鉄瓶を想像して呑むのも一趣である。
花漬けはこの宿場でしか売られていないので、要注意。 」
大和屋の隣には、新しい 「須原宿一里塚跡 江戸へ七十五里、京都へ五十七里」 の石碑が建っている。
須原は宿場の情緒を色濃く残した家並を保っている町である。
上町上を進むと、右側の寝具店の並びに、 「須原宿高札場跡」 の標木が建っている。
この先の右側で、先程の三叉路で、中山道の枡形から石段を上ってきた道と合流する。
ここは須原宿東枡形跡である。
須原では、道のいたるところどころに水神が祀られていて、 水舟(檜の大木を刳りぬいた長い水槽)から、豊富な湧水があふれている。
「 須原は木曾氏の領地であったが、
江戸時代に入ると徳川幕府の天領になり、元和元年(1615)に尾張藩の領地になった。
須原宿の開設当時は、木曽川べりにあった。
正徳五年(1715)六月の洪水で被害を受け、宿場の大部分が流失した。
二年後の享保二年(1717)、現在の一段高い土地に移転した。
宿場の両端(出入口)に桝形を配置し、宿の中央で、道をくの字に折り曲げたレイアウトである。
裏山から引いた豊富な湧水を水舟にあふれさせて、共同井戸として利用し、
宿場の中央の用水路に流すように設計している。
そのため、木曽路では広い道幅の五間で、木曽路の他の宿と違い、ゆったりと歩ける
ようになっていた。 」
水舟は、正式には 「舟形樋」 といい、町中を流れる水を汲み溜めるもので、 舟の形に丸太をくり抜いたものである。
江戸時代の記録に
「 須原宿は中仙道に面して数多くの井戸があり、生活の場として親しまれた。 」
とあり、宿場内には多くの水舟が用意され、旅人は自由に飲めるようになっていた。
夏には果物や野菜を冷やし、洗い場にもなった生活に欠かせない場所だった。
現在も七つある、と聞いていたが、数は確認できなかった。
本町に入ると左側に 「須原宿本陣跡 主 木村平左衛門」 と書かれた標木が立っている。
須原宿の本陣は、木村平左衛門の世襲で、問屋も庄屋も兼ねていた。
皇女和宮はここで昼食をとられた。
その先の右側に、 「西尾翁記念碑」 があり、それに並んで、西尾酒造所がある。
説明板「 脇本陣・西尾家」
「 西尾家の祖は菅原氏と名乗っていたが、天文年間にこの地にきて土着。
木曽義元の家臣となり、地域開拓に力をいれるとともに武功もあげた。
天正十八年、木曽氏が秀吉の命で、下総の綱戸に移封されるも、この地に留まり、
その後の木曽代官・山村家に仕えて、尾張藩の山林取締役等の重責を担った。
須原が中山道の宿駅になると脇本陣を勤め、問屋、庄屋を兼ね、宿役人として重きをなした。
その傍ら、酒造業を営なんでいた。 」
西尾酒造所は酒屋として三百年の歴史がある老舗で、木曾のかけはしを買ったが、 辛口でなかなかいける酒である。
「 かって木曽の十一宿で本陣、脇本陣を勤めた家はほとんどが問屋や庄屋を兼ね、素封家で酒造業を営む家が多かった。
しかし、現在まで酒造業をそのまま続けているのはこの西尾家一軒のみである。 」
向かいに、水舟と正岡子規の歌碑がある。
「 寝ぬ夜半を いかにあかさん 山里は 月出つるほとの 空たにもなし 」
子規はこの時のことを紀行文で、次のように書いている。
「 須原に至れし頃は夜に入りて空こめたる山霧深く、 朧朧の月は水汲む人の影を照らして、寂寞たる古歌の様という形勢なく、 静かなる道の中央には石にてひも古風の井戸有りて、神社の灯籠その傍にさびしく立てり。 」
碑の前の水舟は木曽五木の一つサワラの大木をくりぬいたものである。
その先の右側に、「清水医院跡」 の標木が建っている。
「 島崎藤村の 「ある女の生涯」 の舞台になった清水医院は ここ須原にあったが、建物は愛知県犬山市の明治村に移設、永久保存され 、その跡地には民家が建っていた。 」
左側に文化十年(1813)建立の常夜燈があり、竿石に 「秋葉大権現・金毘羅大権現・ 愛宕大権現、 台座に当町中 と、刻まれている。
奥には須原の鎮守の鹿嶋神宮仮宮がある。
道はここで右にカーブする。
須原には今も出桁造りと格子の民家が連なって残っている。
まさに、古きよき風情の宿場町である。
茶屋町に入ると右側に民宿すはらがある。
旅籠吉田屋跡で、明治二年(1869)の建築で、往時は日の出講、真誠講などの定宿で、
御嶽参りの人々で賑わっていたという。
左側にある須原柏屋は、かっての旅籠・柏屋徳次郎跡で、
二階の軒下に、 「三都講」 と 「御嶽講」 の看板が掲げられている。
江戸時代の中山道はここで突き当たりとなり、右折する枡形になっていて、
宿場にまっすぐ入れない構造になっていた。
また、その先の定勝寺が防衛の役割を果たしていた。
ここが須原宿の京方入口であり、須原宿はここで終わる。
現在、枡形の跡は直通する車道(県道265号)に作りかえられ、
定勝寺前を通っているので、定勝寺に立ち寄る。
門前にはしだれ桜が枝を垂れ、風情あるたたずまいを見せる。
参道口に 「明治天皇御在所跡」 の石碑が建っている。
「 定勝寺は、臨済宗妙心寺派 浄戒山定勝寺が正式名で、
木曽三大古刹の最古刹である。
木曽氏十一代木曽親豊が創建した寺だが、二度の洪水で壊された。
慶長三年(1598)、木曽代官だった石川備前守光吉が、
木曽義在の居館跡(愛宕山城)の現在の土地に移転し、再建した。
応仁の乱以前の須原は、この地方の政治の中心で、
愛宕山城は木曽氏が統治した典型的な山城であった。
戦国時代に入ると、木曽氏は居館を北部の木曽福島へ移し、政治の中心も移ってしまった。 」
桃山風の豪壮な建築様式の特徴を留めた慶長三年(1598)建立の本堂、承応三年(1654)
の庫裏、万治四年(1661)の山門は、近世禅宗寺院の姿を示すものとして、
國の重要文化財に指定されている。
庭園も美しく、檜造りの達磨大師の大座像が有名である。
先程の枡形跡に戻ると、ガードレールのある水路のところに入り、
突き当たりを左折する。
最初に曲がったところが鍵屋の坂で、水路の両側が道になっている珍しい景観である。
鍵屋の坂を下り、坂下の竹林で左に曲がり、
そのまま進むと定勝寺門前を抜けてきた県道に合流するので、右折する。
緩い坂を上ると左側の 「須原宿」 の石標の左面に 「左野尻宿」 と書かれ、
また 「↑中山道国道19号線→」 の交通標識がある。
長坂を上り、JRの第9仲仙道踏切を渡る。
右側の木曽川の対岸に、須原発電所がある。
「 福沢諭吉の娘婿の福沢桃介が、大正十一年(1922)に造った発電所である。 」
下りになると橋場集落に入る。
大桑村公民館橋場分館で左折すると、 左側の山腹に懸崖造りの岩出観音がある。
「 観音堂は、伊奈川観音又は橋場観音ともいわれ、
江戸時代から昭和の初期にかけては馬産地・木曽の三大馬頭観音として、
日義村の岩華観音、開田村の丸山観音と共に、馬を産育する人々の信仰を集めた。
お堂にはコッパ観音と呼ばれる馬頭観音が祀られている。
木曽の清水寺といわれる建物は、懸崖宝形作りである。
江戸時代の文化十年(1813) 以降に、須原の定勝寺住職により再建されたものである。 」
本尊が馬頭観音なので、昔は馬を飼っている人が多くお詣りにきたらしいが、
今日では競馬関係者以外は馬との関わりがなくなってしまった。
堂内には山村家の絵師・池井祐川 の絵馬をはじめ、
奉納された数多くの美しい絵馬が残されているようだが、
外に掲げられている絵馬は風雪に晒されて顔料が禿げ、
もとの絵が分からない状態であった。
「 堂の入口や裏の山肌には、多くの観音像が林立していたが、
これもすべて馬頭観音像である。
自動車が普及しない昭和三十年代までの日本で、馬の地位が高く、
それを全国に出荷する馬産地の木曽にとっては人以上に馬が大切だったことが分かる
貴重な遺品である。 」
◎ 野尻宿
街道に戻り、伊奈川を伊奈橋で渡る。
橋を渡ると、大桑村大字須原から大字長野に変わる。
「
現在の橋は昭和の昭和製のコンクリート橋であるが、江戸時代には刎ね橋であった。
文化二年(1805) の 木曽路名所図会に、
「 伊奈川は水流奔騰(ほうとう)して其声雷霆(らいてい)の如し。
水漲(みなぎ)して畏るべし。 」 と紹介されている。 」
英泉の木曽街道六十九次の野尻宿は、 伊奈川と伊奈橋を描いている。
「 伊奈川に橋脚を立てても一旦増水すると流れ来る大石で破壊されてしまうため、
刎ね橋が架橋された。
英泉の浮世絵には屹立(きつりつ)する山の間から激流がほとばしり、
その流れに杭のない刎橋が架けられ、
画面の左上に岩出観音堂が崖の上にそびえている姿がシルエット風に描かれていて、
なかなかの傑作である。 」
橋場集落は、伊奈川橋の番をするために、番所が置かれたのが始まり、といわれる。
橋を渡り、三叉路を左折し直進すると、国道19号の伊奈川橋交叉点に出る。
最初の三叉路を左折し、その先の交叉点を左折する。
このあたりは大島集落で、曲がったところの角に水場がある。
道なりに進み、神明神社、保育園と進むと右に大きくカーブする。
三叉路に、 中北道標「←天長院300m ↑八幡神社1.5q 岩出観音1.6km→」 があるので、
それに従い右折する。
天長院に寄るにはその先の道標に従って左折する。
天長院に寄らない場合は中山道は直進する。
天長院の江戸時代後期の建物は、十数年前の火災で燃えてしまい、
新築したばかりの建物が建っている。
「 天長院の正式名は地久山天長禅院である。
室町時代に木曽家祈願所として、
木曽古道沿いの伊奈川大野に、天台宗の広徳寺として創建されたが、その後焼失。
文禄三年(1594)、臨済宗妙心寺派の定勝寺七代天心和尚により、
天長院と名を改めて再建された。
その後、街道の変遷により、寛文年間(1662〜)に地蔵堂があった現在地に移転したもので、
須坂の定勝寺の末寺になっている。 」
この寺にはマリア地蔵といわれる子育て地蔵があるので有名で、 マリア地蔵は山門石段の頂上近くにある。
「 マリア地蔵は、地蔵が抱いた子供の着物の紐が
十文字になっているところからいわれる。」 とあったが、
一見したところでは抱いた子供の着物の紐が十文字になっているようには見えなかった。
石仏が風化してしまっているので、よく分からなかったというのが感想である。 」
寺の境内にはいろいろな石仏や石碑群がある。
入口近くにあった地蔵像群はいろいろなポーズをしていて、面白い。
天長院を出て、曲がってところに戻り、道なりに進む。
突き当たりのT字路で左折すると大桑駅入口の交叉点があり、
右折するとJR中央本線大桑駅がある。
駅の周辺にレトロ調の店が一軒あった。 また、家の標札に「弓矢組長」があった。
「 この辺りは間の宿・弓矢村で、茶屋本陣もあり、
十九軒の茶屋があった。
野尻と須原の中間に位置するので置かれたのだろう。
このあたりは明治以降、大火に遭っているので古い家はない。 」
大桑郵便局の先で長野橋を渡る。 その先の左側に一対の奉燈が立っている。
この辺りは長野集落で、江戸時代の記述に 「 木曽川に合流した谷に面して山側に
へばりつくように住居が建っていた 」 と記されている。
坂の途中に村役場があり、車が一台がやっとのJR第10仲仙道踏切で渡り、国道に出る。
中山道は左折して進むが、右折して駅の方に行くと、古中山道に、大桑一里塚がある
ようである。
国道は一部歩道がないため、少し不安を感じる。
国道を上ると頂上の右側に手打ちそば関山がある。
ここは狭合いの地で、木曽義仲が片欄干橋を架橋し、関所を設けたところといわれ、
関山の地名が付いている。
左側にGSと大桑道の駅があるが、GSの手前に、 「明治天皇古田原御野立所」 の石碑が
建っている。
右側の 「のぞきど森林公園」 の看板があるところで、斜め右に下る。
JRの第11仲仙道踏切を渡り、緩やかな下り坂を進む。
上在郷集会所を過ぎたら三叉路を直進する。
JRの第12仲仙道踏切を渡ると急な坂の倉坂(くらんさか)を上る。
坂を上がりきって赤いレンガの建物が見えたら、手前を左に上る。
ここには、新しい 「左野尻宿」 の標石と、中北道標「←白山神社5.4kmJR大桑駅7.1km
野尻宿→」 がある。
すぐ右の細い道に入る。 ここにも 「右野尻宿」 の標石がある。
ここは枡形跡で、ここが野尻宿江戸方(東)の入口である。
「
野尻宿は、慶長六年(1601)に中山道宿駅が制定されたときからの宿場である。
宿場の長さは六町三尺(約655m)で、木曽路では奈良井宿に次ぐ長さである。
上町・本町・横町・荒田の四つの町で構成され、
野尻の七曲がりと呼ばれる町並みを形成していた。
天保十四年(1843)の中山道宿村大概帳によると、
家数は108軒、宿内人口は986人、本陣一、脇本陣一、旅籠19軒である。
旅籠の数は最盛期には三十数軒で繁盛していたと案内にあるから、
木曽路の中では中規模の宿場だったのだろう。
「 野尻宿は、国道19号と木曽川の間の段丘の上にあり、
三留野宿とは八人石で、須原宿とは関山で、境としていた。
木曽路名所図会には 「野路里」 と表記されている。
宿場は外敵の侵入を防ぐため、屈曲した七曲りになっていた。
家並は明治二十七年(1894)と、昭和十八年(1943)に、大火に遭い焼失している。 」
枡形に入ってすぐの右カーブのところに、 「高札場跡」 の標板、 その横に 「南無妙法蓮華経」 と大書された題目碑がある。
標板「高札場跡」
「 題目碑の塔の台石はイボ石と呼ばれ、イボを箸でつまみ、
この台石にのせる仕草をすると、イボがとれると伝えられる。
江戸時代にはここに高札場があった。 」
その手前の北東に妙覚寺があるので、立ち寄った。
予想していた以上に立派な寺で、入口脇にあった 「法雲山妙覚禅寺」 の石柱は
立派のもので、正面には阿弥陀仏石碑や石仏が並んで立っていた。
「 妙覚寺(みょうかくじ)は法雲山妙覚禅寺といい、
当初は天台宗だったが、初屋(しょおく)和尚により開山され、
寛永元年(1624)に臨済宗に改宗し、再建された。
享保五年、須原の定勝寺の末寺になり、弘道法嗣秀峰和尚を請して中興の祖とした、
という寺院である。 」
山門もなかなか立派である。 また、山門前の植え込みがきれいだった。
石段を登って入ったら、本堂があった。 禅寺らしい作りである。
享保十一年(1726)に建てられたものだという。
裏庭には小さな石祠があり、その中に小さな石仏が納められていた。
これがこの寺で有名なマリア観音である。
「 一見千手観音風の石仏だ!!
裏面には 「天保三辰年(1832)」と刻まれていた。
脇の木札には 「 左手に高くかかげているのはまぎれもなく十字架。
切支丹禁制のきびしい時代にひそかに作られ安置されたものである。」 とあった。
確かに十字架らしく見えた。このマリア観音は当初から寺にあったものではなく、
昭和四十六年、川の対岸の野尻川向から移置されたものという。 」
街道に戻る。
枡形から右に曲がって、すぐの右側の家の塀の前に、
「野尻宿東のはずれ」 の標識が置かれている。
尾上家が宿の東のはずれにあったことから屋号が、 「東のはずれ」 となった。
野尻宿の家並はこの家から始まっていた、という。
ここから上町、中町(本町)、横町(横宿)と続くが、
道は右に左にくねくねとうねって上り下りが多く、幅も狭い。
右に曲がると左側に、常夜燈と奥に祠がある。
「 野尻宿は七曲がりとして知られた宿場である。
中町(本町)と横町(横宿)が底部で、上町と新田に向って坂道になっている上に、
左右にくねくねと曲げて、人の出入りが難しい設計になっていた。
多くの宿場では、出入口に 「枡形」 を築いたが、
この宿では七曲がりがその役を果たしていた。
現在も道幅も狭く、左右に曲がっているので早く走れない。
国道からほんの少し入ったところなのに、車がほとんど入ってこないし、
入ってきた車もスピードを落として、走りずらそうに走っていた。 」
坂を下り中町に入る。
道の左側の民間施設の前に柵があり、「明治天皇御小休所」 の石碑が建っている。
「
野尻宿の本陣は森家が務め問屋も兼ねていた。
明治十三年(1880)明治天皇が巡行の際、ここで休息された。
建物は明治二十七年(1894)の野尻の大火で焼失した。 」
すぐ先の右側に新しい 「野尻宿脇本陣跡」 の石碑がある。
木戸家が脇本陣を勤め、問屋、庄屋も兼務した。
七曲りを進むと、左側の野尻駐在所の前に、 「御大典記念碑」 と、
大石の上に小祠が祀られている。
左側の旅館庭田屋の向かいを下ると、JR中央本線野尻駅がある。
現在の野尻は、駅を中心に商店や旅館(実は民宿)があり、街の中心になっている。
横町付近には大戸とくぐり戸、竪繁(たてしげ)格子をはめた低い二階屋の古い民家
が残っている。
まさに木曽路の旅籠を偲ませる風景である。
宿の終わりは 「はずれ」 という屋号を持つ吉村家である。
説明板「はずれ」
「 この家が宿場の端だったので、西のはずれと呼ばれた。
また、木曽福島側の上町にも、東のはずれがある。 」
現在はその先にも家が建っているので、はずれ ではなくなっていた。
◎ 十二兼(じゅうにかね)
野尻宿の「西のはずれ」を出ると友田川の橋を渡る。
ここが野尻宿の京方(西)入口である。
県道261号を進むと、Y字路に、 中北道標「←野尻駅0.5km フォレストスパ木曽
2.8km→」 がある。
Y字路中央の民家前の砂利道が下在郷旧道で、少し歩くと県道に出る。
左側の下在郷公民館の所に野尻一里塚跡の石碑があり、江戸より七十七里目である。
宮の沢を下在郷橋を渡ると左側に 「右中山道 左中山道野尻宿」 の道標がある。
右側の山並みにちょこんと盛りあがった飯盛山を見ながら進むと、変則三叉路があるが
ここは直進する。
左は国道19号線の阿寺渓谷入口交叉点で、
中北道標「←フォレストスパ木曽1.6km野尻駅1.5km→」 がある。
中山道は、、三留野(みどの)宿まで、まっすぐ木曽川を南下するコースである。
下り坂を進むと右手にJRの旧第3仲仙道踏切が現れる。
この踏切を渡るとフォレスパ木曽に行く道である。
中山道はこの踏切を右に見て正面の筋に入る道で、県道とはここで別れる。
この分岐点には、 道標「←国道19号線 フォレスパ木曽→」がある。
旧道は国道19号線の高架下を進み、先でJR中央本線を第13仲仙道踏切で横断する。
右手の木曽川の対岸に阿寺温泉の建物が見える。
更に進むと三叉路があり、直進すると左にターンして読書ダムに橋を渡り、
右方に行くと阿寺温泉恋路の湯がある。
道標にあるフォレストスパ木曽はここの宿泊施設である。
(注)木曽川対岸にある、阿寺渓谷は四季を通じて美しい渓谷で、滝もあり、
トレキングするのにはよいところである。
そのベースになるのが阿寺温泉恋路の湯で、
その南にある柿其渓谷を含めたハイキングコースは中部地方の人気あるコースの一つである。
中山道は左折し、JRの踏切に向う。
中山道はJR中央本線を第14仲仙道踏切で横断し、南下していく。
勝井坂を上り、長閑な街道をモクモクと歩き、小滑沢を新茶屋橋で渡る。
この辺りに、かって、 新茶屋立場がありました。
八人石村を過ぎると、中山道は国道に合流する。
この分岐点には、 中山道道標「左野尻宿 右三留野宿」 がある。
八人岩沢を下横橋で渡り、渡詰めを左折し、十二兼の上り坂を進む。
突当りのヘアピンカーブを回り込み、次いで突当りの田口マーク墓地下を左に進む。
左に回り込むと、左手の段上に、文政二年(1819) 建立の馬頭観音、
宝暦十年(1760) 建立の観音像、弘化三年(1846)建立の廿三夜塔等がある。
十二兼村は立場で、牛方の往来で大いに賑わった。
先に進むとT字路に突き当たるので、ここを左折する。
すぐ先の左側に、天保十三年(1842) 建立の天照皇大神宮常夜燈がある。
その先の三叉路で、右の下り坂に入ると、左側の石段上に熊野神社がある。
国道19号線の十二兼北交差点に出ると十二兼北信号機の左下に仮設の地下道がある。
沢水用の水路であるが、この地下道のお陰で、
国道とJR中央本線を安全に横断することができる。
地下道を出ると突当りの旧国道を左折する。
十二兼集会所バス停を過ぎると、左側の小高いところに、無人駅の十二兼駅がある。
駅の国道側に 「一里塚跡」 の石碑が建っている。
街道の先に、十二兼一里塚があったが、国道と中央線の敷設により消滅してしまった。
南塚には榎二本、北塚は松一本が植えられていたといわれ、江戸より七十八里目である。
◎ 三留野宿
その先の三叉路の右手に、柿其橋が架っている。
橋の中央まで進むと、眼下に、「南寝覚」 と呼ばれる柿其峡の景観が広がる。
木曽川の浸食により、花崗岩の側璧岩床が露出したものである。
橋を渡り、柿其渓谷を奥に行くと大きな滝もある。
街道に戻ると、その先に、 「中川原明治天皇御小休所跡」 と、 「御膳水跡」 の碑が建っている公園がある。
「 明治天皇は、明治十三年(1880)六月二十七日、福島から寝覚ノ床で休憩し、
須原定勝寺で昼食、中川原で御小休、三留野で宿泊された。
中川原の桜井太助宅で休憩され、羅天の難所越えに備えられたという。
巡行を記念し立てられた碑であるが、
国道の工事により移転を余儀なくされ、二度目に移転でこの場所に設置されたという。
」
中山道は柿其入口交叉点で国道に合流する。
国道の左に山が迫り、山側には中央本線の上下二本が離れて敷設されている。
一本は国道に沿って進むが、もう一つは山中を第一羅天トンネル、第二羅天トンネルをくぐり、
南下していく。
羅天橋からは木曽川沿いの道になる。 羅天から与川渡までは
木曽路最大の難所、羅天桟道跡である。
(注) かっての中山道は羅天橋から与川渡までが木曽路最大の難所であった
断崖が木曽川に垂直に落ち込んでいるところに、桟道を付けた羅天桟道である。
現在は国道として整備されているため、垂直に落ち込んでいるところも通るが、
その実感は感じることはない。
「木曾路名所図会」 によると、
「 三留野より野尻までの間、はなはだ危うき道なり。
この間、左は数十間深き木曽川に 路の狭き所は木を伐りわたして並べ、
藤かづらにてからめ 街道の狭きを補ふ。
右はみな山なり。 屏風を立てたるごとくにして、 その中より大岩さし出て路を遮る。
この間にかけ橋多し。 いづれも川の上にかけたる橋にはあらず。
岨道(そば、みち)の絶えたる所にかけたる橋なり 」 とある。 」
江戸時代には木曽川に迫りくる山側に、かろうじて道をつくったという状況だったようである。
土木技術がない時代なので、道らしい道がつくれず、山の脇を撫でるように道をつくったが、
途絶えた場所では橋を架けて谷を渡し、岩と岩の間を乗り越えていったのである。 」
国道の脇に設けられた木曽川上の道を歩くと、 木曽川に注ぐ与川渡(よかわと)に出る。
三留野へ到る与川道の追分である。
「 与川道は、与川を遡って、
上流からぐるーと山を回り三留野へ到る道である。
慶安元年(1648)に、羅天桟道が開通するまで、中山道として使われていたが、
開通後も蛇抜けや木曽川の出水により、通行止めになると、迂回路として使用された。
与川渡の手前左側に蛇抜けの地蔵がある。
天保十五年(1844)の蛇抜け(土石流)により、
犠牲になった御用材木伐採作業者九十九名を供養するため、祀られた。 」
与川渡の手前からは、国道の脇に歩道が復活する。
金知屋(かなちや)集落を過ぎると、中山道は国道と分かれて、左の264号に入る。
坂を上がって中央本線のガードをくぐるが、この辺りは昔は断崖絶壁であったらしい。
道はまたも難所であった牧ヶ沢を渡る。
枝垂れ梅が残る牧ヶ沢からの上りの坂はべに坂である。
坂を上がって行くと、左側から与川道が合流してくる。
ここが与川道の追分で、「←与川経由野尻駅14.5km 南木曽駅1.1km→」 の道標がある。
べに坂を上り詰めたところが三留野宿の枡形跡で、ここが江戸方(東)の入口である。
「
三留野宿は、木曾十一宿の一つで、三留野宿の長さは二町十五間(250m程度)と短いが、
天保十四年の中山道宿村大概帳によると、家数77軒、宿内人口594人、本陣一、脇本陣一、
旅籠32軒で、妻籠と並んで栄えた宿場だったところである。
明治十四年(1881)の大火で全焼し、現在の建物はそれ以降のものである。
また、明治以降、国道が開通し、人家も国道に沿って建つようになると、
生活の中心が下に移動してしまったので、
旧中山道は車も人もほとんど通らない静かな通りになっている。 」
宿場のほぼ中央、下り坂の途中の左側の民家の前に、 「脇本陣跡」 の説明板がある。
説明板 「三留野宿脇本陣跡
「 木曽十一宿には本陣と脇本陣がそれぞれ一軒ずつ置かれていた。
本陣は江戸時代の初めに定められていたが、脇本陣は交通が頻繁になった中期以降に設置されていった。
脇本陣はその名の通り、本陣を補完するためのもので、三留野宿では代々宮川家が
勤めた。
宮川家はまた三留野村の庄屋を勤め、本陣の鮎沢家、問屋の勝野家とともに指導的な役割を担った。
宮川家があるこの周辺が江戸時代の三留野宿の中心部であった。
なお、三留野宿は明治十四年(1881)の大火により全焼し、現在の建物はそれ以降のものである。
平成十二年十一月三日 南木曽町教育委員会 」
脇本陣のすぐ先の右側に鮎沢家が代々務めた本陣跡がある。
本陣跡は長野地方法務局南木曾出張所になったが、現在は森林組合の建物が建っていた。
その前に、説明板と 「明治天皇行在所」 の石碑が建っている。
説明板 「三留野宿本陣跡」
「 この長野地方法務局南木曾出張所跡地は三留野宿本陣があったところである。
本陣の建物は明治十四年七月十日の三留野宿の大火で焼失してしまった。
ちなみに、この時の三留野宿の被害は家屋七十四軒、土蔵八軒に達した。
しかし、庭木の枝垂れ桜(町の天然記念物)と、明治天皇御膳水が本陣の名残りを留めている。
明治天皇は火災の前年の明治十三年六月二十七日に一泊されている。
御膳水の井戸は昭和五十四年に復元したものである。 」
三留野宿には古い家も残っていた。
本陣の先、右側のガードレールの切れ目から狭い階段を降りて、
下の道にでる。
ここには 「南木曽駅・中山道」 の道標がある。
階段を降りたところには常夜燈がある。
三留野宿は以上で終わる。
◎ 等覚寺(とうかくじ)
下の道で左折して進むと県道に合流した。
右折して県道に入り、梨沢橋を渡る。
渡り詰めを左に折れ、坂を少し上ると読書小学校のグランドで、左に小さな橋が架かっている。
その左側の橋を渡ると等覚寺がある。
三留野本陣の北方ある等覚寺は、日星山等覚寺という曹洞宗の寺院である。
山門をくぐると、正面に本堂、左に円空堂がある。
円空は、江戸時代初期の僧侶で、全国を行脚し、各地になた彫りの仏像を数多く残した。
円空堂の戸を開け、百円を供え、右側のガラス箱を覗くと、仏像が三体入っているのが見えた。
左から天神像・韋駄天像・弁財天十五童子像である。 大きいもので四十九センチしかない。
寺の弁天祠棟札に、「 貞享三年(1686)につくられた 」 と記されているとのことだったが、
これ等は円空が当地に滞在したときに彫ったものである。
◎ 桃介橋
先程の道に戻り、梨沢橋の先に進み、木製の蛇抜橋を渡り、木材の貯木場の上に至る。
下には貯木場、その先の木曽川には福沢桃介が架けた桃介橋が見える。
「 福沢桃介は、大正八年に隣の賤母(しずも)に、賤母発電所を築く。
大正十一年九月、三留野に読書(よみかき)発電所建設資材運搬路として、
木曽川に橋を架けた。
現在、 「桃介橋」 と呼ばれている橋は、全長三百四十七メートル、幅二メートル六十センチ。
木造の吊り橋(木製補剛桁を持った吊り橋)としては、日本有数の長大吊橋である。
下部は石積み、上部はコンクリートの主塔三基を有し、当時の土木技術を駆使したもので、
十九世紀末のアメリカの吊り橋に似ているといわれる。
この橋は地元の生活道路になっていたが、老朽化が進み、
廃橋寸前になっていたのを復元保存された歴史的に貴重な橋である。 」
南木曽駅の上方に位置する道の左手に園原先生の碑がある。
この碑は彼の死後の五年後の天明元年(1781)に立てられたものである。
この辺りは和合の集落で、木曽で初めて酒を造った里である。
味は「軽淡、愛すべし」というものであったらしい。
その先は南木曾(なぎそ)駅、妻籠や馬籠への玄関口なので、特急も停まる。
倉本駅からの旅はここで終了である。
須原宿 長野県大桑村須原 JR中央本線須原駅下車。
野尻宿 長野県大桑村野尻 JR中央本線野尻駅下車。
三留野宿 長野県南木曽町読書 JR中央本線南木曽駅下車。
(所要時間)
倉本駅→(1時間50分)→須原宿→(1時間)→岩出観音→(30分)→弓矢集落→(1時間30分)→野尻宿
→(1時間40分)→柿其峡→(1時間40分)→三留野宿→(20分)→南木曽駅