名所訪問

「 中山道 贄川宿・奈良井宿 」

かうんたぁ。


JR中央本線日出塩駅から、贄川宿・奈良井宿を歩く旅である。

◎ 贄川宿(にえがわしゅく)

JR中央本線の日出塩駅は無人駅である。
この駅で降りて、中山道を歩く。
駅を出ると、中山道で北には曹洞宗秀永山長泉寺がある。 
山門前に、庚申塔・二十三夜供養塔・六地蔵等が並んで祀られている。
山門と本堂には武田葵紋があしらわれている。 

「 江戸時代、日出塩には、立場茶屋が置かれた。
立場名物は熊の皮と熊胆(くまのい)で、  江戸時代の道中案内書に、 「 道脇では獣を売る店が多かった 」 と書かれていたところである。
今や塩尻市の一角に組み込まれてしまい、当時の面影を偲ぶものは残されていない。 」

もう少し北に行ってみると、高架で線路を渡る道と合流する地点の右側に「本山一里塚 跡」の木柱が建っていて、「江戸より六十一里m京へ七十一里、両側に榎を植えた」と 記されている。 

本山一里塚
     長泉寺      日出塩駅
本山一里塚
長泉寺
日出塩駅

ここからは元に戻り、奈良井宿へ向かって南下する。
駅前を過ぎると、左側に筆塚・道祖神碑・秋葉大権現碑が祀られている。 

日出塩集落を過ぎると、ほどなく国道19号を高架でくぐる。
対面の細い道が旧中山道で、入ると左側に 「御岳神社(熊野神社上方二百メートル」 の標柱がある。 
熊野神社は左のJRのガードをくぐった右側の上にあり、 日出塩村の鎮守である。 
街道はその先で国道に合流してしまう。  合流点には、 中北道標「←1.1km南木曽碑/JR贄川駅4.6km/JR日出塩駅0.6km 本山宿2.0km→」 がある。 
この先は、左に中央西線の線路が平行して続き、 右手には奈良井川が蛇行して流れている。 
しばらく行くと、左側の ホテルアルファ の横に、上り坂がある。 
県道254号楢川岡谷線との三叉路で、254号線は牛首峠に至る道で、狭いが辰野町小野に通じる。 
ここが中山道が開設された当時の中山道の京方(西)口である。 

「 中山道が開設された当初は、 岡谷から小野峠を越し、小野宿に出て、 牛首峠からここに通じていた。 
塩尻峠越えより距離が短いためであったが、 大久保長安の死によりわずか十五年で、塩尻峠経由に変更された。 」  

直進すると、奈良井川に注ぐ桜沢川(旧境川)があり、桜沢橋を渡ると、いよいよ、木曽路に入る。 

「  桜沢橋は、往時は境橋と呼ばれ、尾張藩と松本藩との境で、高欄干付刎ね橋でした。 
架橋費用は両藩で折半した。 」

橋を渡ると、右側に東屋と「是より南 木曽路」の石碑があり、説明板が建っている。 

説明板
「 この地は木曽路の入口であり、江戸時代には尾張藩領の北境であった。 
石碑は、昭和十五年(1940)に、 百沢立場の茶屋本陣を勤めた家の藤屋百瀬栄が建立したもので、 裏面に 「 歌ニ絵ニ其ノ名ヲ知ラレタル、木曽路ハコノ桜沢ヨリ神坂ニ至ル南二十余里ナリ」   と刻まれている。 
中山道で木曽路と呼ばれるのは、 桜沢から馬籠と落合の間にある出会茶屋までの八十八キロ で、この間に十一の宿場があり、これを木曽十一宿と呼んだ。 」

いよいよ、 「すべて山の中」 の木曽路に入る。 
石碑の向かいの草道が桜沢旧道の上り口で、ヘアピンのように右にカーブする。 
眼下には奈良井川の渓谷がみえる崖道である。 
この山道は桜沢村民が開削して、通行料を徴収していたといわれる。 

左斜面に、 厄除馬頭観音塔と馬頭観音像が祀られている。
旅人の安全を見守ると共に活躍した馬や谷底に転落して亡くなった馬の慰霊塔でもあったのだろう。 
この先の道には落下防止ネットが施されている。 

道祖神、秋葉大権現碑
     是より南木曽碑      馬頭観音堂と石碑群
筆塚、道祖神、秋葉大権現碑
是より南木曽碑
奈良井川

左側に馬頭観音堂があり、 その脇に道祖神と、明和九年(1772)の南無阿弥陀仏名号碑が祀られている。 
観音堂の中には三面六臂の馬頭観世音像が祀られている。 

木曽路碑から十数分歩き、国道に出ると桜沢集落で、道路右側に数軒の家がある。 
ここは江戸時代に本山宿と贄川宿の合(あい)の宿として、 また、木曽路の入口として栄えたところで、道路下の崖下にも数軒の家がある。 
右側に、 桜沢立場茶屋本陣跡がある。 

「 茶屋本陣は、代々藤屋百瀬栄左衛門が勤めた。 
建物前には 「明治天皇桜澤御膳水」 の碑が建っている。 

馬頭観音堂と道祖神・名号碑      馬頭観音像      桜沢茶屋本陣跡
馬頭観音堂と道祖神・名号碑
馬頭観音像
桜沢茶屋本陣跡

蔵の前には「明治天皇桜澤御小休所」と「明治天皇御駐輩跡」が立っている。 
現在は普通の民家として生活しているようであるが、上段の間と次の間は残している ようである。 

桜沢の集落を過ぎると、木曽谷の谷間が狭くなり、美しい景色である。
国道には歩道が設置されているが、川側にあり、場所によっては川に飛び出して設置されている。 
川は数十米も下に流れているので、この高さから川に落ちたらと思うと、 恐怖感がでてきて、歩いていても落ち着かない。 
やがて、奈良井川の片平橋を渡る。 その下には、ダムがあり、眺めがすばらしかった。 
左側の古い橋が中山道の旧道であるが、今は通行不可になっている。 
昭和十年(1935)建築の開眼アーチ橋は土木学会推薦土木遺産である。 
片平橋を渡ると右側の草原奥に庚申塔がひっそりたたづんている。 

その先を斜め右に入って行くと片平集落がある。
この分岐に、 中北道標「←片平地区を経てJR贄川駅2.2q 是より南木曽碑1.3q JR日出塩駅3.0km→」  が建っている。 
江戸時代立場であった旧片平村の家屋には旧屋号が掲げられている。 
集落のはずれに曹洞宗飛梅山鶯着寺がある。 

「 立派な門柱があるが、お堂は民家風で、境内に延命地蔵尊を祀る祠がある。 
日出塩の長泉寺の末寺で、現在は住職はおらず。片平集落の集会所として 使われているようである。 
山号は参勤交代でここを通行した加賀前田侯が命名したと伝えられる。 前田家の家紋は梅鉢である。 」

国道19号に合流すると合流地点に、 中北道標の「←JR贄川駅 是より南木曽碑1.4km→」 がある。 
道は左にカーブし、その先の右側のよう壁の上に若神子一里塚がある。 
江戸から六十二里目で、西塚が残っている。 

「 若神子一里塚は、楢沢地区の五箇所の一里塚の一つで、 江戸時代には二基の一里塚に榎木が植えられていたが、明治四十三年の鉄道敷設の際、一基は取り壊され、 現存する一基も国道の拡張時に切り崩され、現在は直径約5m、高さ1mを残すのみである。 
石段を上らないと見られないということはかっての中山道はこの高さにあったということ である。 」 

その先で右に入ると十軒足らずの若神子集落がある。 
ここに、 中北道標「←JR贄川駅1.7km 国道経由南木曽碑1.8km→」 がある。 
若神子バス停とその先の諏訪社の手前に屋根付きの水場があり、地元の人々に利用されて いる。  
若神子集落のはずれに、 明和二年(1765)の二十三夜待供養塔・天文三年(1534)建立の道祖神・ 青面金剛庚申塔等が祀られている。 

桜澤御小休所碑
     片平付近の歩道      若神子の二十三夜待供養塔等
桜澤御小休所碑
片平付近の歩道
若神子の二十三夜待供養塔等

若神子から贄川駅までは中部北陸自然歩道の道標に沿って山沿いに歩く。 
この山道は国道に平行していて、途中で何度も国道に下りる道があるが、ひたすら山沿いを進む。 
若神子集落を出ると、中畑バス停の先の三叉路で、右に入る。 
ここには、 中北道標「←JR贄川駅1.3km 桜沢1.8km是より南木曽碑2.2km→」 がある。 
上り坂を上るとY字路で、左の細道に入ると、左下には国道とJRが並んで続いている。 
左にカーブすると、右側に直線の草道がある。 
分岐点に、 中北道標の「←JR贄川駅1・0km 桜沢2.1q→」 がある。 
この道に入ると、右側に石仏、石塔群がある。 
この先は国道に接近するが、国道脇の草道を行く。 
下遠集落を出ると明るく開けた草道のY字路になる。 
左に入ると舗装道路に変る。 この分岐には、 中北道標の 「←JR贄川駅0.6km 桜沢2.5q→」 がある。 

坂を下ると国道に合流し、右側の水場、左側の贄川駅を過ぎると、 左側に 「贄川宿」 の大きな看板がある。 
贄川歩道橋の下をくぐると、正面に大きな 「←贄川宿入口」 の標識が現れるので左折して、 関所橋(メロデイ橋)を渡る。 
この橋の欄干に鉄琴がぶら下げられていて木曽節のメロデイを奏でる。 
橋を渡った先の左側に、復元された贄川関所があり、木曽考古館が併設されている。 

説明板「贄川関所」
「 源義仲七代の孫讃岐守家持が建武二年(1334)頃贄川関所を設け、四男家光に守らしむ。
贄川関所は木曽谷の北関門として軍事的にも重要な役割を果たす。 
慶長十九年(1614)、大坂冬の陣の際は山村良安の家臣、原産左衛門、荻原九太夫、此の関の警固に当る。
元和元年(1615)五月大坂夏の陣の際は荻原九太夫、千村炊左衛門、小林源兵衛、此の関を 守り、酒井左衛門の家臣八人の逃亡者を捕まえる。 
江戸時代は木曽代官山村氏の臣下をして贄川関所を守らしめ、特に婦女の通行並びに白木の搬出を厳検せり。  」 

説明板「贄川関所考古館」
「 贄川関所は明治二年に福島関所とともに閉止され、原型は残っていないが、明治九年 贄川村誌「古関図」や寛文年間の「関所番所配置図」により現在の位置に復元したもので あります。 また、木曽考古館は村内簗場古墳等で出土した土器、石器類を展示して あります。 」 

水場      贄川駅      贄川関所
水場
贄川駅
贄川関所

太田南畝の壬戌紀行には「 駅をはなれて小高き所に番所あり。 
 尾張より番をすゑて、曲物の器を改むるという。 」 と記されている。  

「 江戸時代の贄川関所は、尾張藩領の最北をおさえていた口留番所で、 福島関所の副関所の役割を担っていた。 
女人改めや他領に出ていく木曽の木材、木製品(白木)などの監視をしていた。 
今見ることが出来るのは復元された番所の建物に過ぎないが、 野太い柱、低い石置き屋根はかっての番所の厳しさを充分実感させてくれる。 」 

関所跡の道を南進すると、右側に水場がある。 
贄川(にえかわ)宿は木曽路に入って最初の宿場である。 

「 贄川宿は中山道の中では小さな宿であったが、 宿場の北端に福島関の副関にあたる贄川関所が置かれ、檜物、曲物、漆器を生産する平沢や 奈良井が近かったこともあり、商業も活発であった。 
天保十四年(1843)の中山道宿村大概帳によると、宿の長さは四町六間(約500m)の小さな宿場 だが、家数124軒、宿内人口545人(男304人、女241人)、本陣一、脇本陣一、問屋場二、 旅籠が25軒である。 
贄川は、その昔、温泉があったことからその名がついたといわれる。 
「木曽路名所図会」 に、 「いにしえここに温泉あり、かかるがゆえに熱川と名づく」 とある。 
この宿場は宿場稼業の仕事の他、交通の要衝という地理的条件を生かして、遠隔地商業を行っていたという。
現在の贄川は、道の左側に本陣跡、脇本陣跡の標柱が建っているが、 枡形や鍵の手などの形跡も見あたらず、かっての中山道をしのばせる建物は残っていない。 
昭和六年の火災で、宿場の大部分の建物が焼失したからである。 」  

洗馬郵便局の向かいが贄川宿本陣跡である。 
本陣は木曽家の子孫、千村家が勤め、問屋と庄屋を兼務していた。 

すぐの右に、「秋葉神社 津島神社」 の鳥居がある小さな祠があり、 左側には 「朝衣廼神社」 の石柱が建っている。 

贄川関所
     贄川宿本陣跡      秋葉神社津島神社
贄川関所
贄川宿本陣跡
秋葉神社津島神社

脇道を入って行くと、JRの踏切と国道を渡った先に、山門が見えるのが観音寺である。 

「 観音寺は、高野山金剛峰寺を本山として、 大同元年(806)に創建された真言宗の寺院で、本尊は室町時代造りの十一面観音である。
山門は寛政四年(1792)に再建された楼門である。 
楼門の彫刻はなかなか立派なものだった。 」 

本堂を通り抜け、寺の墓地を通り抜けた小高いところに、麻衣廼(あさぎぬの)神社がある。 
麻衣廼は、木曽の枕詞になっている。 

「 麻衣廼神社は、天慶年間(938〜947)の創立である。
天正十年(1582)の武田信玄と木曽義昌による兵火により焼失したが、 文禄年間(1592〜1596)に、現在地に再建されたと伝えられる古社である。 
神明造りの社殿と拝殿からなり、四本の御柱が境内に立てられている。  社殿(本殿)は延享四年(1747)の再建で、三間社流造りこけらぶきで、 拝殿は慶応元年(1865)の建立である。 
祭神は建御名方命(たけみなかたのみこと)で、  諏訪大社同様、六年に一度(寅年と申年に)御柱祭が行われる。 」  

秋葉神社津島神社
     観音寺      麻衣廼神社
秋葉神社津島神社
観音寺
麻衣廼神社

街道に戻ると本陣の並びの酒屋が脇本陣跡である。 
脇本陣は贄川家が勤めた。 
その先に、又、秋葉津島神社の鳥居があり、隣に水場がある。 
鳥居の奥には二つの祠と青面金剛庚申塔や道祖神碑などが祀られている。 
水場の向かいが国の重要文化財に指定されている深澤家住宅である。 

「 深澤家は屋号を加納屋といい、行商を中心とする商家を営み 文化年間(1804-1817)京大坂方面にも販路を伸ばし、幕末には苗字が許された贄川屈指の商人である。 
主屋は嘉永七年(1864)の建築で、切妻造り、二重の出梁や吹き抜けの大黒柱など、 木曽地方の代表的な建物で、価値が高いとされる。 
北蔵は文政四年(1821)の築、南蔵は文久二年(1852)の建築である。 」  

その先の漆器店ひのき屋の先を直進する道は新道で、桜岡を経て国道に合流する。 
中山道は漆器店ひのき屋の先を右折する。 
ここが贄川宿の京方(西)の入口で、枡形の跡である。 
枡形を進み、突き当たりを左折する。 
その先はJR中央本線で分断されて、道なりにUターンする。 
突き当たりの跨線橋でJRの線路を越えて、国道19号に出て左折する。 ここで贄川宿は終わる。 

水場と鳥居
     秋葉津島神社の祠      深澤家住宅
水場と鳥居
秋葉津島神社の祠と石塔群
深澤家住宅


◎ 漆の里 木曽平沢

贄川宿を出て、中央本線を越えると右側にドライブインの食堂SSがある。 
食堂側の段上に、地蔵尊・観音菩薩・馬頭観音等の石仏石塔群があり、 奥に枝垂れ桜の古木ある。 
国道には歩道がないので注意しながら左側を歩くと、左側に木曽民芸館がある。
その前を進むと擁璧に突き当たる。 国道の脇のグレーチング(金網)の架設 歩道を歩き、グレーチング階段を上り、土手を越えると草が茂る細道に出る。 
ここが桃岡旧道で、土道が舗装道路に変ると旧桃岡村に入る。 
右手の民家を過ぎると右側に 「中仙道」 の石碑がある。 
押込坂の小さな橋を渡ると、右側に津島神社の小さな祠があり、 並びに、庚申塔・徳本名号碑等がある。 
先に進むと右側に 「塩尻市史跡押込一里塚」 の標柱が建っている。 
(注)新道に一里塚が復元されて、新しい「塩尻市史跡押込一里塚」の標柱と、「一里塚跡」の 石碑と、説明板が設置されたようである。 
また、新道の桃岡集落には水場があり、その前には木曽漆器座卓の共同展示場がある。 

街道はT字路に突き当たり、右にクランク状に進み、国道に合流する。 
奈良井川にかかる桃岡橋を渡り、次に鉄道線路の高架をくぐると国道と分かれ、左の道に入り、進む。 
分岐点に、「旧中山道」 の標識と、中北道標「←平沢駅1.8km 贄川宿1.6qJR贄川駅2.5q→」 がある。 
この旧道は深い谷間の道で、木曽谷の風情が深い。 
長瀬という集落があり、座卓などの木材加工の工場や漆の工場があり、 平沢の町内の工房より規模が大きい。 
道は一台しか通れない程の狭さで、数百メートル歩いたら国道に出た。 
合流地点に、 中北道標「←暮らしの工芸館0.5km平沢駅1.1q 贄川宿2.3qJR贄川駅3.2q→」 がある。 

国道を進み、平沢北交叉点で国道と分かれて、右の川側の道に入ると左側に
木曽くらしの工芸館がある。 
駐車場も広く、道の駅 ならかわも兼ねている。 
木曽漆器の展示館やレストランなどがあり、 二階には地元作家の作品も展示されていて、おもしろかった。 
長野オリンピックのメダルもここの工房で作られた、と説明があった。  

押込一里塚
     桃岡集落の水場      木曽くらしの工芸館
押込一里塚
桃岡集落の水場
木曽くらしの工芸館

工芸館を出て県道257号木曽平沢戦を歩く。
物見坂を進むと、左手に塩尻市楢沢支所がある。 
小生が訪れた頃は楢川村役場であった。 
駐車場の一角に、芭蕉の句碑がある。
 表に 「芭蕉翁」、側面に 「 送られつ  をくりつ果ては  木曽の秋  」 と刻まれている。
宝暦十一年(1761)に木曽代官山村甚兵衛良啓(たかむら)が建立したものである。 

近くには地場産業のシンボルの「漆供養塔」がある。 
芭蕉の句碑の裏、右手の諏訪坂が中山道で、二十三夜塔があった。 
坂を上ると諏訪神社の鳥居があり、うっそうとした森の中に諏訪神社の社殿がある。 

「 諏訪神社は、文武天皇の大宝弐年(702)の創建だが、 天正十五年(1582)鳥居峠の合戦で木曾義昌に敗れた武田勝頼は敗走の際、 社殿に火を掛けさせ全焼させた。 
朱塗りの社殿は江戸時代後期の享保十七年(1732)の再建で、二間社流造り、こけら葺きで、二百七十年以上経っている。 」 

芭蕉句碑
     諏訪神社鳥居      諏訪神社社殿
芭蕉句碑
諏訪神社鳥居
諏訪神社社殿

笹原に庚申塔を二基見付けた。 
社殿の右脇と御柱の間をぬけ、石段を降りると県道に合流する。 
ここには、中北道標「←JR木曽平沢駅0.5qJR奈良井駅2.5q 木曽くらしの工芸館0.9q→」 がある。 
その先は漆器の町、平沢である。 
贄川宿から平沢は約五キロ、一時間ちょっとかかった。 
平沢は江戸時代、奈良井宿と贄川宿との間に設けられた合の宿があったところである。 
平沢は度重なる火災で古い建物は残されていないが、プーンと漆の匂いがしてくると錯覚 するくらい、多くの漆器店や工房が軒を並べていて、国の重要伝統的建造物群保存地区に 指定されている。 

「 江戸時代は奈良井が漆器製造の本場だった。 
享保九年(1724)には塗物師四十四軒、絵物師九十九軒があったのに対し、 平沢は桧細工に漆を塗る職人には十数軒に過ぎなかった。 
奈良井の塗櫛がブームになると、そちらにシフトとし、奈良井の漆器業は次第に寂びれていった。 
木曽の地は農地が少ないため、白木細工に活路を見出すしか方法がなかったのである。 」

平沢のほとんどの家はなんらかの形で漆器に関係するといわれる木曽漆器の町である。 
頼めば実際の工程を見せてくれる店が多い。 
なかでも、手塚万右衛門漆器店は店頭の 「千切屋万右衛門漆器店」 「木曽漆資料館」 の 看板が長い歴史を伝える代表的な老舗である。 
店内には漆器にまつわる古い資料も展示されている。 

集落の終わりの左手に、木曽漆器館とうるしの里広場公園がある。 

「 木曽漆器館は漆器に関する資料や用具が集められている資料館で、 これらの収蔵物は、平成三年に、国の重要有形民俗文化財に指定された。 
ここでは昔からの名品や漆器の製品工程、漆の採取道具などを見ることができる。 」  

庚申塔      平沢の町並      ちぎりや(木曽漆資料館)
庚申塔
平沢の町並
ちぎりや(木曽漆資料館)


◎ 奈良井宿

町のはずれの右側に津島神社があり、境内に道祖神や御嶽山三社大神が祀られている。 
境内の京都側に中北道標があり、「←奈良井駅1.7kmJR木曽平沢駅0.5km 諏訪神社0.7km→」  がある。 
神社の先の三叉路で左斜めの上り坂を上ると県道に合流する。 
右側の笹良漆器店の先で、JR中央本線の踏切の手前で右の下り坂に入る。 
車止めのJRのガードをくぐると奈良井川沿いの土手道に出る。 
奈良井川のせせらぎを聴きながら快適に歩ける遊歩道である。  
土手道を進むと奈良井川の対岸に橋戸一里塚跡がある。 

「 文化三年(1805)の中山道分間延絵図に、「此の辺り古往還一里塚」 とあるもので、 街道付け替えで取り残された貴重な一里塚である。 
江戸より六十四里目で、手前に歩道橋があるので対岸に渡ることができる。 」

土手道を進むと小橋がある。
橋のたもとに、 中北道標「←JR奈良井駅0.8q JR木曽平沢駅1.4q→」 がある。 
この橋は渡らず直進し、奈良井川橋を渡る。 
橋の袂の左側に 「右中山道左国道」 の石碑がある。 
奈良井川橋を渡ると県道258号奈良井線となり、三叉路があるので左に進る。 
線路に沿って進むとJR奈良井駅があり、背後の鳥居峠の山容が見えた。 
平沢から奈良井の駅までは約二キロで、三十分足らずで到着した。

駅前には 「木曽奈良井宿」 の標柱と、案内板、そして石屋根の建物が建っている。 
奈良井宿は中山道一の難所であった鳥居峠をひかえた宿場である。 

「 奈良井宿ができたのは古く、鎌倉時代の始め頃と言われる。
慶長七年、徳川家康により、中山道六十九の宿場が定められると、奈良井宿もそのひとつに 選ばれた。 
「奈良井千軒」 とうたわれていた旅宿で賑わい、また、塗り櫛や曲物の産地としても有名であったため、 薮原宿からは一里十三町、贄川宿からは一里三十一町しかないが、 旅人たちは峠越えの前とか後に奈良井で骨を休めるのが常だった。
天保十四年(1843)の中山道宿村大概帳によると、家数409軒、宿内人口2155人(男1104人、 女1051人)、本陣一.脇本陣一、旅籠15軒であった。 
宿場は木曽路で標高が一番高い940mの位置にあり、標高1197mの鳥居峠越えが控えていた。 
宿場は上町、中町、下町の三地区で構成され、 八町五間(約870m)と薮原宿や贄川宿の約二倍の長さがあった。 
奈良井宿は、南北約九百メートル、東西二百メートル、面積十七ヘクタールの土地に、 現在、約二百軒の建造物が並ぶ。 
江戸から明治にかけて建築された建造物が百六十余りあり、 昭和五十三年(1978)に国の伝統的建造物保存地区に指定された。 
ほとんどの家が日常生活をしながら、修理・保存に取り組んでいるという。
現在でも生きている宿場町としての努力や活動は称賛に値する。 」  

駅を過ぎると左側に木曽五木が植栽されている。 
木曽五木は、檜(ひのき)・椹(さわら)・鼠子(ねずこ)・翌檜(あすなろ)・高野槇(こうやまき)で、 これらの五木は尾張藩の厳しい管理下に置かれ、枝一本腕一本、木一本首一本といわれた。 」

その先を右に入り、ヘアピンカーブを上ると、左側の石段上に八幡宮があり、 誉田別尊(ほんだわけのみこと)が祀られている。 
奈良井宿の丑寅の方向にあることから、鬼門除けの守護神として崇敬され、奈良井宿下町の鎮守である。 
参道口に戻ると杉並木がある。 
前述の橋戸一里塚から続く古中仙道の杉並木の痕跡で、現在十七本が残っている。 

杉並木を進むと左側に庚申塔の大きな石碑や石塔があり、その奥に地蔵堂がある。 
地蔵堂の前に、聖観音を始め、千手観音・如意輪観音・馬頭観音などの観音像が二百体近く 祀られていて、一体一体違った表情をしている。 
これらは明治期に国道開削や鉄道敷設の際に奈良井宿周辺から集められたものである。 

杉並木
     地蔵堂      二百地蔵
杉並木
地蔵堂と石仏、石塔群
地蔵堂前の二百地蔵

右側の石垣は奈良井宿の江戸方(東)入口の枡形跡である。 
右側の石置屋根の下町水場がある。 下町水場組合が運営している。 
先の右奥に関ヶ原の戦いに向った徳川秀忠の陣屋になった法然寺がある。 
左側に寛政五年創業の杉の森酒造がある。 
蔵元の対面に横水水場がある。 
かって、横水 という沢があり、ここが下町と中町の境であった。 
横水水場の右手冠木門の奥に大宝寺がある。 

「 大宝寺は臨済宗妙心寺派の禅寺で、広伝山大宝寺という。 
寺のパンフレットによると、 「 天正十年(1582)、当時の領主、木曽氏の 支族・奈良井治部少輔義高が建てた寺で、大安和尚が開山である。 
江戸時代に入り、明暦年間、玉州禅師が中興し、福島の代官・山村良豊が寺門を修造し、 万治元年(1658)には現在の本堂を建てた。 」 

江戸時代に書かれた木曽名所図会に、庭園について、 「 寺の庭に臥竜樹あり、長さ五丈許(ばかり) 義高の薬園の跡なり 」  の記述があり、 心字池に、亀島・三尊仏石・蓬莱石などの岩石を用い、背景には槙、楓、杉の樹木で山とした嵯峨流の作庭である。 
この寺はマリヤ地蔵で有名であるが、マリヤ地蔵は寺の裏手の墓地の中にある。 

「 マリヤ地蔵は、昭和七年、寺の近くの薮の中から発掘され、 現在地に移されたもので、膝の上に抱かれた子供が手にもつ蓮の花はたしかに十字架に見える。 
キリシタン禁制の時代に、信者が地蔵の姿を借りて聖母マリアを拝んだものだろう。 
仏教の子育地蔵になぞえて作られた石像だが、役人に見付かり、頭部、抱かれた子供や膝を 壊されて、捨てられてしまった、といわれるものである。 」  

下町水場
     杉の森酒造      マリヤ地蔵
下町水場
杉の森酒造
マリヤ地蔵

「木曽の奈良井か藪原流か、麦もとらずに飯をたく」 と、 経済的に豊かな奈良井が白米を食べていることを羨んだ俗謡に、 宿場の繁栄ぶりをうかがうことができる。 
奈良井宿は、天保年間には旅籠に茶屋などを合わせると三十九軒に及び、 その数は木曽十一宿中最大である。 
狭い道の両側には、長い軒先を突き出した家屋が並ぶ。 
江戸時代、中町には宿場機能が集中していた。  今はみやげものやと食事処や旅館、民宿がある。 
左側に郷土館と茶房を営む徳利屋がある。 

「 徳利屋は、江戸時代、脇本陣と高級旅籠と問屋を兼ねていた。 
この屋号はとっくり(徳利)からの命名のようである。 
昭和初期まで営業していて、島崎藤村・幸田露伴・正岡子規などの文人が宿泊した。 
みがきこまれて黒光りする階段箪笥や大きな自在鈎のあるいろりなど、歴史的に貴重なものがある。 
地粉の手打ち蕎麦や独自の三色五平餅を商っている。  」  

並びの松阪屋は朱塗りの大看板を掲げている。 
奈良井の名産だった塗櫛を現在も扱うただ一軒の店である。 

奈良井宿の家並      徳利屋      松阪屋
奈良井宿の家並
徳利屋
塗櫛を扱う松阪屋

右側の池の沢水場から奥の奈良井郵便局方面に入ると、嘉永二年(1849)の常夜燈があり、 その奥に 「本陣跡」 の標柱がある。 
本陣職は、代々九郎右衛門が襲名したが、本陣は江戸末期に焼失し、以後再建されることはなかった。 
本陣門は長泉寺の山門になっている。 

街道に戻ると、左側に寛政年間創業という、 ゑちごや旅館(越後屋) がある。 

「  軒下の看板は江戸方がゑちごや、京方面は越後屋と、描かれている。  
軒下には明治時代のランタンがぶら下がり、夕方には江戸時代の袖行灯が出される。 
部屋数が少ないのでなかなか予約がとれないときいた。 」

続いて、右側に文政元年(1818)創業の 旧旅籠伊勢屋 がある。 
脇本陣を勤め、下問屋を兼ねた。 現在も旅館を営んでいる。 

隣に国の重要文化財に指定された手塚家住宅がある。 
江戸時代上問屋だった家で、現在は上問屋史料館になっている。 

「 手塚家は慶長七年(1600)より明治維新まで上問屋を勤め、庄屋を兼務した。 
家の前に、「明治天皇駐輩碑」 と 「明治天皇奈良井宿行在所」 の石碑があり、 奥の一室は明治天皇巡幸の際に行在所となった部屋で、当時のままに残されている。 」

ゑちごや旅館
     伊勢屋      上問屋史料館
ゑちごや旅館
伊勢屋
上問屋史料館

その先の右手奥に、曹洞宗玉龍山長泉寺がある。 

「 貞治元年(1355)の創建で、本尊は元禄二年(1689)造の釈迦尼佛である。 
当寺は寛永十年(1633)に徳川家光に始まった御茶壺道中の宿泊所だった。 
山門は奈良井宿本陣門が移築されたものである。 」

街道は縄の手(西の枡形)に突き当たる。 
正面に荒沢不動尊が祀られている。 
並びに、「中山道奈良井宿縄の手」 の石碑が建っている。 
ここには鍵の手手水場があるが、ここが中町と上町の境である。 
水場の背後に庚申塔、馬頭観音、二十三夜塔等の石塔群がある。
その先の右側に、塗櫛創始者の中村家がある。 

「 中村家は、天保の豪商・櫛屋中村利兵衛の屋敷で、塗り櫛の創始者 中村惠吉氏の家である。
この建物は天保八年の奈良井宿大火直後に建てられたもので、 二階建ての出梁造りの家である。 
この家は二階をせりだした出梁造り(だしばりつくり)の 建物で、くぐり戸、蔀戸(しとみど)のある家で、千本格子が町並みの遠近感を強調して いる。」

入館し、係員から「 櫛屋が豪商 になった。 」 と聞いたので、質問したら、
「 江戸時代の櫛は髪を梳く櫛と、髪を結う櫛の二種類あり、髪結いは数十本の櫛を持ち歩いていた。 
これらの櫛は全て無地のものだったが、中村惠吉氏が塗り櫛を考案して世に出したところ、 江戸や上方の女性から 「頭を飾る櫛」 として人気を集め、大成功を収めた、と、 いわれる。 」 との答え。 
この地特産の櫛製造と木曽漆器の技術を融合し、これまでにない新製品を考案した訳で、 豪商になったのは当然なのだろう。  」  

荒沢不動尊
     鍵の手手水場      塗櫛創始者中村家
荒沢不動尊
鍵の手手水場
塗櫛創始者・中村家

宿場の外れにくると、右側に高札場がある。 
奈良井宿の高札場は、京方の入り口にあたるこの場所におかれ、 明治のはじめごろまで使われていた。
その後、街道の廃止にともない撤廃された。
この高札場は当時の絵図にもとづいて昭和四十八年(1973)に復元されたものである。 

宮の沢水場があり、その奥には庚申塔、馬頭観音、廿三夜塔等の石塔群が祀られている。 

説明板「水場(みずば)」
「 奈良井宿の町並を特徴づけている水場は、 生活に欠かせない生活用水の確保や、火災が発生した場合に、 連なる家々への延焼を防ぐため、山からの豊富な沢水や湧き水を利用して設けられた。
また、中山道を歩く多くの旅人が難所鳥居峠を越えるために水場で喉を潤した。 
現在、奈良井には六箇所の水場が整備され、それぞれに水場組合を作り、維持、管理を行っている。 」  

その先の交叉点を越えると左側が枡形で、ここが奈良井宿の京方(西)の入口であった。 
その右側にあるのが鎮神社である。 
峠の登り口にあるので、道中の安全祈願に参詣する人が多かったらしい。 

 「 鎮神社(しずめじんじゃ)は奈良井宿の守護神で、疫病などが侵入してくるのを守っていた。 
鎮神社は別名、鎮大明神 ともいわれ、奈良井・川入の氏神で、祭神は経津主神である。 
十二世紀後期、中原兼遠が鳥居峠に建立したものを、天正年間(1573〜1592)に奈良井氏がここに移した。 
元和四年(1618)、疫病が発生したため、下総香取神社よりご神体を迎えて鎮めたことから、 鎮神社という名が付いたと、伝えられる。 
本殿は寛文四年(1664)の建築で、立派なつくりには感心した。 」 

隣に、木曽楢川歴史民俗資料館があり、宿場の史料や民具などを展示している。 
庭先には山口青邨の句碑がある。
  「   お六ぐし   つくる夜なべや   月もよく    」

奈良井宿は中山道の宿場の中で一番江戸時代の情緒が残っているところで、見るところが多い。 
店頭に酒林が人目を引く平野屋酒造店や木曽漆器を扱う店や木曽櫛を商う店など、半日いても あきないところである。 

高札場
     宮の沢水場      鎮神社
高札場
宮の沢水場
鎮神社

本山宿  長野県塩尻市本山  JR中央本線日出塩駅から徒歩20分。  
贄川宿  長野県塩尻市贄川  JR中央本線贄川駅下車。  
奈良井宿  長野県塩尻市奈良井  JR中央本線奈良井駅下車。  

(所要時間) 
JR日出塩駅→(30分)→「是より南木曽路」の碑→(1時間40分)→贄川宿
→(1時間30分)→平沢集落→(1時間30分)→奈良井宿 



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